第8話 善人ではない
「ハオランの仕事ってなんだ?」
「……」
「俺には見当もつかない」
「……」
振り返ることもできないまま必死に語りかける。
依然としてハオランが応えることはないが、意味はあると信じたかった。
「俺に黙っててほしいのか? それとも……」
「エヴァン、今日のことは忘れろ。お前はここに来ていないし、俺は誰とも会ってない」
エヴァンの言葉を遮るようにハオランが口を開く。そして無難に済ませられるよう提案した。
きっと、エヴァンが言うはずだった言葉を聞きたくなかったのだろう。
「これで問題解決だ」
「そんなこと、俺にはできない」
ハオランの提案も虚しく、エヴァンは首を横に振った。その時にようやくハオランへと振り返る。
エヴァンの体は恐怖で震えていた。それだけハオランが怖いのだろう。
しかし、その目は真っ直ぐにハオランを捉えていた。
「どんな仕事かは知らないが俺には無視できない」
「エヴァンは見ず知らずの人間を助ける善人だったな」
「善人でありたいと思うのは普通だろ」
エヴァンの言う普通の感覚がハオランにはわからない。分かち合えない価値観の違いに、少しだけ寂しさを感じた。
どうやって彼を此処から離れさせるか考える。
最悪口封じのために……といき着いたところで、ハオランは考えるのをやめた。
「そうだな、エヴァンは善人だ。俺を救ってくれた、なら善人のお前から意見を聞きたい」
「意見?」
エヴァンの肩に腕を回し、逃げられないようにする。そして「仮定の話だ」と前置きし、話し始めた。
「死にかけのある男がいた。金もなければ家もない、仕事も家族も失うものはひとつもない」
失うものがない男はその日暮らしで生きていたが、そんなある日とある一家を目にする。
裕福ではないが貧しいというわけでもない、どこにでもあるような家族だった。
「男はなにを思ったか強盗に入った。当時は真冬で、その日は雪が吹き荒れてた」
まるで仮定の話ではないような、やけに現実味を持った話をする。エヴァンはじっと、その話に耳を傾けた。
「まず母親が子どもの前で絞め殺され、次に年頃の娘が犯されて殺された。幸いにも幼い息子は逃げ延びたが、吹雪く外では当然助かるはずもないよな」
そのとき父親は狩猟に出かけ、何日も家を空けていた為に難を逃れたという。
狩猟から帰った父が目にした光景は、きっと耐えがたいものだったはずだ。
その話を聞いて、エヴァンはただただ絶句する。
平和な世界で生きてきた為、世の中にはそんな事が起きていると想像したこともなかった。もちろん、ハオランのように生きる人間が近くにいたことさえも。
「エヴァンはそんな人間を許せると思うか? 善人でも、ひとつの世界を奪った奴は救われるべきだと考えるか?」
ハオランの問いかけは酷く悩むものだった。
人を憎まず罪を憎む、という教えは存在する。しかしそれで人が救われるかは別問題だ。
「助けてくれ! 頼む、俺には家族がいる!」
背後にいた男が必死に訴えかける。彼はいったいどんな過ちをしたのだろう、そんなことを不意に考えた。
悩みに悩んだ末、エヴァンはひとつの答えにたどり着く。
「俺は差別なしに人を救うほど善人じゃない。もう帰るよ」
そう言っておもむろに立ち上がった。知らん顔を決めたエヴァンを見て、ハオランの口角が不意にあがる。
「そうか。じゃあまた後で会おう、その時にじっくり話したいから待っててくれ」
てっきり、エヴァンは善人を貫き通すと思っていた。
最悪の場合口封じも視野に入れていた為、思いがけない形とはいえ片がついて安堵する。
その反面、目の前にいる少年を想う自分がいることに内心は驚きを隠せずにいた。
「家で待っててくれ」
「……その男は、これからどうなるんだ?」
「知らなくていい。ただ、報いをこれから受ける」
振り返らせないように肩を抱き、外まで見送る。そして去り際にエヴァンの前髪を掻き分け、額にキスを落とした。
「は、ハオラン?」
「額じゃ嫌だったか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
エヴァンの初々しい反応を見てくすくす笑う。
意外にも嫌悪感はなかった。エヴァンは恥ずかしさに耐えきれず、ハオランから目をそらす。
頬が熱っていくのを感じ、目を合わせることもままならなくなった。どういった意図があるのか、単にからかわれているだけなのか。
ハオランの考えがわからないまま、エヴァンはその場を後にした。
「……帰ったか」
エヴァンが路地裏を去り、人混みに消えるまで見送る。問題なく見送った後、ハオランは廃屋の中へ引き返した。