第12話 傷痕
少年は実に面白い生き物だと感じた。その齢にして現実を悟りつつ、淡い幻想を胸に抱いている。
実際なら夢から覚めたふりをして、目の前の現実に無駄な抵抗を見せている頃のはずだ。なのに彼にはそれがなく、無駄ともいえる「ずっと」を盲信している。
ハオランにはそれがたまらなく面白かった。いつエヴァンの淡い概念が壊れるのか、それがただ待ち遠しい。
エヴァンと(表面上は)心を通わせて一週間、することもなく部屋でだらだら過ごしていた。
ハオランのうえにはエヴァンが横たわっている。寝ているわけではなく、どこかをじっと見つめているようだった。
開け放たれた障子の向こうでは雀のさえずりが聞こえる。今日もなんら変哲のない一日で終わりそうだ。
「エヴァン、その手首の傷痕はなんだ?」
不意にエヴァンの左手首を目にしたとき、ひと筋の傷痕が目に入る。それはまるで、手首の血管をわざと切った時のような傷に見えた。
初めて認識しただけに、やけに気になる。ハオランは何気なしに、左手首に手を伸ばした。
しかし傷痕に触れられる前に、エヴァンは左手を隠す。後ろめたいことがあるのか、ハオランからも顔をそらした。
「もしかして、死のうとしたことがあるのか?」
「……」
エヴァンはなにも答えない。手首を隠したまま、そっぽを向いて俯いてしまった。
「あれだ、何ヶ月か前にかっこいいと思ってやったんだ。これはほんの気の迷いだよ」
「いや、嘘をついてる。死のうとしたことがあるんだな、どうして恋人に嘘をつく必要があるんだ?」
エヴァンがついた嘘を瞬時に見抜く。ハオランには嘘が通用しなかったことを思い出し、エヴァンは溜め息を吐いた。
「……そうだ。死のうとした」
観念したように答える。エヴァンが過去に自殺を図ったことがあるとわかり、ハオランは絶句した。
「なんで死のうとしたんだ?」
不粋なことはわかっている。ただ、気がつくとそんな言葉が口から出ていた。
ハオランの中にはエヴァンに関して知りたいと思う気持ちがある。だからと言って、これは別になるが。
「俺に話せ。それで軽くなるんなら、いくらでも聞くよ」
そう言ってエヴァンを宥めた。彼はこういった言葉に弱いのだと熟知している。
ゆえにどんな言葉だろうと、エヴァンが望む言葉をかけられる自信があった。
「……畑を燃やして、農作物の大半を台無しにしたんだ」
「それだけで死のうと思ったのか? たしかに作物は生きてく上で必要だけど」
「いや……本当は人間を殺そうとしたからだよ」
思わぬ告白にかけるべき言葉を失う。てっきり、エヴァンは生真面目な少年だとばかり思っていた。
そんな彼が人を殺そうとしたことがあるなど、誰が想像できるだろう。現にハオラン自身も想像できなかった。
「なにがあったんだ?」
「殺されかけたんだ。今までのことを否定されながら首を絞められた、一番信頼してた奴にな」
「それは正当防衛にはならないのか?」
「本当ならならなかったよ」
エヴァンはそう言うと、ハオランの首筋にそっと手を伸ばす。その伸びた手を、ハオランは包むように握りしめた。
「俺が住む国は人間が絶対なんだ。人狼や有翼人もある程度の人権はあるが、人間ほどじゃない」
「厳しい世の中だな」
「そんな人間様に手を出せばどうなるかはわかるだろ」
エヴァンがなにを言いたいのか、安易に想像がつく。エヴァンの性格上も考えれば、死のうとしたことも頷けた。
「よく話したな。尊敬するよ」
暗い表情のエヴァンを抱き寄せ、力いっぱい抱きしめる。ハオランの筋肉質な腕に抱きしめられ、エヴァンの呼吸は危うく止まりかけた。
ハオランの腕を何度も叩いたことで、ようやく腕から解放される。久しぶりに、エヴァンは死を覚悟した。
息も絶え絶えのエヴァンを見て、ハオランが悪びれもなく「悪かったよ」と謝る。
こうしてまた、ハオランはエヴァンのことを知ることができた。しかし、さらなる疑問が同時に浮かぶ。
──エヴァンは、人間じゃないというのだろうか?
ハオランはこれまで人間として接してきた。が、口ぶりから察するに違うらしい。
正直なところ、ハオランはすごく気になっていた。彼が何者なのか、人なのかひどく気になる。
あの日、ハオランが死ぬはずだった日にも関わりがあるのか否か。だが、その質問をエヴァンにすることはない。
これから地道に調べていけばいいのだ。まだまだ多くの時間がある、決して焦ることはない。
きっとイェジュンに話せば理解してくれるはずだ。
「ハオラン、好きだ」
エヴァンが愛の言葉を囁く。ハオランは「俺もだよ」と返事をしたが、どうしても「好き」と言い返せなかった。
ハオランの胸元に顔を深くうずめる。エヴァンから微かに香る石鹸の匂いが、ハオランの鼻腔をついた。




