昭夫じいと茂みと不安
どこかで誰かが歌っている。
遠い外国の言葉で、シンプルな旋律がゆらりゆらりと揺れるようにして響く。どこか甘い歌声。私はこの歌を――知っている?
思い出せそうで思い出せない、そんな喉に引っかかった魚の小骨のような思いに、思わず唸って眉を寄せる。すると歌声は途切れ、代わりにするりと頭から肩までを暖かな体温が通り抜けた。優しく、優しく、何度も肩口までの髪を梳いていく指先。
それが耳元を掠め、何とも言えない感触に私はびくりと身体を揺らした。慌てたように離れる体温。
それを追いかけるように、目を開けた私の視線の先にあったのは――馬の尻、だった。
「どわあっ」
まだ半分以上寝ぼけた私がびっくりして飛び退くと、今度は背中に何か硬いものがぶち当たる。そこはかとない温もり。
おい、待て待てちょっと待て。なんで腹に腕が回ってくるんだ!
「この尻の形は田中か。田中なんだな!?」
「僕のお尻の形までばっちり把握している、そんな二十九日さんが大好きです!」
「首に鼻を寄せるなっ! それからどさくさに紛れて、腕で下乳を触るんじゃないっ!」
「今日は初めての下乳記念日ですね」
「私は今日、人生で初めて馬肉を食おうかと思ってる」
「僕はあなたにならいつ食べられてもいいですっ」
人を勝手にヤンデレ要員にするな。っていうかそもそもデレてない。
なぜか私を背後からぎゅうぎゅう抱き締めている田中が、下乳とお腹の越えてはならない微妙なラインをそわりと撫でる。そんな不穏な腕を思い切りつねり、私は素早く田中の腕から抜け出した。
しまった、お奨めスポットとやらで気を抜いていたら、うっかりうとうとしてしまっていたらしい。前日の寝不足がこんな危機的状況を生み出すとは……大失態だ。
心なしか体温の上がった頬を手で隠しつつ、ちらりと横目で田中を見れば、その美しい顔はだらしなく緩みきっていた。
休日だからか、無造作に降ろされた髪がゆるく波を打って額にかかり、田中をいつもと違う印象に見せている。まったく忌々しいほどに顔がいいな、こいつは。
「もう少し寝ていてもよかったのに……」
少し不満げに呟く田中の眼鏡の奥が、とろけるように甘い感情を燻らせる。赤い色の癖っ毛が風に揺れ、筋張った首筋を撫でて流れた。
そんな一連の流れに背中を駆け上がるような感情を覚え小さく震えると、すかさず田中がその身体をぴったりと寄せてくる。男だからか、馬だからか、肩と腕に感じる体温は心地いい。だがしかし!
私はその、さっきまで枕にしていた田中の横っ腹に、思い切り平手を叩きつけてやる。おっといい音。
「調教? ついに調教プレイ!?」
「もうそろそろナルニア国とかに帰れよ、ケンタウロス」
「勿体ないですよね、あれ。角笛かき鳴らす王子なんかより、ヒロインはケンタウロスを選ぶべきでしたよ、絶対! だって、僕らのほうがずっとセクシーでしょう?」
「下半分が馬なのが問題だったんだろうな。ついでに言うと、私は上半分が人間なのが気にくわないんだが、そろそろ理解してくれ」
「ふふふ、そんな照れちゃって! さっき二十九日さん、僕のお腹で眠りながら、ものすごく優しい手つきで僕を撫で回すものだから、僕は覚悟をしましたよ」
「聞かないぞ。おまえが何を覚悟したのか、絶対に聞かないからな!」
あああああ、壮絶に不本意だ。嘘を付けとか全く言えない。だってこの手があの上質のベルベットのような手触りを覚えてる。
呼吸とともに優しく揺れる暖かな身体と、短いけれどちっとも攻撃的じゃない毛並み。時折腕に触れた尾のこさばゆさ。回した手が掴んだ硬い尻。どんなに素晴らしいグラビアの馬からも味わえない、三次元の感触の数々。
ちくしょおおおおお、舐めまわしてええええ!!
