馬と獣医と駐在な俺
「杉村さんっ、大野さんっ、二人でこそこそなあにしてるんですかあ!」
ばん、とノックもなしにそのケンタウロスが部屋に乱入してきた時点で、俺たち二人の人生は終わった。
柔和で美しく整った顔が、満面の笑みを浮かべて俺たちを見下ろしている。俺がもし女性だったとしたら、うっかりぼうっとなってしまうくらい、ケンタウロス田中のその笑顔は眩しかった。いっそこのドアを開け放ったのが、ジェイソンかなんかであってほしいと願ったほどに。
ぼとり、と隣に据わる杉村の手から『ブツ』が落ちる。
だから俺はあれほど言ったのだ。これを寮で摂取するのは危険だと!
「や、やあ、東馬君! きょ、今日は昭夫じいさんとこで竹の子パーティーじゃなかったんですかね……?」
「どうしたんですか、杉村さん。微妙に口調がおかしいですよ? ああ、パーティはですね、大変残念なことに昭夫さんの奥様が少しお風邪を引かれまして、大事を取って後日ってことになったんですよ。二十九日さんとの夕食が流れてしまったのはとっても悲しいんですが、奥様のお体も心配ですからね」
整った眉をいちいち美麗な仕草でひそめ、田中は心底残念だ、という表情を作る。が、しかし。その薄い色の瞳は何の感情ものせてはいなかった。真ん中に透けて見える瞳孔部分が、恐ろしいほどに開いてこちらを見つめている。
俺は悟った。これは、死んだ、と。
「そ、そうなのかあ! いやあ、残念だったなあ! あはははは!」
「本当にねえ。ふふふ」
「こ、この機会に尾野ちゃんとこにでも、泊まってくればよかったじゃねえか!」
「不審者のこともありますし、僕も是非にって言ったんですけど、僕の二十九日さんてばとっても照れ屋さんですから。一緒に家に入ろうとしたら、お土産にもらった竹の子を、イチローもびっくりするほどのレーザービームで投げつけられました。ふふっ」
村を守る駐在として一応独身女性である尾野の安全を考えた場合、姿の見えない不審者よりも、この目の前にいるケンタウロスのほうがより危険に思えるのはどうしてだろうな。
とにかく、ナイスだ尾野。
さすが幼少の頃、初恋の少女に対する俺のサディスティックな愛情表現を耐え抜いただけのことはある。これだけは口が裂けても田中には言えないが。
「あーあー、えーっと! あ、そうだ! 俺、明日は朝から高橋さんちの牛を診てやらなきゃいけないんだったー! 早く部屋帰って寝ようっと!」
目が泳ぎまくって不自然にも程があるぞ、杉村。
そして俺を置いて逃げようなんて、不届きな。この大惨事の主たる原因はおまえだろう。
「やだなあ、杉村さん。高橋さんのお家には昨日往診に行かれたばかりじゃないですかあ! あそこのバツイチの娘さん、胸がEカップ!って小躍りしていたの、忘れたとは言いませんよねえ?」
「ははははは、そうだっけー? いや、俺、牛の巨乳も大好きでよお! なんっか毎日でも会いたくなっちゃうっていうか」
「初耳ですねえ」
「だろう? 俺も今知ったんだ」
正直者め。だが杉村、そんなお前は嫌いじゃないぞ。
決して嫌いじゃないが、その捨てられた柴犬のような目で俺に助けを求めてくるのはよしてくれないか。正直、俺はさきほどから背中に大量の汗を掻いている。無論、冷や汗だ。
「大野君、僕たち友達だよね」
「トモダチ? はて、それはどこの国の言葉だろうか」
「大野てめえ! 大好きだから助けろよこの野郎!」
つい、自分の中のSな辺りが疼いてしまう。人を陥れて泣かせている場合では無いというのに、因果なものだ。
ロープ際に追いつめられたプロレスラーのように、杉村は必死に俺に手を伸ばす。仕方がない。
俺は背中だけでなく額からも吹き出し始めた汗を拭いつつ、目の前で仁王立ちでにこにこと笑っている田中に正対した。無意識に畳をひっかいている田中の前足が、途轍もなく恐ろしい。
「田中、何も俺たちはお前を騙していたわけでも、嘘をつこうとしてわけでもない。これは……そう、不幸な事故なんだ」
「そうですか……不幸な、事故、ねえ。僕のいない間に、僕の隣の部屋で、僕があれほど勘弁してくださいねって頼んだ『馬肉』を今まさに食べようとしていたのは、ほんっとうに不幸な事故ですよね?」
「……そうだな」
「僕は悲しいです。何も、動物の肉は絶対にだめなんて言ってないんですよ? ただ、僕はケンタウロスですから。やっぱり、馬の肉をひとつ屋根の下で食べられると、こう、胸にこみ上げてくるものがあるんですよ。わかって頂けます?」
「……すまん」
「しかも、生肉。生肉ですよ? 信じられない! 杉村さんならともかく、大野さんだけはこんな風に人を騙すなんてことはしないと信じていたのに……」
「おいこら、俺はともかくってなんだ、俺はって」
読める空気を探すのが困難である杉村がつい口を挟むが、それは田中のブリザードの如き視線で止められる。さすがに本能は危険を感じたようだ。
そしてその視線は再び俺にも降り注ぐ。なぜだ田中。
「大野さん。大野さんは、地区の安全を守る正直な警察官さんですよね」
「ああ。俺は決して嘘はつかないぞ。つかなすぎて、よく街の上司に通報されるほどだ」
尻が好きだと公言することの何が問題なのか、警察官を職業にしてしばらく経つが、未だに理解できていない。
産まれ育った場所で勤務できることに不満はないが、そこさえ理解できていたならば、俺は今頃警視庁とかに配属になっていると思う。自分で言うのも何だが、俺はこれでも優秀な警察官なのだ。
「そうですよねえ。決して嘘はつかないんですよね……。だったら、なんで僕の二十九日さんが初恋の人だったんだって、うち明けてくれなかったんでしょうね?」
「え」
予想外の攻撃に、俺のヒットポイントは真っ赤に点滅する。宝玉、宝玉が必要だ、今すぐ!
