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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
7/34

過去 榊部長と私 1



『それじゃあ、辛かっただろう』


あの恋はそんな一言で始まった。




 それは私が東京から離れ、じいちゃんの家がある片田舎に引っ込む前の話。

 いつも通りの金曜日飲み会。何だかんだと社外で集まるのが好きな面々に連れられ、半ば強引に参加するに至った私は、ただひたすらに隅っこでお酒を飲んでいた。

 この際、最低でも参加費以上は腹に入れてやる!

 誰に話しかけることも、話しかけることもなく、マイペースにぼっち飲みを続けていた私の隣にその人が腰を下ろしたのはそんな時だった。


「酒は足りてるか? つまみは?」

「え、あ、はい」


 見知ってはいるが気軽に話したことなどないその人物の登場に、思わず間の抜けた返事を返す。周りはほどほどに盛り上がり、この静かな空間を誰も気にしている様子もない。

 少しばかり動揺しつつ、手にしたお猪口の中身をぐいっと飲み干すと、すかさず隣から徳利が差し出される。えええ。


「す、すみません。あの」

「礼だよ、礼。受けてくれ」


 にっこりと笑って言われた言葉に、何のことだろうかと疑問を残しつつ、それでも上司の酒を断ることは出来ずに杯で受ける。

 お礼? なにかお礼を言われるようなことってあったっけ?


「もしかして、尾野。おまえ、上司の顔を知らないなんて事はないよな?」

「も、もちろんですよ! 営業の榊部長じゃないですか!」


 拗ねたようなその表情に慌てて答えると、隣のその人――榊慶太郎さかきけいたろうはよしよしと頷いて、私の頭をがしがしと撫でた。

 大きく無骨な掌が、頭を掴むようにして前後に振りまくる。ち、ちょっと、それは酔いが回るんですけど!


「あ、あのう。それで、私、何かしましたっけ……?」


 先ほど飲み込んだお酒が今のヘッドバンキングで回り始めたのを感じながら、私は隣でにこにこビールを口にしている榊部長に疑問をぶつける。

 それ程大きくない会社の営業と営業事務だが、机の配置はかなり離れているし、普段はコンビを組んでいる営業さんとしか仕事をしていないはず。

 その仕事だって、直接部長が入ったようなものはなかったんだけど……?


「なんだ、おまえ全然気が付いてないのか! そもそも、この飲み会は営業がおまえの為に開いてるもんなんだぞ?」

「ええ!?」


 そんなん初耳だ! てか、なんだっけ。私、そんな感謝されるようなことした!?

 ぽかんと部長の顔を見つめ返していると、目の前の男前な顔がぶはっという音とともに崩れた。そしてまた、ぐりぐりと頭を撫で回される。いやいや、だからそれ酔っちゃうんですってば!

 何だかイメージが崩れるなあ。

 営業の榊部長と言えば、既婚独身問わず営業事務の女性達に大人気な方。そのもっさりとした天然パーの髪とか、営業に珍しいお洒落にそり残された髭だとか、どこか森の熊さん的な雰囲気を醸し出している。

 加えて体格もいいし、目立つ長身だし。ぱっちりとした二重の瞳は、なんとなく南の匂いを感じさせる。

 女性たちだけでなく、営業の男性陣たちにももてもての部長は、私のような下っ端事務が気軽に声をかけられるような人ではない。と、いうのが今までの印象だった。


「ほら、あれだ。この間木村が受注発注の商品を大量に誤注文しやがっただろ。在庫としてとっておけるんならまだ売り先はいくらでもあったんだが、あれはまた悪いことに足が早え。単価も高いし、客先ですぐさま捌けるようなもんじゃねえし、さすがに頭悩ませたなあ」

「ああ!」


 困ったような笑みを浮かべて話されるその内容に、私はようやくなんのお礼なのか思い至る。

 それは先週のこと。午後になって出先から戻ってきた営業さん達が、なんだかひどくざわついていた事があった。それは事務のほうにも何かの異変として伝わっていて、私も同僚達も何かあったのかと顔を見合わせていた時。

