ケンタウロスと私
「おま、おまえ、ど、どうして!?」
「田中はいるのか? 荷物を運んできてやった」
「に、荷物?」
なぜか知らないがものすごく晴れやかな笑顔でそう言うと、駐在はすぐそばに置いてあった段ボールを持ち上げ、玄関へと運び入れた。
何が入っているのか、中くらいのものが三箱ほど。
私は寝起きの顔をさらしたまま呆然と、その簡単な作業が終わるまで立ち尽くす。昨日、あれだけ傷つけてしまったと後悔した人物が、目の前に。わけがわからない。
「まあ、少ない気もするがこれで全部だ。あいつは意外と倹約家だな」
「荷物って……まさか田中の?」
「当然だ。あそこは独身男の最後の砦だぞ。幸せな奴にくぐらせる門など存在しない」
かすかに黒いオーラをまとわりつかせた駐在はそう言うと、にやりと笑った。私はといえば何も言い返すことができずに、沈黙する。
要は、独身寮からわざわざ田中の荷物を運んできてくれたと、そういうことなんだろう。あいつがいつの間にかここに住むことになっているのを除けば、ありがたい……と思う。
「田中はまだ寝てるのか?」
「あれえ、大野さん。おはようございます」
大野が切れ長の瞳を奥にやったのと同時に、素肌にシャツを羽織っただけの田中が廊下の向こうからこちらへと歩いてきた。どこか情事の余韻をまとわりつかせ、シャツのボタンは留めずに前は開けっ放しで。
壮絶な色気はあるが、とりあえずそれはなんとかしろ!
どこからどう見ても昨日の夜はそういうことをしました、と言わんばかりの姿を駐在に見られるのが恥ずかしい。心なしか、彼の変わらぬ涼やかな顔がひきつったようにも見える。
「ああ、おはよう。朝からお前の上半身が拝めて嬉しいな」
「やだなあ、大野さん。宗旨替えはやめましょうよ! 僕、上に何も着てないとすごくケンタウロスっぽいんですよ?」
「黙れ半獣!」
思わず段ボールからひょっこり飛び出していた何かを掴み、思い切り口の減らない馬にむかってスイング。
ぼこん、とくぐもった音を立てて、それは田中の片腹にヒットするが……ぼこん?
「ああっ」
「なんだ?」
防御の姿勢を取っていた田中が、私が手にした物を見て悲鳴を上げる。それと同時に私も自分が手にした柔らかな物に目を落として……絶句。
なんだ、これは!?
そんなに軽くはないが重くもない、ふわふわと柔らかいそれは長細い枕。こう、いかにも抱きついて眠れます、という感じの。まあ、そこまではいい。それ自体はどうでもいい。だがしかし。
その表面にプリントされていたのは、私の姿。それも、まだ小さな頃の。
「……田中」
「あっ、やだなあ、二十九日さん。また元に戻ってますよお! 田中じゃなくって東馬って呼んで下さい。ねっ」
「これは、なんだ?」
「え? ええーと、二十九日さんご存知ないんですか? それは抱き枕って言って、人間さんたちもよく使うらしいんですけどね、僕たち下半身は馬でしょう? 何か抱きつく物があったほうが安定して眠りやすいんですよお」
「もう一度だけ訊く。これはなんだ、田中」
「……と、特製二十九日さん抱き枕です……」
しん、と玄関に思い沈黙が落ちる。
私はそっとその抱き枕をその場に置くと、一番上に乗っていた段ボール箱を思いっきりひっくり返してやった。隣の田中が再び悲鳴を上げる。
「駄目ですっ、駄目ですっ、二十九日さん!」
慌ててそれらを隠そうとする田中に膝蹴りを一発いれて仕留めると、私は玄関に散らばった物をひとつひとつ点検した。
出るわ出るわ。
明らかに隠し撮りしたと思われる、大量な私の写真。その中に混じる、自画撮りと思わしき田中の写真。そこには馬体に「5/7、二十九日さんに叩かれた場所☆」と書かれて丸がつけられている。きもい。
私の顔写真をプリントしたクッション、マグカップ、ブックカバー……以下略。
「田中」
「あ、愛してるんです! 愛してるからこそなんです!」
「まだ何も言っていないぞ、田中」