ぎらぎらと欲望に充ち満ちた目で田中を見れば、奴は何を思ったか深く頷き、身体を横倒しにして私を見つめ返してきた。その潤んだ瞳は何だ、田中。
「初めてが大自然って、ちょっと馬っぽくていいですね……」
「うわああああ! 微妙に否定出来ない気持ちがむかつくうううう!!」
私が自棄になって田中の背中を踏みつけていると、近くの草むらががさっと大きな音を立てて揺れた。通りかかったのは、運悪く地区の長老的存在である昭夫じい。取り繕う暇もなく、この惨状がじいの前に晒される。この場合、運が悪いと感じたのは私のみ。
私は田中を踏んだまま固まり、田中は嬉しそうに尻尾を揺らし、昭夫じいはにやりと笑みを浮かべた。
「一二三の孫娘は積極的じゃのう! 馬を押し倒すとはなかなか……」
昭夫じいのその言葉に、このじじいをどこの山に埋めるか迷って沈黙した私の隙をついて起きあがった田中が叫ぶ。
「失礼ですよ、昭夫さん!」
どこか凛々しく、にやにや顔の昭夫じいを睨んだ田中の横顔に、私の心は不覚にも少しときめく。そして振り返った田中は力強く頷くと、まかせとけと言わんばかりに胸を張りってその続きを口にした。
「だから何度言ったらわかるんですか、僕は馬じゃなくてケンタウロスですっ! 僕を馬扱いしていいのは二十九日さんだけなんですっ」
「そこか!? 重要なのは本当にそこだけなのか!?」
「当然ですよ、二十九日さん。僕はあなたのケンタウロスなんですから!」
返せ。私のさっきの無駄なときめきを、今すぐに返せ。
がっくりとうなだれた私に近寄ってくると、昭夫じいはわかっているとでも言うように肩をぽんぽんと叩く。 お、珍しく空気を読んだかと思ったが。
「ここじゃいくら何でも丸見えじゃ。ほら、そこのしげみの奥、あそこなんかは穴場じゃぞ」
「田中、今すぐ真光寺の住職連れてこい」
「嫌です。あそこの住職、競馬で負けると僕に塩撒くんですよ!?」
助けてアルカディア号。この田舎にまともな人間なんかいないんだ。そうだ、そうに違いない。都会育ちの私が足を踏み入れてはならない魔境だったんだ。
「心配するでないぞ、一二三んとこの。この地区には奇跡的に獣医がおる。立派な子馬を産むんじゃぞ!」
「頼むからもう帰れ。どこまででも帰れ。仏のお迎えが必要だったら手伝うから」
「そうですよ、昭夫さん。せっかく初めてのデートなんですよ? 気を利かせてくれないと、もう二度と本屋から『本気の新妻一発乱れ咲き!純生シリーズ』とかお届けしませんからね」
「そ、それは困るのう」
明らかにじじいが読むには良からぬ本のタイトルを爽やかに告げ、満面の笑みを浮かべた田中が前足で昭夫じいの背中を押す。
早く田中と二人っきりになりたいわけでも、昭夫じい推薦の茂みを使用したいわけでもないが、とにかくじいがいるとこの場がややこしくなることだけは、はっきりとわかっていたのでついでに私も背中を押す。
「あと、僕は奥さんとも仲良しですからね。僕たちのことおもしろ可笑しく噂になった日には、『趣味の園芸』だと思っていた本の真相が奥様にうっかりばれちゃうことも、無きにしも非ずですよ」
じじい、おまえは中学生か!という叫びは飲み込んで、私は意外な思いで田中の横顔を見上げていた。
こいつのことだから噂になれば、「噂万々歳!」「これで僕たち恋人認定ですね!」とか嬉々として言い出すのかと思っていたのに……。
そんな私の心を読んだかのように、こちらをちらっと見た田中の薄い青色が、優しい笑みの形に細められた。
「若いもんが二人してか弱い老人いじめよって! 今に見ておれ! 近い内に婆さんの竹の子料理、死ぬほど味わわせてやるからの!」
よくわからない捨てぜりふを吐いて、昭夫じいが年齢の割に機敏な動きで家の方向へと走り去っていく。すごいぞ、九十歳。
しかし素直に「今度ご飯食べに来てね」って言えばいいものを。あのじじいもうちの今は亡き一二三じいちゃんといい勝負の意地っぱり具合だ。
「まったく……せっかく二十九日さんとデートだったのに、もう夕方ですよ!」
「おかしいな。私は野良ケンタウロスの散歩をしてやっただけだけど」
「いいんです、それでも。僕は幸せですから」
いつも通りの私の言葉にさらりとそんな言葉を返し、田中はそうっと私の手を握った。
まるで壊れ物を扱うようなその触れ方に、なんだか怒る気にもなれずに私はただ少しその手に力を込める。
男の、手だった。私の手を包み込む、大きな掌。高い体温。紙を扱うことが多い所為なのか、指は少しだけかさついている。その指が、私の手の甲を優しく撫でた。
何だか、少しだけ泣きそうな気持ちになって眉を潜める。すると、握られた手が強く引かれて、私は田中の胸へと導かれた。
「ちょっと……!」
「お願い」
どこか苦しげに息を吐いて、頭の上から低い声がする。
小さいのに、拒否出来ない。
「お願いだから、少しだけ……」
握った手よりずっと、頬に触れた身体のほうが熱かった。硬い胸板に押しつけられて、少しだけ息苦しい。太陽の匂い、彼の匂い。
緩く羽織られたシャツの隙間から触れる肌が、しっとりと私の肌に触れ、どうしようもない気分にさせられる。どうして?
どうして、いつもそんなに優しくするの。
どうして、いつもそんなに苦しそうに私を見るの。
ふざけてばかりいるくせに、どうしてこんな時ばかり――。
頭のてっぺんに唇を寄せ、田中は触れた時と同じようにそうっと私の体を離す。
「……夕陽、落ちてしまいましたね」
何事もなかったかのように笑って。だけど、その氷色の瞳だけが、未だ消えない熱を湛えてそこにあった。
その中に映る私は今、どんな顔をしているんだろう。
「夕陽なんて、いつだって見られる」
いつも通りの素直じゃない言葉に、田中は安堵したように微笑んだ。
肯定も、否定もせず、ただふんわりと笑う。どこか儚いような、そんな笑み。
「そうですよね。……じゃあ今日は帰りましょうか」
アルカディアさんも待っていますしね、と続けられた言葉に頷いて、自然に差し出されたその手を取る。それはまるで私の為の場所のように。
無言で歩きながら、ふと私はこの男にこんな風に求められたのが初めてだったことに気が付いた。
口では何だかんだと言ってくるくせに、私に無理に求めることはしない田中は、指先が触れることさえひどく恐れる。
今、こうして隣にいる田中という男は、どこかに何かとても歪なものを感じさせる。私にはそれが不安でたまらなかった。