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00. 魔の森

 仄かに爽やかな匂いがする—— 


 籠の中から覗くのはリゴーの実。真ん丸な胴体にちょこんと付いたヘタ。手のひらサイズで見た目も可愛らしい。

 青みが残った状態で収穫すれば、酸味の聞いた味わいがパイやジャム用に好まれ、赤く完熟した実は爽やかな甘みとシャリシャリとした食感で生のまま楽しまれる。

 庶民でも手が届くお財布に優しい果実。

 

 リゴーの赤い色を見つけた彼女は、少し恥ずかしそうに頰を染めると懐かしむように手に取って私に差し出す。


 あの蓋を開けた時に、きっと私は——もう捕まってしまっていたんだと思うの——


 反対の手を伸ばして私の髪を梳き、目の下をなぞるように指を動かしながら囁く。


 蓋の影から艶々の銀の髪と、怖いくらいに整った顔が現れて。この綺麗な紫の瞳を見た時には、きっともう手遅れになってたんだよ——

 

 ふふっと楽しげな彼女は、私にリゴーを握らせると、自分でも1つ手に取って齧り始めた。


 (——だけどそれは違うよ。)


 あの時捕まったのは——無垢な榛色の瞳に心を絡め取られてしまったのはきっと私だ。

 止まった時間が動き出して、心が温かくなったのも。息が出来ないくらいに苦しい気持ちになったのも——


 カプリとリゴーを齧ると、あの時と同じように優しい甘みが口に広がった——




***




(すぅ——はぁ——)


 大きく息を吸って意識してゆっくりと吐き出す。何度か繰り返して呼吸を落ち着ける。寄りかかった大きな木の幹の、でこぼこの木肌から顔を突き出して後ろを振り返る。

 

 進んできた道に這うのは、うねうねと絡み合う木の根っこ。蜘蛛の巣を連想させるように地面に張り巡らされたそれに何度も足を取られた。

 その度に薄暗い森に絡めとられたかのような錯覚を覚え、ゾクゾクと悪寒が走った。顔を上げても視界に写り込むのは鬱蒼と茂る樹々ばかりで——終わりが見えない。


 澄んだ空気が、重苦しく感じるほどに満ちる深い深い森。


 その中をひとり、足を引きずって歩いていた。何度目かに転んだ拍子に捻った足首が、腫れ上がって熱を持っている。踏み込む度に痛みが走った。座り込んでしまいたい。

 けれど座ってしまえばもう立てなくなると、歯を食いしばって耐える。——体は直ぐに疲れを訴えて、もうずっと荒い息遣いのままだ。


(あれからどれくらい経ったのかな?)


 今はまだ昼か? 夕方か? 薄暗いこの森の中では、時間の経過も良く分からない。不安定な歩みでは簡単に木の根に足を取られる。何度も転んでは増えた傷口から血が滲む——けれど、歩みを止めるわけにはいかない。


(——今にも追いつかれるかもしれない。それとも魔獣に襲われるかも?)


 そんな不安がじわじわと膨れ上がる。


 ここヴィルシュタットの森は実りが多い。特に奥地には手付かずの貴重な素材がたくさん溢れている。

 けれど手付かずのまま残されているということは、人間が簡単に手を出せないからに他ならない。この森の奥には魔獣の中でも危険なものが数多く生息している。


(はぁ。どうしてこんなことになったんだろ……早く、帰らないと——)


 


 少女が生まれ育ったのは、森の側の「ロダ」という名の小さな村。

 村の人々にとっても森が危険なのは同じことだった。彼らはヴィルシュタットの森のことを『魔の森』と呼ぶ。森の奥地には決して入らず、浅い場所に入るのでさえ、なるべく避ける様にしていた。

 

 そんな森にまだ幼い少女が立ち入っているのは——他に稼げる場所がないからだ。


 ロダでは皆が協力し合って慎ましい暮らしをしている。「自給自足」とまではいかないものの、畑仕事や狩猟などの一次産業で生計を立てるものがほとんどだ。大きな商店などはなく、お金の替わりにそれぞれが作ったものを持ち寄って交換することも多い。余所の街の様に使用人を雇うような裕福な家はなかった。

 