「僕の目には二十九日さんの戦闘力が上がっているのが見えるんです」
「そうか」
青ざめていく田中の顔に私は優しく微笑みかけると、いったんその場を離れ台所へと行き、包丁に箒とちりとりを手にして玄関へと戻った。
ぎらり、と朝の光を反射して光るそれを見た田中と、一応警察官である大野がごくり、と息を飲む。安心しろ、私は正気だ。
そうして私は、思いっきり包丁を抱き枕へと振り下ろした。
「あああああああっ!」
田中から悲痛な叫び声が上がるが、無視。びりびりと縦に引き裂き、完了。
次にクッション、ブックカバーを破り捨て、マグカップは叩き割る。手際よくその欠片をちり取りにとって任務完了。写真はあとで庭で燃やそう。
「ひどいっ、いくら二十九日さんでもひどいですよっ! これらを作るのに僕、毎日仕事の後一所懸命にプリンターと格闘したんですよ! 布への転写シートもわざわざ街まで行って買ったし、写真だって気付かれないように撮るの、大変だったのにっ」
「それがそもそも犯罪だと気付け、この馬鹿馬がっ!」
ばちこん、と箒で尻を思い切り叩くと、心が折れたらしい田中は簡単に玄関へと崩れ落ちた。ちり取りの中の割れたマグの欠片を手に、しくしくと涙を流す。……ちょっと、可哀想だっただろうか。
ふと、ほんの数ミクロンくらいの同情心を抱いた私に、落ち着いたのを見計らって駐在が声をかけた。
「そんなわけで、俺の話をしてもいいだろうか」
「かまわないけど……お前、意外と黒い復讐をするな、駐在」
「なんのことだ?」
うっうっ、と泣いている田中を見下ろし、駐在はふっと実に男らしい笑みを浮かべた。どう見ても、恋敵に対する嫌がらせだろう。のった私が一番残酷な気もするけれど。まあ、ストーカー駄目、絶対。
「あとで存分に慰めてもらえる奴に同情はしないぞ、俺は」
「……それで、話って?」
「ああ。昨日のあれから一晩、俺は考えたんだけどな、尾野」
少しだけ緊張気味に、けれど割り切ったように晴れ晴れと、駐在はとんでもない爆弾をこちらに放り投げてきた。
「俺はお前を諦めないことにした」
「は!?」
堂々としたその宣言に、私はともかく田中までもが今までの涙はどこへやら、がばりっと身体を起こして叫んだ。
私たち二人の顔を見て、駐在は満面の笑みを返す。
こいつの中身さえ知らなければ、その笑顔だけでも女性たちの心を騒がせるには充分だろう、とどこか関係ないことを思いつつ一瞬逃避。しかし、駐在の言葉は続く。
「俺は思ったんだが、今振られても俺がお前を好きな限り、別に諦める必要はなくないか? お前に無理を強いるわけではないし、俺は俺で好きなだけ好きでいればいいんだと思うんだが」
「いや、その、え?」
「だから、今は田中のことを愛していても、一年後やその先のことまで決まってるわけではないだろう? もしかしたら田中が捨てられるということもある。その時に俺がお前を好きでいたなら、俺にだってまだまだチャンスはあるというものだ。間違っているか?」
「あ、うん、その、間違ってはいない、んだけど」
「そうだろう?」
立て板に水の如く口から出てくるその言葉に、私は思わず頷いてしまった。なんか、同じようなことをさっきどこぞの馬からも聞かされた気もするが。
すると、それまで唖然として黙っていた田中がどん、どん、と板張りの床に前足を打ち付けて反論を始める。
「あり得ません! そんなの、絶対にあり得ません! 僕と二十九日さんはこれからずううううっと、それこそ死ぬまで一緒にいるんですっ。大野さんが入り込む余地なんて、蟻一匹分もありませんっ」
「ダニくらいは入れるじゃないか」
「全力で潰しますっ」
鼻息荒く田中は駐在に顔を近付け、駐在は駐在でにやりといつもの意地の悪い笑みを返す。今あいつ、自分で自分をダニだと宣言したが、いいのか?
今にも人馬の戦争が勃発しそうなこの空気を破ろうと、私がかける言葉を模索していた、その時。新たな人影が玄関へと近づいてくるのが見えた。
あれは……獣医?
