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ショッピングモールの中は涼しく、静かで快適だった。
二階の本屋ではぬっきーと星川さんが、セラの真後ろで聞き耳を立てているのだろう。
インドカレー屋さんのメニューを眺めたり、ボーとしたりしていると、店の中から肌が濃い色をした男がチラシを持って出てきた。
「オニサン、カレー食べてく? サービスするよ」
「また今度来ますよ」
「そう。待ってるよ」
男はチラシを押し付けると、店の中に戻った。どうやら客は一人もいないようだった。こういう店はいつも客がおらず閑古鳥が鳴いているイメージがある。それなのにどうやって採算を取っているのだろうか。
不思議に思っているところでぬっきーと星川さんが戻ってきた。
なぜか二人の雰囲気が暗い。ぬっきーは仮面を付けており表情はわからないし、星川さんも長い前髪で普段明るいとはいえない。だが、それでもわかってしまうほど、二人の空気は淀み、光が遮られているかのようだった。
嫌な予感がした。
もしかして、セラに彼氏がいたということなのだろうか。
二人に尋ねることがなかなかできない。
「セラさんなんだけど……」
口火を切ったのはぬっきーだった。
ゴクリと唾を飲み込むと、はっきりとした異物が喉元を通り過ぎた。あれ、唾ってこんなに硬かったっけ。
唇がカサカサする。唾で喉を潤したはずなのに、急に喉が渇いてきた。
「うん、どうだった?」
「いじめられてたにょ」
え
俺の嫌な予感は、宇宙で活躍する密輸業者を凌ぐほど的中すると思っていたが、その予感は外れた。考えもしていなかったことを言われた。
ぬっきーの言葉が理解できない。彼は宇宙の言語でも話しているのか?
心臓の鼓動が聞こえはじめた。誰の心臓の音だ? うるさいぞ? これはしっけい。俺の心臓みたいだ。
宇宙人の理解できない言葉をきいて、急に鼓動がバクバクし始めることなんてあるか?
きっとないだろう。
でも、意味がわからない。
「どういうこと?」
若干震えた声で、弱々しくしく尋ねることしかできなかった。
**********
ぬっきーの説明を信じることができなかった。何回、あのできごとを説明してもらったのだろうか。ついには口を閉ざしていた星川さんも混じって、セラがいじめられていた、いじめられているかもしれないことを、伝えようとしてくれた。
でも理解できなかった。多分一生理解できないし、信じることはできないだろう。例え何万回、話を聞いたとしても、その時間は無駄になってしまうだろう。
セラは明るくて、優しくて、どこか意地悪で、勉強も運動もできて、顔も可愛い。それなのにいじめられている?
ありえない話だ。
机の上にマグカップに入ったコーヒーがある。これに火を付けたら爆発するんだ。実はコーヒーはよく燃えるんだ。
なんて唐突に言われても、信じないだろ?
コーヒーなんてほとんど水みたいなもんだ。それが燃えるなんてイメージできないだろ?
