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BLACK Welt ーブラック・ウェルトー  作者: 鈴風
1章 きみとの距離
3/7

Episode2 「彼女の名前」

 

 目の前で突然女の子が泣いてしまった。


 こんな時にする対応が、亮也にはわからなかった。

 だが、そんな困惑した思考もすぐに晴れる。

 少女は静かに涙を指で拭うと、今まで通りの澄ました表情に戻った。


(深く考えすぎたかな……)


 亮也は少女が泣いた原因を深く追求せずに、泣きやめた少女を見て安堵した。


 と、今更ながらに思ったことを亮也は訊いた。



「ところで、君……名前は? 名前も知らない子と一緒にいるのは気まずいというか一緒にいにくいというか……」



 亮也はまだ少女から名前を聞いていない。


 そんな名前もわからない女の子となんて流石に一緒にはいられない、亮也は思っていた。


(住所とかはいいんだけど、せめて名前ぐらいはね)


 亮也は少し苦笑いしてから、少女の目を見て様子をうかがう。

 流石に無表情とまではいかなくなったが、答えそうな雰囲気でもなかった。

 だが、亮也にもそれぐらいはわかっていた。

 恥ずかしいんだろうということにして、亮也は少女からの返事をいつまでも待つ覚悟をしていた。

 その間、少女の表情をずっとうかがっていた亮也はやがて開き始めた少女の口に小さく反応した。



「…………私の、名前」



 呟きぐらいの声量で発した少女のその言葉を、もちろん亮也は聞き逃さなかった。

 ようやく名前を言えるようになったらしい。

 亮也はそう感じて少女の次の言葉を待った。




「…………名前は、……スギ……ハラ」



「……スギ、ハラ……?」




 亮也の聞き返したかのような呟きに、少女は小さく頷く。


 亮也はとても嬉しかった。


 さっきからずっと黙ってばっかりだった少女が、自分のことを教えてくれたのだ。

 胸中に湧く嬉しさ。

 勇気を振り絞って言った少女のその言葉に、亮也は思わず泣きそうになる。

 だがこんなことで泣くのは相手にも失礼かな、と考え亮也はギリギリのところで泣くのを堪えた。


(まさか……名前を教えてくれるなんて)


 普通に見れば小さなこと、些細なこと。

 けれども今の亮也からすれば、名前を聞けたことだけで、とても巨大なことを成し遂げたような達成感を感じられた。


 亮也は一拍置いて、次のことを訊く。



「んじゃあさ、スギハラは上の名前なんだよね? なら、下の名前は?」



 一般的に考えて『スギハラ』は苗字の類だから、今教えてもらったのは苗字だけということになる。

 だから下の名前も聞かなければということで、亮也は目の前に立つ少女・スギハラに問いかけた。

 それに苗字は家系としてのもの、一個人を示すものではない。


 スギハラはやっぱりまだ恥ずかしいのか、一拍置いてから答える。



「…………私、女だから、下はついて無い」


「……………………」



「…………それと、上はスギハラじゃなくて、おっp」

「わかったオーケーもう何も言わなくてもいいよ言わなくても通じてるから口を静かに閉じようッ!」


 何か女の子が言ってはいけない言葉が飛び出して来そうだったから、亮也は咄嗟に自身の言葉でかき消した。

 機転の効いた対応だったと、亮也は自分を心の中で褒める。

 というか、こんな下ネタも平然と言ってのけるんだな。

 亮也なそんなことを頭の中で考えていた。

 ただでさえ掴めない性格なのに、そのうえ下ネタまで言うとなると、もはや想像のつかない。

 亮也はそんなことで頭を悩ませていると、視界の隅で気を落としたような表情をしているスギハラが映った。


(…………俺に言葉を遮られて叫ばれたから、落ち込んでるのか?)