古典的な泥棒よろしく、大きな風呂敷を肩に担いだ獣医が、なぜか涙と鼻水を大量に流しながら、一触即発の田中と駐在に思い切り抱きついてきた。
「大野おおおっ、東馬あああああっ」
「なんだ、暑苦しい!」
「ちょっと、杉村さんっ、僕たちそれどころじゃ……」
「俺、嫁に捨てられたあああああああっ」
もう、疲れたんだけど。
事情を訊こうにも泣くばかりで埒があかず、とりあえず私と馬鹿トリオは玄関から居間へと場所を移した。今はお茶を飲みながら、とにかく獣医の話に耳を傾けている所。田中と駐在はただならぬ獣医の事情に、一次休戦としたらしい。
さっと顔だけ洗って髪を整えた私は、黙ってお茶をすする。
「だからなあ、俺、嫁さんの腹にいるのは俺の子供だって思ってたんだよおおっ。だけど、違うんだって泣きながら謝られてさあっ。嫁さんと前の旦那、離婚してからしばらくして、なんか未練があったらしくて……っ」
「なんだ、要は二股かけられていたと。そういうことなんだな。……哀れな」
「え、でも杉村さん結婚なさったんですよね? 僕がいない間なんで、よくわからないんですけど」
慰めてるんだかとどめを刺してるんだかよくわからないようなことを言いつつ、駐在と田中はおんおんと泣き崩れる獣医の相手をする。私はそっと彼にティッシュを差し出すのみ。こういう時はまあ、男同士のほうがいいだろう。
「それがあ、嫁さんに婚姻届預けてたんだけど、どうも出してなかったみたいでっ。うっ。向こうの義父ちゃんも、腹にいる孫可愛さ娘可愛さでさあっ。俺に土下座して勘弁してやってくれって言われちゃあ、俺、居座るわけにはいかないじゃんかああああっ」
「何という当て馬」
「あ、それ馬差別用語だと思いますっ」
今それは関係ないだろ、田中。そして、事実は言えばいいってもんじゃないぞ、駐在。しかしあのバツイチ娘……やるな。
獣医、不憫は不憫も絶頂なんだが、そう言われて素直に引き下がってくるお前は心底良い奴だと私は感心する。もっと泥仕合になってもおかしくない気もするが、こいつだとそういう状況に陥るほうがおかしいような気になるから不思議だ。
真っ直ぐで馬鹿正直で、人のために怒ることはあっても自分の中に恨みだとなんだのと、抱かないような変な奴。
こういう色恋沙汰に限らず、普通の社会の中では生きづらい思いもしてきたんだと思うんだけど、そういう気質を少しも曲げない男なんだよな。
田中がいなくなった後、何だかんだと私の様子を窺いに来てくれたのもこいつだし。
なんとなく可哀想になって私が下手な慰めのひとつでも言おうと、口を開こうとしたら。
「でも、俺今唐突に思った! 結局二股かけられて捨てられたけどさ、俺、あの憧れの巨乳をけっこう揉めたからラッキーだったかもしれねえ!」
「……は?」
三人の声が期せずして重なる。
すると、ますます涙に濡れた瞳に光を取り戻した獣医がティッシュで鼻を盛大にかみつつ、言葉を続けた。
「あの柔らっかいマシュマロおっぱい! 憧れのEカップ! 何だかんだで味わったし、あれ俺けっこう得したかも!」
「……杉村さん?」
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、よもやここまで……!」
無駄に純粋な瞳を輝かせ、いつの間にか泣きやんだ獣医は両手で何かを揉みしだく仕草をしつつ、勝手に復活していた。本当に羨ましいくらいの馬鹿だ。
なんかもう、どうでもいいからこいつら早くどっか行かないかな。私は今ものすごく風呂に入って寝たい。なんか疲れた。精神的に。
「それでよお、俺行くところないからまた独身寮に戻るわ。どうせ新しい人間が入ったわけでもねえし。申請は明日役場に持ってくから、今日は速効荷物片付けちまおうと思って。悪ぃけど東馬、これ運んでくんない?」
「思いっきり荷馬車扱いですね、杉村さん。でも残念なお知らせです。僕、もう今日から寮を出てここで二十九日さんとらぶらぶ生活送るんで、遠慮します」
「ええええっ! なんだそれ、なんだそれ、なんだそれ! 俺聞いてない! っていうか、おまえいつ帰ってきたのかも知らなかった!」
「ふふっ、言う必要とかまったくないですよね」
すがりつこうとする獣医を、田中はにこやかに避けつつ「お断りだ」オーラを発散する。が、そんな空気を読めたら獣医ではない。
「なあなあ東馬あ! せっかく戻ってきたんだし、俺もまた寮に入るんだし、また独身三人で楽しいボーイズライフを送ろうぜえ」
「うわあ、すっごく遠慮しますっていうか、絶対お断りです」
「寂しいこと言うなよお、お前、女ができたら友達は捨ててもいいのか!」
「杉村、それには同意だがお前が言うな」
田中がいなくなった後、大野ひとりを置き去りにさっさと結婚した奴が何を言う。
駐在のいつも通りの無表情さの中に、恨みの籠もった何かがちらつくのは、私の気のせいだけじゃないと思う。
「俺、後ろは振り向かない主義だから!」
本当にな。
本当に、つい五分前まで内縁の妻に捨てられて泣いていた人物とは思えない。何十年も前のことをずるずると引きずってきた私には眩しいくらいだが、羨ましくはないな、なんとなく。
「まあ、俺も田中がいなくなるのは淋しいからな。是非、寮に戻ってきてもらいたいと思っていたところなんだが……」
「だろっ、だろっ。そうだろう! なーなー東馬あああ」
「嫌です、絶対に嫌です。僕はこれからずっと二十九日さんと一緒に寝て起きて、時々裸エプロンとかしてもらって、そのまま背中に乗ってもらったりして、一緒にお風呂入って身体の洗いっこしたりして楽しく過ごすんですっ」
「やらないぞ、やらないからなっ、そんなこと!」
危うく口の中の茶を吹きそうになりながら、聞き捨てならんと私は反論する。なんだ、その捨てられたケンタウロスみたいな目は!
