41. 訪問者
『お帰りなさい。』
夜会の後、迎えてくれたみんなに掛けられた言葉。それに驚いて、嬉しくって、口ごもってしまって。辛いことがあったんじゃないかって逆に心配かけてしまった。
1人廊下を歩きながら頭に浮かぶ、ほかほか暖かくて幸せな時間。…オリヴィアには確かめておかなければならないことがあった。
答えを知っていそうなのはヴィオルカさん。けれど連絡先なんて知らない。だからエヴァが彼女にあったという渡り廊下に足を伸ばしてみる。
周りに人がいないことを確認して何度か名前を呼ぶ。
「ヴィオルカさん……ヴィオルカさん。いないのかな…」
しばらくしても現れないことに落胆して、柱の側に寄りかかるように腰を下ろす。
「ヴィオルカさん、居るなら出てきて!…くれないよね。」
「はい。…なんでしょう?」
「ゔぇ!!?」
「呼び付けておいてそれは酷くないですか?」
「はぃ、すいません。…貴方が……」
(エヴァに血を与えた魔族…)
初めて目にするその魔族は、人間離れした美しい容姿を持っていた。似ていないはずなのに、その姿はエーファを思い起こさせる。なんて言ったらいいのかわからないけど、彼女もこんな風だったから。
菫の花を思わせる紫の髪に金の瞳。妖艶だけど上品な印象の不思議なひと。魔族にとって並の人間は相手にすらならない。ヴィアのことなんて一瞬で殺してしまえる危険な存在——
「…それから貴方、私を変質者と勘違いしてませんか?」
けれど何故か今は困った子を見るような表情をしている。腕を組んで柱に寄りかかる何気無い姿さえ、絵になるくらいに綺麗だ。
「え?」
「誤解が無いように言っておくけれど、いつでも呼べば出てくるわけではありませんよ?」
「あ、えっと、そうゆうつもりじゃ…他に思いつかなかったんです。——ヴィオルカさん、ですよね?」
「ええ。初めまして、オリヴィアさん?」
「初めまして。」
彼女は薄く微笑んで挨拶してくれる。気分を害したわけでは無さそうだ。
こっそりと詰めていた息を吐き出す。わかっていたとはいえ魔族と会うのだからやっぱり緊張していた。けれど目の前の彼女は普通の人間と変わらないように見える。
心配していたよりもずっと話しやすいひとなのかも知れない。
「貴方はエヴァのこと知ってるんですか?」
「直球ね…貴方より、知っていることは多いでしょうね。」
「じゃあ——あのゾクゾクも?」
「ゾクゾク? それは……ちょっとゴメンなさいね?」
そう言った途端、彼女の纒う雰囲気がガラリと変わる。一瞬ゾクリと背筋が冷えて——直ぐに元に戻る。
「こんな感じのことかしら?」
警戒心が復活してジトッとした目を向けながら頷くと、眉を下げて「ゴメンなさい、もうしないわ。」とヴィオルカさんは謝ってきた。私の反応を見て何か1人納得した様だ。
「——気をつけなさい。エヴァが魔族だということを忘れてはいけませんよ。」
「それは…」
(一体どうゆうこと?)
「不安定なのでしょうね。理性や感性は人間でも、魔族としての本質は残酷なのだもの。心が揺れると本能が顔を出しそうになる、ということじゃないかしら?」
「魔族だからって乱暴には見えないけど…」
——魔族は残酷。
確かにそう聞かされてきたけれど、少なくとも今のヴィオルカさんはそんな風に見えない。
「牙を向ける相手は選ぶものですよ。人間だってそうでしょう?」
同意を示しつつも、なんとなく腑に落ちなくて顔を傾ける。私は牙を向けるべきでない相手ってこと? でも、彼女が他の人間にいきなり襲いかかるようには見えない。
モヤモヤとしたオリヴィアの様子が可笑しいのか、ヴィオルカは少し頰を緩めて、ふふっと笑う。
「エヴァの様子がおかしくなるのはどんな時?」
「この前は私が嫌がらせされてた時で、その前は魔獣に襲われたのを助けに来てくれた時で…」
「そう。——大切なのね、恐らく貴方が思っているよりもずっと。…彼女が冷静でいられないのは貴方に何かあった時ばかり。エヴァが良くない状態になっていると思ったら、貴方がお止めなさい。」
「私が?」
「ええ。貴方の声なら届くはずよ。支えてあげて…お互いに望まない結果にならないように。」
金の瞳は真摯な光を帯びていて、オリヴィアの持つ「残酷な魔族」のイメージとは合わない。
「ヴィオルカさんはエヴァの味方?」
そう聞くと彼女は困ったような笑顔を浮かべる。
「味方…とは言えないでしょうね。」
「どうして?」
「私には、彼女に過去を思い出して欲しい気持ちがあるから。けれどそれは彼女の望みではない……貴方も、このまま平和に暮らしたいでしょう?」
「それは……」
(このまま、ずっと一緒にいたい。)
エヴァが自分を取り戻してしまったら——
「……理解はしています、このままでいたい気持ち。それが彼女にとっても良いのかも知れない。だから昔話はしないし、敵になる気もない。——けれど私がいつも彼女の望みに沿って行動するとは限りませんよ? だから貴方も知り合ったばかりの魔族をすぐに信用してはダメ。魔族は人を騙して堕とすのが得意なのですからね。」
「わかりましたか?」という彼女に、「うん」と答える気になれない。
(だって…騙すなら、それならなんで親切に忠告してくるの?)
