02. 落下
「………。」
尻もちを付いた私が起き上がった彼女が視線を交わしてから少し経つ。この世のものとは思えないほどに美しい彼女は、ホルテンジェの花のような綺麗な瞳でこちらを見下ろしている。
(すごく、綺麗——)
美しい姿に暫くポカンと魅入ってしまって——その間ずっと無表情にこちらを見つめたまま動かなかった天使様(仮)に、思い切って声を掛けてみることにした。
「あ、あの…大丈夫ですが?」
「Whoen zaren youen?」
「えっ、何語だろう…。バルク語は話せますか?」
「Wheren zamen xien? haen…」
「あ、ため息は世界共通なんだ…。ごめんなさい、なんて言ってるのかわからなくて。」
(——どうしよう?)
会話はできるみたいだけど、何て言っているのかさっぱり分からない。
時々村へ来る行商人に聴けば、どこの国の言葉を話しているかわかるだろうか? 連れて行ったとして無事に村へ辿り着ける保証はないけれど、でもこのまま森の中にいるよりは良いよね?
「ねえ、ここに居たら危ないから一緒に行こう?」
「…?」
悪い人では無いと伝わるように、にっこり笑いかけながら彼女の前に手を差し出してみるものの、意味がわからないのか首を傾げられる。先程からほとんど表情が動かないけれど…
(よく見ると、少し困ってる目をしてるような…?)
「わたし、オリヴィア。あなた、一緒に行くの。」
今度は指差ししながら言葉をかけた後、伸ばした手で彼女の手を掴み、こちらへ軽く引いて見る。そこまでは良いものの、また足首に痛みが走ってよろめく。
彼女は少し戸惑った表情をしたものの、よろめいたオリヴィアを支えてくれた。歩くように促すと、合わせるように半歩後ろを付いてきてくれる。どうやら一緒に進むのには賛成してくれたようだ。オリヴィアが木の根に足を取られる度、手を差し伸べて自然に支えてくれた。
苦戦しているオリヴィアと違い、難なく森を進んでいく。
何処ぞの「お姫様」のような見た目なのに——しっかりとした彼女の足取りに驚く。
そのまま暫く進んだのは良いけれど、行き止まりに辿り着いてしまった。
「はあ…。失敗した。引き返すしかないけど、どっちに行けば森から出られるの?」
目の前は崖になっており、崖下には川が流れている。探していた川は見つかったが、ここからでは辿り着けそうもない。それ以外は見渡す限り木々が広がるばかりで、途方に暮れる。
どうしたものか? と悩んでいるとガサガサと茂みをかき分けて、さっきの男たちが現れた。
「うそっ——!」
(——最悪だ)
「おう、また会ったなあ。さっきは逃げられたが今度はそうは行かねぇぞ?」
「お? そっちの姉ちゃんはどうしたんだ? いいモノ拾っているじゃないか。」
ゲヘゲヘと汚い笑い声を上げながら、天使様を品定めしているゴロツキたち。咄嗟に彼女を背に庇うように身を前へ出す。けれど、この状態を切り抜ける策は思いつかない。
森へ入る時に護身用にナイフと弓を持って来ていた。しかし弓は逃げるときに失くしているから、今あるのはナイフだけ。
それに、元々大人を相手に出来るような戦闘力はない。弓は一応扱えるけれど、せいぜい森で出会った動物を牽制するくらいで、彼らに通用するとは思えない。——人に武器を向けたことなどないのだから。
(——考えろ、考えろ。)
このまま捕らえられたら殺されるか、人買いに売られるか、犯されるか——後ろの天使様には間違いなく後者の未来が待っている。
走って逃げるのは無理。この人たちを倒すのは…もっと無理。
じりじりと後退していく。自分の動きに合わせてくれていた天使様が、止まって動かなくなった。
振り返ると、もう崖の淵ギリギリの所に立っていた——
「へっ。もう逃げられねぇ。」
ガハハハッと男たちが気持ち悪く笑う。これから手に入る天使の裸でも思い浮かべているのだろう。もうどうしようもないと思ったオリヴィアは覚悟を決める。
足元の砂を掴んで男たちに投げ付け、時間を稼ぐ——
「ごめんね。」
そう言って彼女の身体をぎゅっと抱き寄せ、そのまま崖下に向かって倒れ込む。
自分より大きな身体を精一杯庇うように包み込んで衝撃から守る。
背中から川面へぶつかったところで意識が飛んで――
*****
パチパチ——
火の爆ぜる音に目を覚ます。身体を起こしかけて、あちこち痛みが走って断念する。辺りは暗くて、空気の流れはあるものの少し煙たい。近くで焚火が爆ぜていた。どうしてここにいるのか思い返す。
(悪いおじさんから逃げて。天使様がいて。川に落ちて――?)
「あっ!――」
一緒に逃げていた天使様の姿が見えない。気づいてどうにか身体を起こそうと必死になっていると、すっと肩を掴まれる。
振り返るとオリヴィアが眠りから起こしてしまった天使様、銀髪の女性と目が合う。
彼女を見つけてほっとしたとたん、身体に疲労がのしかかってきた。
ぼーっとしていると目の前に水筒が差し出される。どうやら優しい天使様は、オリヴィアを川から運んで、火を起こし、水まで汲んで来てくれたようだ。
見ず知らずの自分にいきなり連れ回された挙句、川にまで落ちたというのに——
感激と申し訳なさで俯いていると、水筒をぐいぐい押し付けて水を飲むよう勧めて来た。お礼を言って水を飲み、ついでに鞄も取ってもらう。
中には、薬草や木の実の採集の為に持ってきた園芸用のハサミやナイフ、火種や麻の袋、少しのお金と作業用の手袋。
それから——ぐちょぐちょになったパンが出て来た。
(ああ!大事なごはんが…。)
気持ちを切り替えて採集したばかりの木の実を取り出す。シャリシャリとした触感で、爽やかな甘みが特徴のリゴーの実。崖から落ちた時に落としたのか、鞄の中に残っていたのは1つだけだった。それを彼女に食べて貰おうと差し出す。
リゴーの実を見つめたまま動かない彼女に『食べて?』と声を掛け、齧る身振りをしてからもう一度実を渡す。
すると、リゴーとオリヴィアを交互に見つめた後、ゆっくりと口に運んで咀嚼し始めた。
そのままなぜか近づいて来た彼女は、オリヴィアの頬に触れて顔を上向けると、綺麗な唇を寄せ、噛み砕いたリゴーを口の中に流し込む。
(えっ——!?)
突然の行動に軽くパニックになって逃れようとするが、彼女はオリヴィアをしっかりと抑え込んでリゴーを飲み込ませる。細い腕からは想像も付かないが、オリヴィアを固定したままビクともしない力。——脱出は…無理っぽい。
じっとこちらを伺い、リゴーを飲み込んだのを確認すると次の一口を与えてくる。
彫像のように整った彼女に見つめられ、なされるがままになった。
リゴーがすべて無くなるまで続いたそれが終わると、彼女はオリヴィアを膝の上に寝かせて目を瞑らせ、少しぎこちない手つきで頭を撫で始める…
(ん、眠い……)
熱気でぼんやりした意識はすぐに沈んでいき——