〖第三十六話〗私、厄介な事になりました
レウターは大通りの真ん中で、ただ突っ立っていた。何の警戒もせず、少し離れた場所にある城を眺めながら。
周囲に人間の気配は無い。これ以上の犠牲を出す訳にもいかないので、兵士達は全員撤退させた。つまり、今この場所にいる人間は、レウター一人だ。
この男は、自らを『囮』としたのである。
空腹の獣が食料を求めて自ら罠に嵌るように、巨大な魚が小さい魚を捕食するように、古来より世界は弱肉強食という自然の理にあるのだ。自分より弱い者は自分より強い者の餌食となり、血となり肉となる。
───それは人間も同じ事だ。
戦では強い者、知恵のある者が勝つ。相手よりも優位に立てた者が、『勝利』という名の美酒に酔いしれる事が出来る。とどのつまり、この状態でレウターは弱者、知恵を捨てた愚か者という事だ。それを目の前にして、捕食者は例え罠だとしても逃す訳にはいかない。
罠など、圧倒してしまえばいいのだから。
囮作戦が成功する例は極めて少ない。それは、相手が警戒しているからだ。警戒している相手は、迂闊に囮に近付いたりしないだろう。
だが、今は少し状況が違う。
この男が囮になる事で、何かがプラスに働く事は無い。つまり、囮という名の『犠牲』と呼べる。この犠牲を喰らった所で、自分が不利になる事も無いのだ。そして、この男はレウター・ローディロイ。五将の総括として五将を束ねる男。この男を殺せる事が出来ればこの都も堕ちる。
捕食者としては絶好のチャンスである。
「いつでもいいですから、早くして下さいね?」
レウターは姿の見えない捕食者に言った。
この男を殺せるチャンスは今しかない。
このチャンスを逃せば、次のチャンスは来ない。
何より、逃すなど有り得ない。
捕食者は、レウターより離れた民家の影から少し様子を伺っていたが、意を決して行動を開始する。
いつも通りやればいい。
一瞬で背後を取り、斬り裂いて終わり。
たったそれだけの簡単な作業だ。
然し、本当にそれでいいのか?と捕食者は考える。
相手はレウター・ローディロイ。無敵の『剣壁』であらゆる物理攻撃を無効化する鉄壁の要塞だ。だが、いくら無敵の鉄壁と言えど、自分の背後までは防げないだろう。しかも、こちらは『神と精霊の加護がある』のだ…と、捕食者は自分を鼓舞した。
捕食者はその力を行使した。
目標は『憎き男』ただ一人。
決着は一瞬。
この鎌を振れば終わり──────
───の、はずだった。
「どうして…?」
神に愛され、精霊にも愛された捕食者の、絶対なる一撃は、その男に届かなかった。それはレウターが発動した『剣壁』の力ではない。もっと強力な『魔法』だった。
いつもと同じように背後から、右肩から斜め下に振り下ろせさえすれば、この勝負は終わっていたのに、鎌を振り上げた瞬間…いや、捕食者が姿を表したその一瞬、誰かが捕食者に『魔法』をかけ、動きを止めたのだ。
「まさか…裏切り者が貴女とは…いや、薄々は感じていましたがねぇ…ナターニャ・フィクセス」
その男の表情に笑みは無い。いつも誰かを見下しているような、あの憎たらしい笑みはなく、代わりに、怒りとも取れる表情を浮かべていた。
「レウター・ローディロイ…貴方は、魔法が使えたの…!?」
「いえ。私は魔法を使えません」
「じ、じゃあ誰が…!?ここには貴方以外に…」
「そうですね。確かにここには私と貴女以外の〝人間〟はいません。そう…人間はねぇ…?」
「ま、魔族か…いや、魔族の気配なんて無い…誰!?誰がいるの!?」
その身を宙に囚われながら、ナターニャは目だけで辺りを見回す。そして、レウターの後ろ…数メートル離れた民家の影に『何か』がいるのが分かった。
「だ、誰ッッッ!?」
その問に答えるように、人でもない、そして魔族と語るにはあまりに強大過ぎる者…人間の姿をした最強にて最凶の、邪悪なる『竜』が姿を現した。
「初めまして〝人間の雌〟、そして〝死神の鎌〟の所有者…ナターニャ・フィクセス。私はディレ・ザリサ。少しばかりお前らより遠い存在にあるものだ。それにしても、私より頭が高いのは不愉快だな…〝落ちろ〟」
「───ッ!?」
まるで、身体が地面に引き寄せられるかのように、浮いていた身体が地面に叩き付けられた。
「あ、貴女は…何者…なの…?」
「ナターニャ。貴女でも少しは分かるでしょう?先程自分を縛った〝異色の魔力〟と、そして我々より〝高みの存在〟と聞けば…」
「い、異色の…魔力…高み…天使ッ!?」
その答えを聞いたディレザリサは落胆する。
「はぁ…幾ら劣等種族だからと言って、その答えは愚かにも程があるとは思わないか…レウター」
「ディレザリサ様。その前に…その口調はやはり違和感があるかと思いますよ?」