「………。また、……また、相談に乗ってくれますか?」
「え? 貴方今の話き…」
「相談に、乗ってください。また、ここで呼ぶから。出てきてくださいね!」
『信用するな』と言う彼女の顔が、少し悲しそうに見えた。
(ヴィオルカさんは敵じゃない。)
なんとなくそれだけ間違いない気がした。彼女に会いに来てよかった。そういえば他にもいろいろ聞きたいことがあったのに……今日はもう戻れないか。今度、また彼女と話してみよう。
***
——ガチガチに緊張していた癖に。
怯えているのかと思えば、あの透き通った碧の瞳をしっかりと向けてきて…可笑しな子。「信用するな」と言ったのにこちらを信じ切ったようなことを言って…
頰が自然と緩む。気に入ってしまうのも何となくわかる気がする。
(本当に、困ったお姫様——)
少し危なっかし過ぎる子。このまま魔族と人間の間で戦争が始まってしまったらと思うと…。あの子はまだ魔族の酷さを知らない。いくら大人しく見えても、貴方が思っているより魔族は、私は、ずっと残酷だというのに…
(私は、心配しているのかしら? そうだとしたら、お姫様は人誑しね。でも魔族の残酷さを、傲慢さを目にしても——貴方はまだ私達の側に居たいと思える?)
傾けたグラスに赤いワインが注がれる。それをくるくると手の中で弄ぶ。品の良い家具が設えられた屋敷の一室。黒いドレスに身を包んだヴィオルカの側には1人だけ眷属が控え、物想いにふける主人の様子を無言で伺っている。
憂いを帯びた主人の表情は普段とは違う魅力を放っていて……控える眷属の方も珍しい彼女の様子に内心動揺していた。
魔族は残酷な存在よ——
香りを放つグラスの中身を傾ける。広がる深い味わい。血のような赤い赤い色が口の中を染める。けれど…
(足りない…これは気休めだもの…)
自分の残酷な本能を確認するかのように、隣の眷属を引き寄せる。
「やっぱり、食事にするわ。」
「あっ…ヴィ、オル…さ…ま……」
いきなり引っ張られて驚いた彼女は、爛々と光る金の瞳に囚われる。いつになく強引な主人にすっかり魅了された彼女は直ぐに力を抜いて目を瞑り、その身を委ねる——
***
(何をやっているのかしら私は……)
眠る眷属にシーツを掛けて、赤いワインの入ったグラスを傾ける。そのまま物思いに耽っていたい気分だけれど——今日は客人が多いわね。
「がっついたの?…珍しいな。何かあったの?」
「貴方——何か用?」
窓際に急に現れた人影に面倒そうに振り向く。クスクスと茶化したような軽薄な声の彼に、いつもより低い声で応じる。
「まあまあ。…それより、どういうつもりなんだ?」
「……何が?」
「わかってるだろ?」
「別にどうもしないわよ。それより、アレの様子はどうなの?」
「どうもしない、ねぇ? …まあいいや。アイツなら順調に力を付けているよ。『魔王』を名乗るだけのことはあるって事かな? それなりに力のある配下も揃い始めている。人族側に侵攻するのも時間の問題だろうね。——ねえ、潰しちゃう?」
ヴィオルカに見劣りしない美しい青年は、妖しい光を宿らせた視線で彼女を射抜く。
「…………。貴方こそ、どういうつもりなの?」
「僕は——関わるつもりはないよ。新しい人生を手に入れたんだ、それでいいと思ってる。一度顔も見れたしね。」
ヴィオルカが「潰す」というのを少し期待していたのか、少し残念そうなため息をついた後、彼は飄々と続ける。
「お会いしたの?」
「ああ、本人は覚えてないだろうけど。——僕のことよりさ、中途半端に関わって辛くなるのは君の方だろ。今だって、どこまで干渉していいものか? って表情してるよ?」
「わかって…いるわ。」
「そう、ならいいけど。それじゃあもう行くね。」
(中途半端なのは貴方もじゃない…)
彼が去っていった窓を見つめて心の中でつぶやく。 彼も私も過去に囚われたまま——