なんてゲームネタを披露している場合ではない。
「な、なぜそれを……?」
「僕はこの地区の郵便配達員なんですよ。大野さんや僕の二十九日さんが小さな頃をご存知の方々と、僕はとっても仲良しなんです。配達のときに世間話に付き合うのも、配達員の仕事の一貫みたいなものでしてね」
「昨今、過疎化が急激に進んでいるからな。独居している老齢者と会話をするのはいいことだと思うぞ。郵政民営化などと言って、郵便局も競わねばならない時代になったが、そういう昔ながらの習慣が残っているというの大事なことで……」
「どうしたんですか、急に多弁になりましたね、大野さん」
「そんなことはない。俺は昔からお話が大好きな子供だった」
汗が止まらない。なんなんだ、このどす黒いプレッシャーの嵐は。
おい、そろそろ交代の時間だろうが。と、隣の杉村に目をやれば、なんということか。杉村は座ったまま深い眠りに落ちていた。
しまった……。杉村は五分以上しゃべれないと、飽きて寝てしまうのだ。
馬鹿か! 馬鹿なのか!? ていうかすまん、訊くまでもなく馬鹿だったな……。
「大野さんって、昔からドエスだったらしいですねえ。学校の長期休みで僕の二十九日さんが遊びに来るたび、川に落としたり蛙を投げつけたり、かくれんぼを始めたまま飽きて家に帰ったり、色々いじめてたんですよね? ひどいなあ」
「誰だ、誰なんだ、お前にそんなことを吹き込んだのは」
「杉村さんとか、佐内さんとか、あともちろん昭夫さんとか」
くそ。主に加納昭夫九十歳の仕業か。あのじじいが……いつか無修正のエロビデオ所持とかでぶちこんでやる。
「田中、いいか。それは昔々の甘酸っぱい青春の一ページだ。いや、青春にも程遠い、小さな恋のメロディだ」
「恋? 恋って言いました?」
それまで辛うじて笑顔を浮かべていたその美貌が、俺の不用意な一言によって凍り付く。
正直者は馬鹿を見る。
鹿はいないが、まさに俺は今、馬を見ている。昔の人はうまいこと言ったものだ。
「ふふふふ。いやあ、僕、すごく悲しい気持ちですよ……。こんなすぐ傍にいた人が、しかもお友達だと思っていた人が、影で僕を裏切っていたなんて!」
「いや、だからそれは昔のことで……というか田中、当初の怒りの矛先から大分ずれてきているようなんだが」
「杉村さんは杉村さんで、僕の二十九日さんと密会をしているし。この上大野さんまで、小さな頃の可愛らしい二十九日さんの姿を、その記憶の中に宿している……。僕はいったいどうしたらいいんでしょうね」
「とりあえず、深呼吸をしてみたらどうだろうか」
ぶづふつと低い声で呟きながら、俯いて肩を震わせる田中に、俺はそっと労りの声を掛ける。この先、自分たちの身に何が待ち受けているのか、うっすら見え始めている辺りが悲しい。
「ああ、そうです。そうですよ、大野さん!」
「何だかとても嫌な予感がするので聞きたくないんだが、なんだ、田中」
「記憶って、頭に“こつん”って衝撃が加わったりすると、ちょっとだけふっとんだりしますよねっ」
「明らかにそれは、“こつん”なんて可愛らしい表現じゃ収まらない衝撃だと思うんだがな」
「僕ってかしこいケンタウロスだなあ。そうか、ちょっと“こつん”としてしまえばいいんじゃないですか!」
「田中。お願いだから落ち着け」
予定通りのオチに向かって、最終コーナーを曲がった。今、多分直線に差し掛かった辺りだ。馬に敵うはずもない。
「さあ、大野さん!」
「いやいや、よく意味がわからないぞ、田中!」
「大丈夫ですってば。あんまり痛くしませんから」
「あんまりとはどのくらいだ。なぜ俺だけが!? 杉村、起きろ! 杉村ああああああああああ!!」
翌朝、寮の前で気を失った駐在大野が、第二村人によって発見される。大急ぎで診療所に運ばれた大野は、しかし、自分の身に起きたであろう昨夜の出来事をすっかり忘れてしまっていた。
同寮の獣医杉村も昨夜は早めに就寝したとのことで、この駐在気絶事件は大野の額のたんこぶが消える頃に、迷宮入りとなったのであった。
真相は、翌日手ずからの竹の子ご飯を持って二十九日のもとに向かった、田中だけが知っている。