南の島に浮かぶ月
さあ、これは本当に戦記なのでしょうか……。 と、とりあえず、お付き合いいただければ幸いです。
「こんなとこでも、月はきれいだなあ」
それは素直な感想だった。
ここは、本土から遥か南の島。 気候は、本土の穏やかな気候とはまるで違った。もう、熱帯ではないだろうか。まぁ、もっと南方に行けば、もっとすさまじい気候で、ここの気候ですら穏やかに感じるのかもしれないが……。
だが、気候がどんなに穏やかだろうが、厳しかろうが、そして食料が乏しくていつも食べることばかりを考えていたことも、水が合わなくて下痢ばかりなことも、そのどれもが、今はもう、些末なことだった。
ここは戦場の真っ只中。とはいえ、戦闘と呼べるようなものは、とっくに終わっていた。今はもう、泥沼の掃討戦で、我々は掃討される側だ。昼間は、敵の追撃を恐れて塹壕の奥深くで熱さと湿気に耐えることしかできない。そして、夜になると、穴倉の奥から這い出し、まだ意気盛んな者は敵に一矢を報いようと手近な暗闇をつたって行った。
まだそれだけの気力がある、というのはいいことだとは思うが、だが、そうやって、闇夜に出て行った者で、帰ってきたものはいない。
どこか、まだ他にも残ってる塹壕にもぐりこんでいるのならいいのだが、おそらくは……。
この地は、二万人の守備隊で守っていた。が、今はもう、何人が残っているのか。
組織的な抵抗は最初の三日間で終わった。圧倒的な火力、兵力の差は、我々の抵抗などボロキレの様に吹き飛ばしてしまった。 今は、吹き飛ばされたボロキレたる我々が、僅かな望みを繋ぎながら、確実に近付く絶望に気が付かない振りをしているだけだった。
時として、敵のやり方は非常に残忍だった。それが効率的、もしくは彼らにとっては安全な方法なのかもしれないが、我々にしてみればたまったものではない。彼らの主な武器は既に銃器ではなかった。火炎放射器で我々が潜む辺りを焼き払うのは当たり前で、塹壕にガソリンを流し込まれて火を点けられたこともあった。
そんな風に殺されていった彼らは、何を思ったのだろう。 ただ、無念なだけだろうか? どうしてこんな目に遭わなければいけないのか、そんな理不尽を呪っただろうか。そして、きっと、まずは敵を恨んだだろう。
迫る炎から逃げ惑いながら敵への呪いの言葉を叫んだだろう、渦巻く煙に故郷への思慕で涙をこぼしただろう、いや、この地に自分を送り込んだ上層部を呪ったかもしれない。 そして、体を焼かれながら、絶望したのだろうか。
大半のものはそうかもしれない。
が、最後まで敵や味方。火を点けた敵に、こんな所に自分たちを送り込んで後方でのうのうとしている上官に、そんな者たちへの呪詛の言葉を叫び続けた者もいただろう。
幸い、俺はまだ生きている。 だが、生きている、ってことは、単に仲間の死ぬ様をこれからも見るってことで、自分自身の苦しみも終わらないってことで、しかも、それがいつ終わりになるのか判らない。 こんな状態を、幸い、と言い切る自信はないが。
それでも、俺はまだ死にたいとは考えてなかった。 それだけは本当に幸いなのだろう。
そんなに達観しているつもりはないが、それでも、自分の生死に関して、他人より少しばかりは冷静でいたいと思っていた。死の瞬間に激情にとらわれていると、人の魂は闇に堕ちてしまいやすい。そんな話は幾つも聞いてきたし、何人も見た。
それはもちろん、この地でも。
何人もが、敵を呪いながら、味方を恨みながら、闇に堕ちていった。人が死ぬのは悲しい、殺されるのはさらに悲しい、だが、人が人でなくなる瞬間は、悲しみすら感じることができない。
その次の瞬間には、その闇のモノを、たった数瞬前まで人であったそのモノを、俺が滅さなければいけないから。だから、その為に悲しみを、全ての感情を消し、果たすべきことを果たさなければいけない。それが、退魔の力を持って生まれた自分が負った宿命なのだから。
故郷にいる時は、妖や怪異の退治を生業としていた。正当な陰陽師の血筋に生まれはしなかったが、だからと言って、闇から人を守る、その思いは変わらない。
まぁ、まさか戦争の最前線で、こんなことを、怪異を相手にすることになるとは思ってはいなかったが、考えてみれば、これだけの人が理不尽な死に晒される、こんなに呪詛の念が濃い場では、人が妖に変じるのはむしろ当然だった。
そう判ってしまうと、俺の中からは、この地から脱出するという選択肢は抹消された。いつ終わりになってしまうか分からないが、この地で人が闇に落ちるのを防がなければ、そして、闇に堕ちるものがいたならば、滅さなければ。それが、俺がここに来た意味だろう。
闇に堕ちたものは、既に人ではない。闇のモノの当面の敵意が我々に向かないとしても、そんなことは僅かばかりの間のこと、果てることのない狂気は、周囲に人が居る限り終わらない。
だから、始まる前に終わらせなければいけない。そして、この地でそれができるのは、俺だけなのだから。
それでも……。
それでも、僅かな希望にすがりたくなってしまうことがある。一度、闇に堕ちたら、本当に人には戻れないのだろうか? もう、完全に失われてしまうのだろうか?
