駐在と獣医とケンタウロスな僕
本編の半ばにあったものを移動しました。内容に変わりはありません。
『この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ』
血の滲むような落書きが玄関を飾る、片田舎の独身寮。
築うん十年以上。木造モルタル。共通のトイレと辛うじて機能している風呂。夏はキレそうなほどに暑く、冬はすきま風に震えることとなる。
そんな薄汚いボロアパートの片隅で、今日も住人達は身を寄せ合って生きているのである。
***
「だーかーらーあ、やっぱおっぱいだよ、おっぱい! おっぱい! 巨乳でも美乳でもちっぱいでも何でも来い!」
「何を言っている。女性は尻に決まっているだろう。あのむちむちと張った皮と肉。少し垂れていようが、筋肉がついているよりも脂肪が沢山詰まっている方がいい」
みみっちく、乾燥イカソーメンやよっちゃんイカをつまみに、その飲み会は今日も今日とて同じ話題に辿り着く。正直どうでもいいなあと思いつつ、僕は仕方なく冷蔵庫から大野さんにビールを、棚から杉村さんにウイスキーを出してやる。気が利くケンタウロスだなあ……あとで料金を徴収しよう。
「相っ変わらずの変態だな、大野! おまえ、想像して見ろよ。超巨乳のミニスカポリスが手錠じゃらじゃら言わせながらの、一対一の取り調べ……美味しすぎる!!」
「変態のお前に変態呼ばわりはされたくはないがな、杉村。それを言うならば、むっちりヒップを持つ白衣の女教師が机の上で尻を振っている想像をしろ。鼻血ものだぞ」
「いや、ミニスカポリスだ!」
「白衣の女教師だ」
両者一歩も譲らず、無言で新しいビールとウイスキーに口を付け、そのままぎりりとこちらを振り向く。すごく嫌な予感だ。この二人に対して、僕のこの予感は外れることがない。
初めてこの寮に引っ越してきた時も、まだ汚れを知らなかった頃の僕に対して、このふたりの残虐な行為ったらなかった。
ある時は僕に直腸検査をやらせろと迫り――尻の穴から腕を突っ込む家畜用の――、ある時は騎馬警察に憧れているだとかなんだとか言って、無理矢理僕の上に乗ろうと画策したり――ケンタウロスにとって陵辱行為に等しい――。
数々の悪行を思い出して思わず意識が遠のいた僕に、全くそんなことを構いもしないでふたりは暑苦しく迫り来る。
「東馬っ、おまえは乳を信じる同志だよなっ!?」
「田中、尻はおまえを裏切らないぞ」
「どちらも遠慮します」
ああもう嫌だ、こんな独身寮。
二人の変態に睨まれつつ、飲めない僕はそっとため息をついて烏龍茶に手を伸ばす。
寮居住者としては後輩にあたる僕は、なぜかこの二人に一度も逆らえた試しがない。だからこそ、いつもこのどうしようもない飲み会が僕の部屋で繰り広げられているわけで。
独身男が三人集まって酒が入れば、話題はどうしてもそこにいく。
「ええと、疑問なんですが。どうしてミニスカポリスの好きな杉村さんは獣医で、白衣が好きな大野さんが警官なんでしょう」
「んなの、周りにいないもんで妄想するから楽しいんだろうが! おまえ、牝馬で抜けんのかよ、牝馬で!」
「女性警察官など、もはや女ではない。あれは……悪魔の一種だ」
ばしばしと僕の前足を叩きながら杉村さんが言えば、何があったのか知りたくもないけど何故か青ざめた顔をした大野さんが、真剣な顔で僕に訴えかけてくる。
もういい加減帰ってくれないかな、この人達。助けてください、僕の二十九日さん!
