第15話 聖水
エヴァンにどうやって聖水を飲ませるか、ハオランは長いこと考え続けた。
信頼されている分では飲ませるのは簡単だろう。が、それでもハオランはなかなか踏み出せずにいた。
なにしろあの夜アマーリと話したことが気がかりで、今のハオランは慎重になっている。
しかしイェジュンは時間をやると言っていてが、そこまで残されていないはずだ。急がなければならない。
「ハオラン、ちょっといいかしら」
「なんですか?」
縁側で考えあぐねていると、恵里香に声をかけられた。
声がした方向に振り返ると、そこには鞄を持った恵里香とアマーリが佇んでいる。
「私たち出かけてくるから、エヴァンのことをお願いしていい? 変なことしないように見ててほしいの」
「もちろん、俺に任せてください。いってらっしゃい」
どこに行くかは詮索しないまま、快く承諾した。アマーリがいない、それだけで事は運びやすくなるだろう。
恵里香は「お願いね」と言うと、アマーリと一緒に出かけて行った。軽く手を振って、ふたりを見送る。
(……今がチャンスだ)
このチャンスを逃す手立てはない、今すぐ行動に移すときだと悟った。恵里香とアマーリは出かけ、記憶違いでなければ祖父も留守にしている。
おまけに、今日に限ってエヴァンは寝坊助さんだ。チャンスは今しかないだろう。
ハオランは瓶を片手に、エヴァンのいる部屋に向かった。
少しだけ襖を開け、なかの状況を確認する。エヴァンは未だに夢の中で、起きる気配はなかった。
音を立てないよう、慎重に部屋のなかに入る。
エヴァンの寝相は悪く、服がめくれて腹が丸出しになっていた。腹を壊さないか心配しつつも、エヴァンのうえにまたがる。
瓶の蓋を開け、少量の聖水を左手に塗った。そして聖水がついた手でエヴァンの腹に触れる。
これでなにもなければ、エヴァンは妄想に取り憑かれた人間だ。ただの人間ならどう問い詰めてやろうか、と考えながら経過を見守る。
最初は特になにもなかったが、異変はすぐに現れ始めた。あれだけ白かった肌が、触れた箇所だけ赤みがかっていく。
聖水を塗った自身の手に異変はない、ハオランは奇妙な光景に目を疑った。
「……ハオラン、なんでここに。ん、痛っ」
ぐっすり眠っていたはずのエヴァンが険しい表情で目覚める。触れた箇所をおさえ、痛みに悶えているようだ。
「痛い、なんでこんな」
「どんなふうに痛いんだ?」
「わからない、でも……まさか、ハオランがやったのか?」
「ま、まさか。そんなに痛いのか……」
エヴァンは寝ぼけながらも核心を突いてきた為、咄嗟に嘘をつく。すぐに嘘をついた罪悪感が芽生え、ハオランは布団に潜りエヴァンを抱きしめた。
聖水による痛みは相当なようで、始終苦しそうな表情をしている。聖水を薄めることもせず、直でつけた事にハオランは今になって後悔してきた。
「痛い、熱い」
息が洗い、体も汗ばんできている。ハオランはただ寄り添うことしか出来なかった。
当然、それだけではどうにもならない。エヴァンは痛みに耐えかね、布団から抜け出した。
部屋を飛び出し、急いで台所に向かう。ハオランはその後を慌てて追いかけた。
台所には唯一水道がある、エヴァンはテーブルにあったボウルに水を溜める。
そして所構わずに自身の腹にぶちまけた。服は濡れ、辺りはびしょびしょになる。
しかし悪化していくばかりだった痛みは落ち着いた。そこでようやく、エヴァンはひと息つく。
「エヴァン、なにしてるんだ」
台所の有り様に驚きながらハオランが問いかける。すると、睨むような目を向けられた。
「ハオラン、もう一度聞くぞ。俺になにかしたか」
「……どうしてそう思うんだ?」
エヴァンは気づいている。仮に言わなくても、ハオランにはそれがなんだかわかった。
ふと、過去にエヴァンが殺されかけた話を思い出す。
一番信頼していた人物にただ殺されかけるだろうか、それ以前にもなにかあったのではと考えた。
「前にも一度、今のと同じことがあったからだよ!」
……やっぱり。ハオランの考えは当たっていた。
エヴァンが激昂する姿を初めて見る。可愛げのある歳下と思っていたが、この時のエヴァンは殺気を放っていた。
同じように嘘をついて取り繕っても意味はないだろう。ここは正直に話したほうが身のためだと判断した。
「少量の聖水を塗った手でエヴァンに触れた。まさかこうなるとは思わなかった」
「どうしてそんなことしたんだよ!」
「エヴァンが人間だと思ったからだよ」
事実、ハオランは嘘を言っていない。
最近はないが出会った頃のエヴァンはよく嘘をついていた、だから人間の可能性もあると考えた。
「なんで……そんなこと、考えるんだ?」
「エヴァンが殺されかけた、って話をしたときだ。誰の目線で話してるんだろうと疑問に思ったから」
「だからこんな事したのかよ! 俺に聞けばいいだろ!」
「また嘘をつくと思ったんだ」
エヴァンがひどく興奮している。これまで築き上げた信頼が音もなく崩れ落ちていくのが見えた。
「すまないと思ってる。ここは俺が片付けておくからエヴァンは着替えてるといい」
「そりゃどうも」
ハオランを睨みつけたまま、エヴァンは台所を去る。ハオランは人を怒らせた、これは変えがたい事実だ。
エヴァンのご立腹な態度も当然と言える。なのに、不思議と胸がひどく痛むのを感じた。