どんな理由でも、一度狂気に堕ちてしまったら、人ではないのだろうか?
もし。 もし、一番大事な存在が理不尽に奪われたとき、その心に呪詛が、狂気が吹き荒れるのは人として間違いなのだろうか。
人を大事に思うからこそ、狂気に堕ちるのではないか。ならば、狂気こそは、純粋な想いではないのか? つまり、それは、剥き出しの人の心そのものではないのだろうか?
「馬鹿なことを……」
もう何度目だろう、この疑問を感じたのは。そして何度あっただろう、その疑問を否定せざるを得ない光景を目の当たりにし、自らの手で狂気を刈り取ってきたのは。それが、かつて人だった存在へのせめてもの供養だと言い聞かせながら。行き場のない狂気は、本人にとっても、決して本意では無いはずなのだから。
だが、だからと言って、完全に納得している訳でもなかった……。
新月の夜、闇の中を動くものがいた。敵に一矢報いるつもりだろうか? それとも、動けるうちに逃げ出そうってことだろうか。どちらにしても、放って置く訳にはいかなかった。
だが、どちらにしろ、彼の望みは叶えられなかった。
闇の中、『タン……』と乾いた音が走りぬけ、彼は倒れた。 いや、倒れるべきだった。が、彼は猛然とダッシュすると、自分を狙撃した敵兵を、その頭を鷲掴みにすると、咆哮を上げながら振り回し、周囲に叩き付け始めた。
それは人間の力ではあり得なかった。
「いかん! 既に闇に堕ちていたか!」
調伏するため、飛び出そうとしたが、目の前に別のものが割り込んだ。
『テヲダサナイデモラオウ』
ソレは禍々しい美しさを持ったものだった。
純粋な憎悪を、狂気を、そしてそこに至ることになった想いを感じさせるほどの、そんな凄絶な苦しみと怒りを、一瞬のうちに閃かせた様に感じた。 だが、それでも、ソレは静かな目で俺を見詰めていた。
「なにものだ……」
『ソンナコトハドウデモイイ。 ワレワレノナカマノ、タンジョウヲジャマシナイデモラオウ』
「そうは行かない。 人は、人であるべきだ。 人でなくなったのなら、滅さなければ」
『フン。 オマエノカッテナリクツダナ。 ヒトデアッテモミタサレナイ、リフジンナアクイニホンロウサレテバカリ。 ナノニ、ヒトデアルコトニナンノイミガアル?』
「それでも……。 それでも、人は人であるべきだ。 人であってこそ意味が持てるんだ!」
闇のモノと言葉を交わしたのは初めてのことだった。 いや、言葉を交わせるほどの理性を持った闇の存在と出会ったのが初めてなのかもしれないが。
『ソウカ? カレハソウカンガエテハイナイヨウダゾ?』
ふと、目を転じると、彼、いや彼だったモノは、かつては人間だった肉塊を放り投げると、咆哮を上げていた。その咆哮には、怒りや憎しみ、呪詛の欠片と共に、報復できたことの歓喜が色濃くにじみ出ていた。人としての理性の欠片は、おそらく……。
もう、彼は人の言葉を話すこともないだろう。怒りや憎しみの激情に身を委ねる以外のことは、ソレには思いつかないだろう。これまで、闇に堕ちたモノは皆そうだった。
しかし。
であれば、この目の前にいる、凄絶な狂気と美しさに満ち、それでも静かに人と言葉を交わすことができる、この存在はなんなのだろうか?