「どっちがどっちでも興味ないからいいんですけど、そろそろ帰ってくれませんか? 僕、明日は朝から忙しいんですよ。――ところで、杉村さん、僕の素敵なお尻を揉むのはやめてください。大野さん、これは強制わいせつですよね」
「東馬、さすが下半身馬男! いい尻してるなあ。今度、仲上さんとこの牝馬に種付けしてみねえか? 名のあるサラブレッドの精子は高くってなあ」
「だから尻は最高だと言っているだろう?」
「さっき僕に牝馬では抜けるのか疑問を呈していたと思うんですけど! というか、僕は馬じゃないので牝馬には勃ちません! むしろ、二十九日さん以外で興奮したりしません!」
鼻息荒く言い切り立ち上がると、後ろ足で二人を追い払う。
勢いで元々ぼろっちい襖が破れるが、もう気にするのはやめよう。ああ、日本の住宅って狭くてだめだなあ。
「えー、尾野ちゃんかあ。まあ、乳には全く主張がないのが残念だけど、確かに美人だよな」
「尻も大概残念だが。小さい頃は棒きれみたいな奴だったが、まあ見られるようになったんじゃないのか」
「ふふふ。僕に蹴られて飛距離の新記録を狙えるのは、どちらなんでしょうねえ?」
前足で畳を踏みしめつつゆっくりと近寄ると、さすがに二人は慌てて僕から距離をとる。
それに少しだけ満足した僕は再び腰を下ろし、烏龍茶の入ったコップをぐいっと煽った。ん?
「あっ、ばか、それ俺のウィスキー!」
そこから僕の意識はぷっつりと途絶えた。
***
俺は知らない。俺は何にも悪くない。俺の責任じゃ、絶対にないっ!!
「だぁーかーらー! おっぱいもお尻もそんなのぜぇーんぜんわかってないんれすよ! そんなもの、ただの飾りにすぎないんれす! 二十九日さんはぁ、確かにおっぱいもちっちゃいですしぃ、お尻だってすとんとしてますけどぉ、何たって匂いっ! いい匂いがするんれすよぉ!」
「わかった。わかったから、寄っかかるな田中。潰されて死ぬ! 俺は死ぬ!」
さっきから同じ事を繰り返しながら、ケンタウロス東馬は真っ赤な顔をして大野に寄りかかっていく。
……大野、おまえの尊い犠牲は忘れない!
この隙にっ!と脱出を計った俺だが、なぜかぐいっと何かに引かれて後ろに倒れ込んでしまった。
「どぉこ行くんれすかあ! 杉村さん! まだ僕の二十九日さんへの愛は語り終わってませんよう!!」
据わってる。目が完全に据わってる。
いつもは「僕、なんにも悪い事なんてできません」みたいな、綺麗で優しげな顔をしている癖になんなんだこの落差! 誰だ、こいつに酒飲ませたの! 俺だ!
いや、事故だ。あれは事故だったんだああああ!
「落ち着け東馬。お前の尾野ちゃんに対する愛の深さはよぉおおおくわかった。わかったから、前足を上げてくれないかな?」
暴れ馬に対するように、俺はなるべく穏やかな声でにっこりと笑う。
なんていうか、暴れ馬のほうがまだ対処のしようがある気がする……。
「尾野ちゃん……?」
「え」
俺の言葉に、透き通るような青い瞳が剣呑な光を宿らせた。なに、この死亡フラグっぽいの。ねえねえ、ちょっと何俺失敗!? 失敗しちゃったの!?
助けを求めるように大野を見れば、奴はすでに失神済みだった。警官役に立たねえ!!
「前から思っていたんれすけどねえ……、杉村さん、僕の二十九日さんにちょおっと馴れ馴れしいんじゃないれすか……?」
やあ、低くていい声してるなあ、東馬。背筋が凍り付くほどだぞ!
俺は初めて知ったよ。バカみたいに顔の美しい奴は、無表情になると下手なちんぴらの威嚇よりも怖いって事。
「待て待て待て待て! 俺はだなっ、この地区唯一の獣医としてだな、時々アルカディア号の診察とかで尾野ちゃんに会ってるだけで!」
「僕のいない隙に僕の二十九日さんと逢い引き!?」
おおっと、超絶斜め上展開きた。うっすらと浮かぶ笑顔が恐ろしいぞ、東馬!
返してっ、俺の可愛い東馬を返してよ!!
前足に羽織っていたシャツの裾を踏みつけられたまま、俺は無駄な抵抗と知りつつ、じたばたと手足を動かす。
「ふふふふふ。知ってますかあ、杉村さん! 昔の人はよく言いますよねえ? 人の恋路を邪魔する奴はあって」
「あはははは。してない、してないから、恋路の邪魔!」
「ねえ、杉村さああああん」
「いやあああああああああ!!」
翌日、なぜか独身寮の前で気を失った杉村が第一村人に発見され、診療所に運び込まれる騒ぎになる。
だが当人はぶるぶると震えるのみで真実を語らず、それを調べるはずの駐在大野もただ口を噤むのみであった。
真相は、今日も元気に二十九日の家にラブレターを届けに行く田中だけが知っている。