 自分が悪いのだろう、と亮也は理解し反省。自画自賛はなくなった。

 と、こんな感じで話がうやむやになりつつあったが、亮也はまだ彼女の下の名前を聞けていないことを思い出す。(もちろん下ネタじゃない方)



「それでさ、結局名前は何?」



 亮也は、下の名前と言ったらもう一回同んなじ答えが来そうだからと普通に名前と言って質問した。

 スギハラの頭が切れる方なら、苗字をスギハラだと亮也が理解していると言うことは気付く。

 だから『名前』を訊いているなら、この場合残った下の名前を訊いていることになる。


 亮也はそういう考えで訊いていた。


(……まぁ、頭が切れる方ならそもそもあのタイミングで下ネタなんて言う必要がないことぐらいわかるだろうけど、そこは彼女だから、ということで収めよう)


 そして、亮也からの質問を聞いたスギハラは、少し俯いたまま何かを考えたような態度を取るが、やがて亮也の方を向いて答えた。






「…………そういえば、名前、なんだっけ?」






 スギハラはそう言った。



 名前なんだっけ? と言った。




 ーーーー自分の名前を忘れた、と、そう言った。




 亮也は驚愕のあまり、瞬きするのも忘れてしまうぐらいに硬直していた。

 頬に汗を滲ませ、顎から滴る事も気にすることが出来ずに固まっていた。



「…………名前を……忘れてる……?」



 いくらなんでもあり得ない。


 亮也は第一にそう思った。


 名前を忘れるということは、もはや生きていくことさえ難しくなるものだ。

 友人が出来たとして、相手に自分の名前を教えてあげられなくてそのまま苗字で呼ばれ続けるのは端から友人同士の関係には見えない。


 ましてや自分自身だってダメージは大きいだろう。


 こんなことは一つに過ぎない。まだいくらでも名前がないせいで起こる不都合というものはある。

 それだけを背負って、彼女はどうやっていきているのか。

 亮也は、スギハラが送ってきたであろう今までの人生、それにこれから送ることになるだろう人生を想像して絶句する。


(いや、違うな。きっとまたさっきのようなジョークなんだ)


 こんなタイミングで笑えないような冗談を言うやつなんだよ、彼女は。

 亮也はそう半ば無理矢理納得して、自分を落ち着かせた。


「うん……、まぁそういうジョーク無しにして、名前は?」


 亮也は苦笑い混じりでそう言うも、少しだけ表情から真剣さが滲んでいた。

 だが、




「…………ううん、ジョークなんかじゃなくて、本当に、わからないの。思い出せないの、自分の、名前」





 自分の名前が、わからない……?


 亮也はおかしくなりそうだった。


 可愛いと思ってた子が、付き合ってもいいと思っていた子が、恥ずかしいのかそういう性格なのかあまり口数の多くない子が、それでも好きという感情を持った子が、自分の名前を忘れているなんて……。


 亮也にはあまりにも酷なことだった。


 それこそジョークでも冗談だと言ってくれた方が、亮也もだいぶ気が楽だった。



 だが、スギハラだから、だろう。


 こんな場面では冗談を言わなかった。



「……じゃあ親は! 親なら名前知ってるはずだろッ!?」



 亮也はそんな訊くまでもないことを訊いた。

 親がいて、その娘が自分の名前を忘れたなんて言うわけがない。

 親が仮にも娘に名前を告げずに今まで育ててきたとする。

 それに何のメリットがある。

 そもそも、そんな現実を娘が受け入れるはずがない。


 ーーーーだから、つまりスギハラに親は……。




「…………私、親はいないの、幼い頃から」




 わかってはいたことだが、スギハラ本人から聞く言葉は想像以上に効くものだった。

 亮也は、スギハラのその辛すぎる過去を思い描いていた。


 幼い頃に親をなくした、なんて言ってはいるが、幼い頃でもスギハラの自我が作られる前じゃないと、自分に名前がないことをスギハラは当然気にしてしまうしコンプレックスのように捉えてしまうかもしれない。

 つまりは、産んだ直後辺りにでも親は、死んでしまっていたのかもしれない。

 それを『幼い頃に死んだ』と真実を伏せられて来た。

 それだけでさえ重い事なのに、あまつさえ本人は自分の名前を知らないと言う。

 いや、戸籍でも確認しに行けばわかるが、それが出来ていたらとっくにしているはずだ。


 ということは…………。




 ……………………どういうことだ?