「今それは関係無いだろう!?」
ナターニャは、今何が起きているのか分からない。
レウターが『様』を付けて呼ぶ存在…そして、『異色の魔力と高みの存在』という言葉…ナターニャにとって、それは『神』であり『精霊』を指す言葉だった。つまり、それらに仕える存在…だと思ったのだが、あの少女はその答えを『愚か』と否定した。
「な、何が…何なの…?何なのよ…何なのよ貴女は!?」
「そう喚くな…人間の雌。もうこうなっては仕方がないので、お前にも分かるように説明してやろう…。我が名はディレザリサ…〝竜の王〟だ」
「は───ッ!?」
目の前の…自分よりも若い…あの麗かな少女が…竜の王…?と、ナターニャはまた困惑した。然し、それも無理は無い。この世界で竜は絶滅し、夢物語の存在となっているのだ。しかも、目の前にいるのはその夢物語に出て来る姿の竜ではなく、こんなに可愛いらしい美少女…信じるに信じられないのである。
「然しレウター。こうもお前の〝愚策〟が嵌ると、これはこれで〝退屈〟だぞ」
「そ、それは誠に申し訳御座いません…私ですらこんな簡単に引っ掛かるとは、思ってもいなかったので…些か退屈なのです…」
「たい…くつ…?」
ディレザリサは未だ地面にへばりついているナターニャの前に立つ。ナターニャは恐怖で目を閉じた。
「さて、どうする?それなりの罪を与えるのだろう?なら、丁度良い。〝右肩から斜め下に斬り裂いて〟しまおうか」
ディレザリサは笑みを浮かべて提案する。
「いえ…。それでしたら先ず、聖職者に有るまじき格好をさせ都を練り歩かせ、見物人を集めた後に〝魔女狩り〟のように燃やすべきかと…」
「お前、相変わらず鬼畜だな…流石に引く…」
「・・・・・・」
レウターならやりかねない…と、ナターニャは思った。やはり、男というのは醜い思考しか持ち合わせていない…と、記憶に残る『愛する人』に、最後の祈りを捧げた。
「殺すのなら…殺しなさい。いくら私に恥辱を受けさせた所で、私は───」
「───冗談ですよ」
「……え?」
レウターは地面にへばりつくナターニャに、優しく語り掛けた。
「貴女の生い立ちは事前に調べてあります。なかなかに面白…凄惨な過去です。ですから、貴女を殺すような事はしません」
「ど、どうして…!?私は…何人もの人間を殺めたのですよ!?」
「ふむ…そうですねぇ…」
そして、レウターは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、それを読み上げる。
「ラットン・ドロドン。ゲイリー・ステファン。ダイス・アルゾ。ジャン・カストロ。ドライン・ゲルボビッチ…貴女が殺めた一般人…と言われている者達。これらは、裏で麻薬、賭博、人身売買などに手を染めた犯罪者。そして…ミゲール・ライオット。ノクター・ロウンズ…その他諸々…貴女が先程殺した兵士達は、全員裏で革命を起こす手助けをしていた者達です。さて、これは考え方によっては〝断罪〟と捉えられなくもありませんねぇ…」
「レウター。貴様、まさか…何かしら悪事を働いていた兵だけを集めて、この作戦に参加させたのか?」
「結構骨が折れましたけどねぇ…。これまで貴女が殺した者達を調べあげた結果…貴女が殺していた者達の共通点を見つけ、今回の作戦に当たりました。まあ、ハイゼル君だけは知らないのですが…彼は人が良過ぎる。きっとこの作戦を伝えれば猛反対しますから。まあ…何より謀反を企てる者達を欺くというのは、なかなかに面白かったですよ」
「全てはまた、貴様の掌の上という事か…気に食わん」
「ですがナターニャ。貴女にはしっかりと罰を与えます。何せ、ゼルにあそこまでしたのですから」
ナターニャは何も語らず、無言で言葉を聞いている。きっと、死刑にはならないにしろ、折檻は免れないだろうと覚悟した。
だがしかし──────
「ナターニャ。ディレさんをご自宅までお見送りして下さい」
「「・・・・・・はい?」」
* * *
間もなく朝日が出るであろう都の大通りを、五将であるナターニャと、竜であるディレザリサが並んで歩いている。
「貴女は本当に…竜の王なのですか…?」
やはり、この見た目からはそんな事は露にも信じられない…と言わんばかりに、ナターニャは隣を歩くディレザリサに問う。
「うん。まあ、今はこんな格好だけど…やっぱり変かなぁ…」
それに対しての言葉は、まるで「この服どう?似合う?」と恥じらいながら訊ねる少女のそれだった。
「…え?あ、いえ…とても可愛いらしいと思い…ます…あ!す、すみません!王に対してこんな口を…」
「ううん。いいの…ありがと」
(な、何…!?何なの…!?)