 外から来た人が泊まれる宿屋や、仕事の依頼を斡旋するギルドの出張所、薬屋を兼ねた小さな診療所などはあるが、それらも家族経営で賄われている。——小さな子供を日常的に雇うほど手が足りていない場所も、ゆとりも無いのだ。


 村の大人たちは森へ入ることには反対していたし、今でもちょくちょく止められる。

 彼らは少女が食べていけるように小さな用事を頼んでは駄賃を渡してくれ、畑の野菜が多く採れたと言ってはお裾分けをしてくれる。けれど…


(いつまでも養ってもらうばかりじゃ、ダメだよね。) 


 そう思った少女はお手伝いとは別に、薬草や木の実の採集をする様になった。ギルドに登録して採集したものを換金すれば、少しとはいえ自分でお金を稼げる。

 

 ——少女に血の繋がった家族は、もういない。


 1人なった時は途方に暮れたけれど、残された少女に村の皆は優しかった。辺境の純朴な住人たちは小さな頃から「助け合うのが当たり前」と教えられて育っている。

 ポツンと他の村からも離れたロダは、外からの助けがなかなか望めない。問題が起きても基本的に村人同士で解決する他ないのだ。

 そんな考えが根付く地で、少女の母に世話になった者も多いから、みんな気にかけてくれた。


(心情としては養女として迎えたい。)


 そう思う者もいた。けれど引き取って満足な暮らしをさせてやれるか? と考えると、胸を張って引き取ると言える者はいなかった。

 彼女の母が亡くなった時、近隣の町で養父を探そうかと言う意見も出た。それとも少し大きな街の孤児院に預けるべきか? 

 どうするのが彼女の為になるかと大人達は悩んだ。結局、幼いながら両親と暮らした家を守る少女を見て大人達は決めた。


 ——ひとまずこのまま見守ろう。


 誰かの養女にするのではなく、彼女が生活に困らないように村のみんなで手助けすることにした。それが自分達にできる最善で、手助けを負担に感じてはいなかったのだが——彼女は少し良い子に育ち過ぎた。


 まだまだ幼いのに、働こうとし始めたのだ。働くのはもっと大きくなってからで良い、と言ってもなかなか納得しない彼女に大人達の方が折れた。

 その代わりに、2つの約束をした。


『森に入る時には、必ず大人に声を掛けること』

『入り口が見える範囲、ほんの浅い所までしか入らないこと』


 そうして村の大人が一緒に入るようにした。




 それがどうしてこんな状態になっているのか——


 今日も薬草や木の実を取りに魔の森へ入ることにした。

 よく一緒に森に入ってくれるおじさんたちは別の用事があり『明日にしないか?』と引き止められた。

 けれど、「村の近くの浅い所にしか行かないから!」と言って森に入る許しを得たのだ。


 初めの頃は1人で森に入る事を頑なに引き止めていた大人たちも、私が森に慣れて来たのを見て、少し自由にさせてくれるようになっていた。


 それで1人で森に来たのだけれど——いつもと違ったのは、森に先客が居たこと。


 朝から森に入って薬草を集めていた私は、柄の悪い男たちに出くわしてしまった。


『街には冒険者のような風貌をした、悪い人間がいるからね。』


 街には悪い人間もいるのだ、という話は聞いたことがあった。だけどまさかこんな所まで来るなんて。そこから先は、あんまり覚えていない。

 男達が何か言っていた様な気がするけど——振り返らずに、必死に走って、走って——


 気づいたら斜面を転げ落ちて、ボロボロになっていた。男たちの声がしないから、たぶん離れることは出来たみたいだけれど…




(ここ、森のどの辺りなんだろ…?)


 『魔の森』は広大で、奥地では非常に危険な魔獣が出没する。

 並大抵の者では通り抜け不可能と言われており、国境にもなっている。「適当に歩いて外に辿り着く」なんてことは期待出来ない。


 逃げることだけを考えて、奥へ奥へと闇雲に逃げて来た。危険な魔獣が出るくらい奥まで迷い込んでしまったかも知れない。浅い場所までしか入ったことが無いから、もう村の方向なんて分からない……


(——お母さん、これからどうしたらいい?)



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