32. 菫色の魔族
「ヴィア!」
(これじゃ間に合わない!もっと早く——)
風魔法を纏って速度を上げただけじゃ足りない。普段は慎重に抑えている身体能力。けれど今はなりふり構わず全力を出して地面を蹴る。伸ばした手は、ギリギリの所でヴィアを捕まえることができた。けれど…すでに完全に崖を飛び出している。
——っ!
ヴィアを腕の中に引き寄せ、少しでも衝撃が弱まるように風魔法をかける。そして上から崩れてくる岩の軌道をできるだけ逸らし——彼女を抱え込むように丸くなったところで背中に凄まじい衝撃が走る。
「ん…。」
重い瞼を持ち上げると、うっすらと空が見える。身体は鉛のように重い。
(ここ、は?——はっ!崖から落ちたんだ。)
「ゔっ…かはっ!」
身体を動かそうとした瞬間、何かが口から溢れてくる——背中も、気持ち悪い気がする…
(ヴィアは?)
目線を動かして探すと、エヴァの腕の中でうつ伏せになっているのが目に入る。意識を失っているようだが、呼吸に合わせて身体が上下しているのが見えて、ひとまず安堵する。力の入らない手を、ゆっくりゆっくり持ち上げて、彼女のほほを撫でる。そこに赤い血の跡をつけて…
(——血?ああひょっとしてさっき口から溢れたのも血だったのかな?ヴィアのほっぺを汚しちゃった。)
ヴィア。大切な、大切な、私の——
どうしてだろ…さっきから頭がぼんやりしたままでほとんど力が入らない。思った以上に怪我しているのかも知れない。ダメ、なのかな。もう、一緒にいられないのかな。
こんなに近くにいるのに。もっと一緒に入れると思ってたのに…
いつも笑いかけてくれて。戸惑った時は手を引いてくれて。一緒に笑ってたまに泣いて。抱きしめるとお日様みたいな優しい匂いがして…
(においが、して?…)
とても甘くていい匂い。いつものお日様の匂いよりもっと魅力的な。甘くて、とろけそうで、思わず欲しくなるような。
(——欲しい?)
——そう。この乾きも満たされる。
それはまるで、理性の届かない奥底からの訴えのようで…
それはまるで、傷口から滲んだ血がガーゼに赤いシミを作る時のように——思考を、心を。赤く赤く染め上げていく…
——こんなにすぐ側にいるのだから。…だから早く。
(は、やく?…)
「おやめなさい。」
(——!!!?)
現れた気配に身を強張らせる。
(——っ!私は…何を、しようとして…?)
ヴィアの顔がいつの間にか近づいていた。エヴァの手は彼女の首に添えられている。
「あなたの望みはなにかしら?」
(望み?)
再びかけられた声。目だけ動かすと、美しい造形の、それでいて妖艶な雰囲気を持つ女の人がいた。長い菫色の髪。身に纏った黒いドレスから覗く白磁の手足。すらりとしているのに、艶を放つ身体。人とは思えないくらいに魅力的な……そう、『人外』。
「お前は誰?」
ぎゅっとヴィアを抱き込んで、睨みつける。問われた相手は返事を返さず、どこか妖しげな金色の瞳で舐めるようにこちらを眺めている。こんなタイミングで『人外』に会うなんて…
「敵?」
「さあ…?どうでしょう。」
(殺される?ええ、この女がその気になればすぐにでも。なんとかしないと。なんとか、殺される前に…)
「ああ、そんなに警戒して…」
彼女は困ったような表情を浮かべてこちらに近づくと、しゃがんで目線を近づけてきた。まるでこちらの警戒を解こうとするかのように——
「魔族…」
「ええ。わかるのね。…おかしな気配がしたと思って来てみたら、こんなに血だらけだなんて…。無茶をし過ぎよ。」
「……。」
(今は、貴方のせいで無茶しないといけなくなってるんだけど…。)
「私のせい?」
「!?」
「顔に出ているわ。」
ふふふっ。と、楽しそうに笑う魔族の女。もう頭がうまく回らないのに…この女はいったい——
「あの魔、獣も…貴方が?」
「いいえ。けれど、魔族の中に魔王を名乗る者が現れた。その者は人族を侵略する気でいるようだし。これもその影響かもしれないわね。」
「な…ぜ、それを?」
「知っておくべきかと思って。魔族と人間の戦争が始まった時、どうするのか考える時間が必要でしょう?」
こちらを全て見透かさすような金瞳でじっとりと眺めてくる。その視線をあえて無視して続ける。
「……。私たち、を、殺さないの?」
「あら、殺して欲しいの?」
「……。」
「…ふふふ。」
彼女は拗ねた子供を見た時のように可笑しそうに笑う。この魔族は何がしたいの?ああ。もう考えがまとまらない…。目の前に危険な存在がいるというのに、視界が霞んでゆく…
「ねえ、貴方はその子をどうしたいのかしら?」
闇に引き込むような甘く艶を含んだ声で、魔族が問いかける。…
「まも、る。ずっと、ヴィ、アといっ…」
「そう、…こんなになっても?それなら——」
彼女が近づいてくる気配がして、唇に何か触れている。視界はもう暗くて、何をされているのかわからない。
そのまま口の中に何か液体が流れ込んで来るけれど、拒絶したくても体が動かず…コクリと喉を通してしまう。
「お薬ですよ、飲み込んで。」
再び唇に柔らかいものが触れると、液体が流れ込んでくる。
——甘い。
体がじわりと暖かくなるそれを、口に流し込まれては飲み下す。霞んでいた視界が戻ってくる。けれど、彼女はそのまま手をかざして、私の瞼を閉ざす。
「そういえば問いに答えていなかった。——ヴィオルカよ。」
「ヴィ、オルカ?」
「ええ。名前がわからないと困るでしょう?」
もう会わないから別に困らない。そもそも名前が知りたかったわけじゃ無い。そう考えていることがわかっているのか、彼女はクスクスと笑っている。
「そのままお休みなさい。貴方の血は、良く無いものを惹き寄せるから処分しておき…」
——ヴィオルカの言葉を最後まで聞かずに意識は闇に沈んでゆく。
「本当に、……な…。」
くるりと振り返ったヴィオルカの瞳からは先程のからかうような色は消え失せ、スッと底冷えのする冷たい金色で辺りを一瞥する——そこにあるのは無慈悲な魔族の顔。
「邪魔。」
冷たい一言。放たれた魔力に耐えきれず、エヴァの血の匂いに集まった魔獣たちの身体が
ことごとく弾け跳ぶ。
彼女が歩き去った後には、エヴァの血も、魔獣の死骸も、跡形もなく消えていた——