先程とは打って変わった表情や言葉。そして、俯きながらも頬を染めて喜んでいるかのような、可愛いらしい仕草に、ナターニャは戸惑いを隠せない。
「ねぇ、ナターニャ。さっき使ってた鎌だけど」
「は、はい!!」
「あれは…あの力はあまり多用しない方がいいと思う。良い力じゃないから…ね?」
(───ッッッ!?!?!?)
上目遣いで、まるで甘えているような子供の目をしながら、可愛いらしい笑顔で忠告をするディレザリサを目にして、ナターニャは何か自分の中で、抑え込んでいた感情が溢れそうになっていた。
「は、はい!そ、そうします!」
「ありがと、ナターニャ。約束だからね?」
(か、可愛い過ぎ…る…だ、駄目!私には最愛の人が…)
必死に抵抗をしているが、それとは裏腹に、自分の頬が赤らむのが分かった。それを隠すかのように、両手で口元を隠す。
「ナターニャって…好きな人、いる?」
「え…?」
「私、竜だから…人間の好きとか、分からなくて…ナターニャはフローラよりも歳上だし、そういうの詳しいかな…って」
(恋する乙女…!!ああ…どうしましょう…今すぐ抱き締めて、あの艶やかな髪を撫でた…駄目!!そんなの駄目です!!私はフィー一筋なんですから!!)
「ナターニャ…好きって、何?」
ナターニャの服の裾を掴んで、困ったような表情を浮かべるディレザリサを見て、ナターニャはついに自分が抑え込んんでいた『感情』が…水面に小石を落とし、それが波紋となって広がって行くように、自分の心を、理性を、津波のように轟きながら壊すのを感じた。
ナターニャは自分の中の自分に問う。
その一歩を躊躇うか。
その一歩を進むか。
その一歩に賭けるか。
その一歩を捨てるか。
そして、ナターニャは選んだ。
『受け入れてしまおう』と。
もう、自分が縛られているものは無い。レウターに砕かれ、そして、隣にいる少女によって阻まれた。なら、もう自分が『憎しみに固執する』事も、無いのではないだろうか。
フィクセスはもういない。
彼女を、ナターニャは愛していた。
でも、彼女ならこう言うだろう。
『なんて顔してんのさ。ナターニャ!』と、きっと笑って背中を押してくれるに違いない。だから、ナターニャは、自分を愛さない事を辞めた。自分を愛し、世界を愛そう。そして……
隣にいる少女を、愛そうと──────。
「へ!?ナターニャ!?」
「も、もう…ディレザリサ様が悪いんです!!そんなに可愛いお姿で、そんなに魅力的な声で、こんなにも私の心を奪うのがいけないのです!!」
ナターニャはディレザリサを抱き締め、頭をこれでもかと愛でた。
「ディレザリサ様!愛に形は無いのです!愛とは求め合う心そのもの…つまり、人種も、性別も、魔族も関係無いのです!!」
「ちょ、ちょっとナターニャ!?」
ナターニャは思った。
これも、レウターの差し金なのだろう、と。
自分の過去を知り、敢えてこうしたのだろう、と。
それなら、その策略に乗っかるのも悪くない。
つまり…こうなるのも必然だと受け入れるしかないのだ。
レウター・ローディロイは策士にして五将最強で、総括であり『智将』だ。彼に従うのは当然。
だから──────
「ディレザリサ様ぁ〜!!んー!!可愛いですよぉ〜!!」
「ちょ…た、助けて…ふろーらあぁぁぁぁぁぁ!!!!」
ナターニャは、新たな恋に踏み出したのだった。
【続】