 営業さんたちのデスクがある方向から、どかんと一発の雷が落ちたのだった。


「ばっかやろう! 何でもっとよく確認しなかったんだ!」


 吃驚して振り向けば、そこにいたのは榊部長と営業三課の木村さん。

 普段は大らかそのもので声を荒げることのない部長の一喝で、木村さんの顔は青を通り越して紙のように白くなっていた。

 その後すぐに部長は社内にいる営業全員を招集。何やら作戦会議でもするかのようにみんなで顔をつきあわせ始めた。

 手の空いているもの、パソコンに向かって伝票を打ち込んでいるもの、事務員達はそれぞれに何があったのかと、ちらりちらりと営業を伺う。

 すると、何やら指示を終えた部長が珍しく事務員達のほうへとやって来たのだ。

 どことなく苦虫を噛み潰したような顔で、突然がばりと私たちへ頭を下げる。


「すまん! どこかの店でこの商品を十甲じゅっこうり買ってくれるとこ知らないか!?」


 部長が私たちに示したのは、受注発注で普段なかなか売れることはない商品のパッケージ。

 正直、自分が担当する個人商店でもあまり発注が来ることはないし、あったとしてもせいぜい一甲ひとこうりくらいだ。

 それをこの午後の時間から十甲売り切るというのは、かなり厳しい。他の事務員達を見回しても、やはりみんな戸惑っているようだった。

 一番の古株である赤荻さんが、そんな空気を取りなすように「とにかく、電話をかけてみましょう」とみんなを動かす。

 私も慌てて自分の担当する個人商店さんに電話をかけてみる、が――全て空振り。市場のお客さんは午後を過ぎたこの時間ではもうお店自体を閉めてしまっているし、他のお店も今からじゃ予定がたてられないと断られる。

 残るはあと一軒。私がまだ入社したての頃、そりゃあもう毎日のように怒鳴られた偏屈なじじい――もとい、厳しい社長さんのいる『鹿島商店』さん。

 声はでかいは、押しは強いはで、普通に注文を取れるようになるまではかなり苦労した。そのかいあって、最近はかなりこちらからのおすすめもとってくれるようになったけど。

 ここはまあ、頑張ってみるしかないか。

 すっかり暗記してしまった電話番号を押すと、三コールで社長の元気な声が耳に届いた。


『こちら鹿島商店です!』

「お世話になっております、向坂さきさか食品、尾野です」

『おっ、こんな時間にめずらしいじゃねえか。頼んだもんが入らねえっつうのは受付ないからなあ!』


 この相変わらずのくそじじいっぷりである。

 納品日の無茶な注文を押し通してくる割に、一日でも遅れると文句を連発という、非常に胃の痛いお客様だ。この人の為にどんだけ人脈とごり押しと泣き落としを使っていることか!


「そこのところはばっちり納品致しますので! あの、この間一甲注文して頂いた商品、覚えていらっしゃいますか?」

『まだボケてねえっつの。あの足の早い奴だろ? 物はいいんだけどよ、賞味が短いもんだから売り切るの、苦労したぜえ』


 おっと、直球のプレッシャー。こ、こっからどう持って行けと……。


『それがどうしたんだよ?』

「あー、えー、えーと、ですね。その、そ、それを……十甲買って頂けませんか!?』

『十甲!? 馬鹿言えよ!』


 ですよねえ。ついこっちも直球勝負すぎた。だから、営業には向いてないと……。

 両者、相手の出方をはかりつつ、しばし沈黙。おおおお、どうやってここから切り込んでいったらいいんだ!


『……尾野ちゃんよ』

「は、はい!」


 沈黙の後に聞こえてきた深いため息と自分の名前に、つい声が裏返る。思わず大きな声を出してしまったせいで、部長の視線がこちらに向いたのがわかった。

 いやいや、まだまだ注文は取れてませんから!

 そのまま近寄ってくる部長に慌てて頭を振ってアイコンタクト。部長はわかっている、とでも言うように頷いて、私の隣の席へと腰を下ろした。


『あんた、馬、詳しかったよな?』

「はあ!?」


 予想外の言葉に、お客さん相手だということをすっ飛ばした私の声に、電話の先で社長が大きく舌打ちをする。ちょっと、感じ悪い!