それと同じで、セラにいじめられる要素なんて全く見当たらない。だから、信じることができない。
でも、コーヒーを着火している様子を見たことはあるかい? 俺はない。もしかしたらよく燃えるかもしれない。目にしたことがないから、もしかしたら燃えるのかもしれない、と思う自分も心の隅っこに存在している。
ファミレスの店内に一人でいる。
昨日、セラがいじめられているとぬっきーから聞いてから、ずっと考えている。
学校が終わって、校舎を出たら、潮の匂いがする暖かい風が吹いたんだ。それを嗅いだ途端、急激にコーヒーを飲みたくなった。まるで、砂漠の中心でミイラになりかけている人が水分を求めているみたいに、心の底がコーヒーを求めた。そしてファミレスに一人で来たんだ。
ファミレスは閑散としていて、ついでに勉強道具も広げてみた。でも多分勉強はしないだろう。ただ少しは気がまぎれる。
ドリンクバーを頼み、コーヒーを一口飲んだら、もう飽きてしまったんだ。あんなに飲みたかったのに。欲していたのに。
一人でファミレスにきて、なにやっているんだろう。
昨日のぬっきーと星川さんの話はこうだった。
二人はセラたちを追って本屋さんに入った。
セラは、本を買わされそうになっていたらしい。それもグループ全員に。
「お金がない」
とセラが拒否すると、
「盗め」
と指示されていたらしい。
それもセラが拒否すると、
「あの動画をアップロードするよ?」
と猿みたいな顔をした男と、狐みたいな顔をした女に脅されていたらしい。
猿顔の男はリーダー格で、ぬっきーはモンキーの【モン】と名付けていた。
脅迫を受けたセラは交渉して、今回はお金がギリギリ足りるモンの本だけ購入することになったらしい。
セラはモンが欲しがる本を買わされたのだ。それなにこんな約束を押し付けられていた。
「来週までに全員分の本を買わなければ、動画を鍵垢で公開する」
動画はどんな内容かわからないが、邪推はよくない。ただ少なくとも、セラにとって良くない動画であることは確実だ。
これが、ぬっきーと星川さんが目撃し、何度も俺に説明してくれたことだ。
二人が嘘をつくはずはないし、これは本当にあった出来事なのだろう。話の内容から、モンは糞みたいな野郎で、他の奴らも糞みたいだということはよくわかった。
でも、信じられないのだ。あのセラがいじめられてるなんて。
考えたくもないんだ。自分の好きな人がいじめられているなんて。
きゃっきゃとうるさい高校生たちが入店してきた。
男二人組で、セラと同じ北高の制服に袖を通している。
まわりのことを考えず、大きな声で話す男たち。
勉強はできるのに、周囲のことは考えられない馬鹿なんだな。どうか俺の近くの席にだけは来ないでくれ。願掛けで砂糖なしのコーヒーをイッキ飲みするからさ。
苦い。でも、苦いと知っているので、なんとか耐えることができる。もし、このコーヒーをコーラだよと言われてイッキ飲みをしたら、すぐに口から吹き出すだろう。それだけ、思い込みというものは強力なファクターなのだ。そういえば、セラにそれをやられたんだった。
願掛けは虚しくも叶わず、男二人組は俺の真後ろの席に着いた。
当然のように大声でくちゃくちゃしゃべる男たち。
俺は耳を塞いで、勉強道具でも眺めようとしたときだった、
「あいつホント可哀想だよな」
「確かにな。猿島たちもやりすぎだと思うけどな。本無理やり買わせたりなんやり」
「知ってるか? 今日なんて、上履きに画鋲入れてたんだぜ?」
「そうなのか? 知らなかったよ。痛がってた?」
「痛がってたどころか、血がでてて、保健室に行ってたよ。すごい痛そうだった。半泣きしてたもん」
「可哀想だよな。顔は可愛いのに。嫌がらせされて、クラスの皆からも無視されて」
「でも、しょうがないよ。あいつが悪いんだから」
「それは否定できないな。勉強でもするか」
北高の見知らぬ二人のなにげない会話は俺の関心を磁石のように引き寄せた。
つまり、他にもいじめられている人がいて、この学校ではいじめが蔓延っているということなのだろう。まったく北高は酷い学校だ。
……
北高で、本を買わされ、いじめを受けている疑惑のある人間を、俺は知っている。
なにかがおかしい。
男たちの下品な会話を耳にしたくなかったので、俺は店を出ることにした。
時間帯はもう夕方だがまだまだ外は明るい。
遠くの空で、入道雲が浮いている。日が直接当たるとこは真っ白で、当たらない面は灰色をしている。あの雲の下では、雨が降っているのだろうか。
交差点に差し掛かったときだった。
肩を強く叩かれた。
「よッ!」
なんと、セラだった。