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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
3/34

お前のその目はビー玉か?



 三十歳の朝は早い。

 地区の外れにひっそりと建つ、一人で暮らすには無駄に広い平屋。その家中の雨戸を開けて回るのが、私が起きて身支度をする前にまずすること。

 それから顔を洗って髪を整え、一番茶と炊きあがったご飯を仏壇に供え手を合わせる。

 じいちゃん、ばあちゃん、おはよう。

 心の中でそう声を掛けると、写真の中のふたりと目を合わせる。

 私のことを最後まで心配し、愛してくれたふたりが残してくれたこの家が五年前に東京から戻ってきた私の今の居場所。

 今日も元気に過ごすことを誓うと、私は朝食前に勝手口から外へと足を向けた。

 自分の朝食よりも優先すること。それは、厩舎にする我が愛馬『アルカディア号』の世話である。

 私が姿を見せると、昇り始めた朝日に照らされて美しい姿をした黒鹿毛のアルカディア号は、嬉しそうに私の肩に鼻先を擦りつけた。

 あああもおおお可愛いいい!!

 私も負けずに額に顔を擦りつけ、しばらく一頭と一人は朝の至福の時間に浸るのだった。

 朝一番、一回目の餌やりを済ますと後ろ髪を引かれつつ家へ戻って自分のご飯。簡単にお茶漬けとインスタントみそ汁と緑茶。これが定番。

 さっと片付けると再度アルカディア号の所へ。

 水を用意した裏の空き地へと放してやると、アルカディア号は嬉しそうに駆けていく。その幸せそうな姿を見ながら、私は彼女の寝床を掃除したり餌を追加したりしていると、時間はもう午前中を半ば過ぎているのだった。

 全てが愛馬中心の生活。

 それを幸福だと思いこそすれ、どこかへ遊びに行きたいだとか誰かとお茶でも飲みながらのんびりしたいだとか、そういうことは一切ない。あり得ない。

 なので、この私とアルカディア号とのいちゃいちゃ時間を邪魔する奴は、マジで馬に蹴られてなんちゃらしてしまえばいい。


「二十九日さーん、二十九日さん、僕です! 田中東馬が参りましたよー!」


 ただし、相手が馬の場合は何に蹴っ飛ばしてもらえばいいのか、未だにわからないでいる。



***



「表に郵便受けを作ったんだが、その目はビー玉か!?」

「うふふ。あれって僕専用の郵便受けですよね! 心配しなくても僕からの手紙は三通ほど入れておきましたから」

「持って帰れ、今すぐに!」

「大丈夫です、きちんと切手も貼って局を通してあります!」

「誰がそこを気にした!? ねえ誰が!?」


 もうやだこのケンタウロス。


「あ、これお届け物です。簡易書留なので判子をお願いします」


 斜め上のやり取りにがっくりと肩を落とした私に、何度怒鳴られても懲りないこの馬男はにっこりと笑って郵便物を示す。最初から言えよ、最初から。

 私は仕方なく田中に表に回るように言うと、自分は勝手口から家の中へと入る。

 くっそう、この後存分にアルカディア号といちゃついて、念入りにブラッシングしてやろうと思っていたのに!

 ああもう早く済まそう。誰だよ、簡易書留なんてわざわざ判子のいるような物送ってきやがったのはあ!

 判子を持って玄関に行けば、おまえは三軒先の宮本さんちの柴犬か!と思うほどに尻尾を振って待つ――決して比喩でなく――田中の姿。


「ほら、判子さっさと押して、さっさと帰れ」

「て・れ・や・さんっ」


 このこのおっ、と前足を脇腹に擦りつけてくる田中の横っ腹に蹴りを入れる。

 そうか、私がこの馬を蹴ればいいのか。なるほど。


「いたっ! 二十九日さんの愛が痛いっ!」

「その邪魔な尻尾を切って筆にしてやろうか!」

「そんなに僕のこと……」

「そこ頬染める所じゃないよ! 絶対に間違ってるよ!?」


 落ち着け、二十九日。相手にすればするほど、こいつの思う壺だ。

 渡した判子で丁寧に受領印を押して確認している田中の身体が、玄関からの光を浴びて滑らかに輝く。やばい。

 小さな動きと共にぴくりと動く腿から尻にかけてのラインなんか、そこらの競走馬にも引けを取らない美しさ。

 知らずに荒い息を繰り返す私に気付いた田中は、その端正な顔に艶やかな笑みを浮かべてゆっくりと私に身体を近付けてきた。

 上さえ見なければっ、上さえ見なければ馬なのに……!!

 騙されるな二十九日、これは田中だぞ! 田中なんだぞ!?

 なけなしの理性が私に警告するが、私はどうしても奴の身体から目が離せない。


「ねえ、二十九日さん」


 局の制服に包まれた上半身を折り曲げ、田中は低く甘い声で私を惑わす。


「触りたいんじゃないんですか? 僕の毛並み。とっても美しいでしょう? いいんですよ、ブラッシングしても……」


 あなただけ特別に、と付け加えることも忘れないあたりが腹黒い。

 わかっている。この悪魔の囁きに耳を傾けたが最後、次からは「僕にあんなことしたくせに」とか「あの時は気持ちよかったです」とか何とか言って、既成事実にしようとするに違いないんだこの馬は。

 ああ、そこまでわかっていてなぜきっぱり断れない、二十九日!

 誘うように振られる尻尾につい手を伸ばしそうになった瞬間。

 裏からアルカディア号の鋭い嘶きが響き渡り、私は危ういところで伸ばした手を引っ込めることに成功した。

 あ、危ねえ。マジで魂売るところだった……。


「ちっ、あの年増が……」


 ちょっと待て田中、アルカディア号は確かにちょっとお年を召しているが、おまえにそこまで言われる筋合いはないっ!

 ということで、私はさくっと田中の手から書留を奪うと開いたままだった玄関の外へと奴を蹴り出す。

 かーえーれーっ、かーえーれーっ。


「今回は邪魔が入りましたけど、僕は諦めませんからねっ」


 何その捨て台詞。お前に次などあるわけがない!

 後ろ足で器用にバックをしつつうっとりとした視線を送ってくる田中を、ため息と共に送り出す。最早怒る気力も惜しい。


「……何でそこまで私に執着するわけ?」


 ぽつりと零れた私の言葉に田中は一瞬、驚いたようにその綺麗な氷色の瞳を見開いた。少しの間不思議な感情の揺れがその瞳に現れ、けれどすぐにそれは微笑みへと変わる。

 いつも見せるものとは全く違う、どこか私の心を落ち着かせなくなるような、そんな笑み。

 そして少し厚めの唇に指を当てて囁く。


「それはまだ秘密です」




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