『あんたなあ!……だから、馬だよ、馬。芝生かっ飛ばして、俺に生活費を下さるお馬様だよ!』

「ああ、競馬の。いや、えっと。馬は好きですけど、詳しいというわけでは……」

『いいから聞け! 今度の秋華賞、どれがくると思う? 予想屋やれってんじゃねえんだ。ただの馬好きでいいから、そのあんたから見てどの馬が調子よさそうか教えてくれっつてんだよ』

「ええー……」


 さっきの私の話、どこに行っちゃったんだろうか。

 社長の斜め上過ぎる言葉に私は顔をしかめつつ、それでも馬好きの私の脳みそは無意識に今週末のレースについて考え出す。馬大好きすぎて、時々生きているのが辛い。


「うーん、やっぱ春のに出てた奴が秋も勢いがいいと思うので……そうですねえ。個人的にはフーカタイフーン、レッドフラッグ、コマコサンデーズなんか好きですけど。特に、フーカタイフーンはここ最近調子上げてきてますし、目がいいですよ、目が! 彼女、いつもはかなりとり澄ました感じで、勝ち負けになんて興味ないわって感じなんですけど、でも目を見てるとものすごいギラっとしてますよ。多分あれ、かなりの負けず嫌いだと思うんです。ああいう、熱いものを内に秘めてるタイプって、終盤強いですよ! むしろ、初めは後ろで押さえつけられていたほうが、最後の巻き返しでこの!って感じで発憤します」


 あの美しい肢体。流れるように動く筋肉。艶めく鹿毛。

 優秀な父母を持って、期待とプレッシャーを一身に受けながら育った深窓の令嬢。それがフーカタイフーンである……と、私は妄想する。

 はあはあと荒い息を繰り返しつつ、電話に向かって突然馬の話をし出した私を、隣の部長が目を丸くして見ている。この流れになったのは私のせいじゃない。変態なのは認める。


『尾野ちゃん、あんたって奴は……!』


 あ、まずい。引かれてる。これ絶対に引かれてるよね。

 今まで出会ってきた人たちは、必ずここらでどん引きだった。なにせ欲望に瞳をぎらぎらさせて馬の話をする女など、気持ち悪い以外の何者でもない。

 今後注文が減ったらどうしよう……とため息をついたその時。


『よっしゃあああああああ! そこまで気合い入れてくれたんなら、俺の秋はフーカタイフーンに賭けるぜ!』


 なぜか私以上に鼻息の荒い社長の声が電話から轟き、私も隣の部長も何事かと眉をひそめた。展開の読めないじじいだなあ。


「ええっと」

『わかった。わかってる、皆まで言うな! あんたの馬にかけるその情熱、しっかり受け止めた! だから、俺もちゃんと返すぜ。……さっきの品、全部こっちが引き受けてやろう!』

「えええええ!」


 もはや電話越しに大声大会の様相を呈してきたな、これ。

 落ち着け、落ち着けよ、私。馬の毛並みを思い出せ、そしてあの美しい尻を!


「ちょ、ちょっと待ってくださいね。今、上司と代わりますので!」

『おう』


 担当になってから初めて聞くような、とてつもなく機嫌の好い声で社長が答えたのを確認すると保留を押す。そして私はすぐさま隣の部長に向き合った。


「ぶ、部長……鹿島商店さん、買ってくださるそうなんですが」

「本当か! すごいじゃないか!」


 今の今まで渋面だった顔がぱっと輝いて、至近距離でその眩しい笑顔をくらった私は、思わず顔に血を昇らせる。ここ数年、まったくなかった身体の反応だ。

 よもや私にこんな乙女の部分が、まだ残っていたとは驚く。


「それで、なん甲とってくれるって?」

「それが……全部引き受けてもいいって」

「は?」


 あ、うん、そうだよな。そういう反応だよ、やっぱり。

 なんでか恐る恐る切り出した私の言葉に、部長の笑顔がぽかんとした表情に変わる。こんな風に無防備な顔になると、なんだかいつもより可愛くさえ見えて、その自分の認識にさらに驚いてしまった。


「あの、十甲全部買って頂けるそうです。今、保留で待ってもらってるので、変わって頂いてよろしいですか?」

「わ、わかった」

「三番です」


 我に返った部長はすぐさま机の電話を取り、社長と話を始める。一応、私の役目はここまでだ。なんか、余計に疲れた……。

 隣ではすでに値段の交渉が始まっている。

 全部引き取ってやる!と言いつつ、引き取るからには値切る、というところが社長の素晴らしい商売人根性だ。

 まあ、部長も部長で百戦錬磨の営業部長。足下を見られているのは承知で、そんなに悪い条件を飲むことはないから安心。

 私は密かに拍手を送ってくれた同僚達に手を挙げて答えつつ、パソコンに向かってもとの伝票入力作業へと戻るのだった。


少しの間、二十九日の過去の話に入ります。ノリはいつもより重めですが、そんなに長くならないと思いますので、お付き合い頂ければ嬉しいです。

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