「きさま、なにものだ? 言葉を交わすことができる化け物に出会ったのは初めてだ」
『ワレハ、シンゲツ。 ヒトヨリウマレ、ヒトヲニクミ、ヒトヲアワレムモノダ』
「こんな所で、何をしている」
『ココニハ、ワレラノナカマヘトナルモノガ、スクイヲホッスルモノガ、タスウイル』
『ダカラ、ムカエニキタノダ』
「そうはさせん」
『イッソ、キサマモドウダ』
「俺を闇に誘っても無駄だ」
『フン。 ナルホドナ、タイセツナモノナド、ナニモナイカ。 ソンナコトデハ、タイシタヤミニハナレン。 ツマラヌヤツダ』
正直、ソレを打ち負かせるとは到底思えなかった。ならば、せめて闇に堕ちないよう、後悔しないように、心安らかに。そう考えた直後だった。
-- イズレ、マタアオウ --
そんな言葉が聞こえた、そう感じた瞬間、俺の意識は刈り取られていた。
敵陣の医療施設で意識を取り戻し、シンゲツに殺されなかったということと、自軍が壊滅したことを知った。 どちらも残念なことだった。
その戦いで、敵の海兵隊は史上最多の死傷者を出した。中でも、俺が捉えられた夜の被害は甚大で、大規模な反抗があった、との発表だったが、誰もが信じていない様だった。何故なら、殺された兵士達の状況はまともではなかったからだ。胴体が真っ二つなのは当たり前で、バラバラに千切られた兵士も数多く居た。そして、多くの死体は、奪われた火炎放射器でぼろぼろに焼かれていた。そのことがあったので、敗残兵の反抗と復讐、ということになったのだろう。
まぁ、一部、間違いではないのだろうが、相手が既に人ではなかったことをどれだけの人が気付いているのだろうか。いや、気付いていても、口にできないだけかもしれないが。何名かの生還者の顔は恐怖に引きつり、二度と言葉を話せないものも何名もいた。
とにかく、人ではあり得ないものの襲撃により甚大な被害が出た、というのが真相だろう。
俺は、模範的な捕虜として時間を過ごし、やがては故郷へと帰った。そして、その島で死んだ人たちを弔い、残りの人生をやり過ごして行った。一番怖かったのは、いつ、シンゲツと名乗ったあの闇の王が現れて、こっちに来い、そう言うか、だった。
本当に怖かった。何故なら、誘われたら、今度こそ抗えるとは思えなかったから。
俺には大事なものがあった。
心の奥底に押し込めるしかなく、決して手にすることは適わない、そう考えていた。
それだけに大事な人だった。そもそも、その人を守るため、そう考えて戦場に向かったのだから。もちろん、彼女は俺のそんな想いなど知らないはずだ。彼女には、俺などよりよっぽどマトモな許婚がいたのだから。だが、故郷に帰った時、その人はもう話すことも、何かを見ることも、聞くこともできなかった。戦争の混乱の中、何者かに襲われ、階段を転がり落ち、一命を取り留めたものの、暗闇で生きる以外のすべてを奪われてしまっていた。加えるなら、彼女を守る権利を持っていた許婚も、召集令状には逆らえず、俺が赴いたのとは別の戦場で帰らぬ人となっていた。彼女がそのことをを知ることはできなかったが……。
彼女の傍で生きるのは辛かった。俺が、彼女に触れて何を感じているのか知りたかった。何かをしてやることも、何かを受け止めてやることもできなかった。怒りが、憎しみが、悲しみが、まざりあって、自分が何を思っているのか分からなかった。
彼女が、そっと息を引き取った時、俺の手の中で、彼女が冷たくなっていくのを感じた時、自分が悲しんでいるのかどうか分からなかった。
だから、シンゲツが来るのが怖かった。
だから、早く来て欲しかった。
えー、お気づきかもしれませんが、舞台は太平洋戦争末期の硫黄島のつもりです。硫黄島の攻略は、現在になっても、米海兵隊として最大の死傷者が出た戦いだそうです。私が見た記録によると、参戦した日本軍二万人、米軍は六万人、合計の死傷者が五万人、ということだそうです。双方にとって、悲惨な爪あとが残った戦いだったのだ、と思います。
うーん。この彼、あの『龍』の生まれ変わり、という設定なんですが、それもさっぱり分からないし、その意味もない感じで、うーーん。不発な感じです……。
たははは。