 今の亮也には、"戸籍さえ調べられない状況"というものが考えられなかった。


 ちゃんと言えば、考えたくなかった。


 これから一緒に過ごして、スギハラと付き合うかを決めていこうと話したばかりだというのに、亮也はそのスギハラからそんなことを告げられたのだ。

 もう、亮也の頭の中はこの状況を処理仕切れないでいた。



 □■□■□



 何分か経った頃。


 亮也は何とか正気を取り戻し始めていた。

 その間スギハラはずっと待っていた、亮也のことを。

 そして亮也の表情が軽くなるのを見て、スギハラは一瞬安堵の表情を浮かべた。


 亮也は考えていた。


 全てを訊くのか、それともこのまま名前も知らずに過ごすことにするのか。


 全てを訊いて、それにスギハラが全て答えてくれるという保証は無い。

 だが、訊くという行為が大事なのだ。

 スギハラからすれば、亮也が自分の事を訊いてきてくれるというのは、心配されているんだと感じられ、安心出来るだろう。

 逆にこのまま過ごせば、自分の事には関心が無いんだ、と思われてしまう。


 亮也はそう考えた。


(ま、この二択なら訊いた方がメリット多いよな)


 だが、もちろんデメリットだってつく。

 訊いた場合、スギハラの身なりを見てもわかる通り確実に普通では無いことがわかる。


 女の子がロングレインコートなんて着るもんじゃないからだ。


 その隠している秘密に亮也を関わらせたくないとスギハラが考えていたら、質問は逆効果なのかもしれない。

 その反面、質問をしないのはそう考えていた場合のスギハラにとっては好都合。


(んー、どっちもどっちなんだけど……)


 だが、前提として忘れてはいけないことがある。


 スギハラは亮也にキスをしている、そして付き合いたいと言っていること。


 そんな相手を、質問しただけで嫌うのはおかしい話で、秘密云々の前にその感情が最優先として立ち塞がるだろう。

 そう考えれば、特に質問しても何か言われることはなく進めるはず。

 そこまで含めて、亮也はスギハラに質問することにした。



「なぁ、……スギハラ」


「…………?」



 相変わらずの無垢な表情。


 その顔を守ってあげたくて、亮也は質問するのかもしれない。

 たとえ聞きたくない質問をスギハラが受けたとしても、それを乗り越えられれば普段の表情を取り戻せるからだ。

 亮也は覚悟を決めた。




「……お前、戸籍は調べたか?」




 訊いておかなければいけないことの一つ。

 結局は確認ぐらいのレベルの話だが、ここを固めておかなければこれから話しをする意味がなくなる。


 スギハラは逡巡すると、静かに答えた





「…………戸籍、て何?」


「ぶふっ!」




 亮也は思わず吹いた。



「ちょいちょい、戸籍知らんの?」


 そう亮也が訊くと、スギハラは二回ほど頭を縦に振った。




 ーーーーマ、マジかよ……。




 ここまで考えてた俺って一体……。


 亮也は自分が無性に虚しく感じた。

 だいぶ無駄な時間を過ごしてしまったのかもしれないと。


 でも、と亮也は考えを改める。




 ーーーーここまでスギハラの事を、考えてあげられたんだな、俺。




 そんな自分に思わず苦笑する亮也。


 何だかんだで、亮也はスギハラに対する気持ちを再確認することが出来た。

 今の亮也にとっては、それだけで十分意味のある時間だったと思えた。



「……まぁ、そういうことで戸籍確認しに行こうか」


「……………………?」



 お決まりの無垢な表情で首を傾げるスギハラに、とりあえず亮也は戸籍についての説明を始めた。



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