やばいな、二十三年間童貞を守り抜いた男の妄想は、こちらの予想を斜め上に超えている。危険だ。
「田中、お前どうしても寮には戻りたくないと?」
ことり、と座卓に湯呑みを置いて、駐在が冷静に仕切直す。それに対して田中は当然とばかりに大きく頷いた。そもそも、家主の私の意見はどうなってるんだ?
当然だとばかりに大きく頷いた田中に、駐在は低い笑い声を漏らす。滅多に聞くことはない、奴の笑い声は地獄の使者をも凍らせるようなものだった。
動物的な勘で何かを察したのか、田中が眉をひそめて何事かと駐在を見守る。すると、奴は制服のポケットから、ジップロックに入れられた靴下を取りだした。
「お、大野、さん?」
「田中、わかるよな。お前ならこれが何か、充分に知っているはずだな?」
「おおおおおおお大野さん?」
もこもこした素材でできた、ピンクの水玉入り靴下。どこからどう見ても、女性用のそれを見て、田中はなせだが全身をかたかたと震わせ始めた。
なぜだろう、大野の手にしているあの靴下、どっかで見たことがあるような……。
「私の冬用靴下?」
私がぽつりとそう呟くと、田中の震えがぴたっと止まり、代わりにだらだらと大量の汗が額から流れ始めた。何というか、どう見てもまずい物を見つけられてしまった、というような表情。しかも、学校に行っている間にベットの下からエロ本見つけられてしまった男子中学生、みたいな。
しかし、いつの日か風に飛ばされたかなんかで片方だけなくなったはずのそれが、何故今ここで晒されているんだろう。
「ちちちち違いますよ、二十九日さん! そそそ、それは僕がかかか金子商店さんでここ、購入した、ぼぼぼぼぼ僕の冬用靴下なんですすすすっ」
「なんで不自然にどもりまくってるんだ、田中。それに、金子商店ではそんな靴下見つけられなかったので、私は街に行って買ってきたんだけど? あと、お前蹄に靴下履けないからっていつもアームウォーマー買ってるだろ」
「ややややや、ここ、これは寮の部屋で履いてるるるるるんですよお!」
じっと私が田中の顔を見つめれば、奴は耐えきれなくなったかのようにあからさまに視線をそらした。……怪しい。
田中の隣で靴下を奴に突きつけていた駐在は、ふうっとひとつ大きなため息をついた。そうして警察官の顔になると、ばしり、と座卓を叩く。その音に、田中がびくっと肩を揺らした。
「田中、こんな話を知っているか? かのアメリカ初代大統領であるワシントンは、子供の頃父親が大事にしていた桜の木を誤って切ってしまってだな、それを正直に父に申し出て謝罪した彼に……」
「ごごごごごめんなさいっ、出来心だったんですっ!!」
訥々と語り始めた駐在に、田中が勢いよく頭を下げる。落ちた、のか?
まだよくわからないんだけど、私の靴下と田中の出来心の間に、いったい何があったというんだ。
そのままじいっと田中を睨み付けている、その視線を無視することができなくなった田中は綺麗な瞳を潤ませ、ひどく悲しそうな表情をその美しい顔に貼り付けた。それは見た人の心を揺さぶるような、何かされても全部許してしまえそうな美貌。
ただし、私以外は、だ。
「お前、どうして私の靴下を持ってるんだ? そして、何をした?」
「……それはもう、涙なしには語れない、長い長い話になるんですけど……」
「簡潔に言え。私の何かがブチ切れてしまわないうちに」
優しく微笑んでそう言うと、田中のすぐ隣にいた獣医とその向こうにいた駐在の顔がさっと青ざめた。じりじりと、私と田中から後退していく。
「ええと、ですね。あの、僕、前に二十九日さんの家の玄関先でこれを拾いまして。すぐに返そうと思ったんですけどね? ほら、風に飛ばされて辺りを転がったらしく、土汚れがついていたので、気遣いのできるケンタウロスである僕は、『そうだ、持って帰って洗濯してから返そう!』って思ったんですよ。偉いですよね、僕」
「何か明らかに別の意図を感じるが、まあいい。それで?」
「……それで、洗濯する前に思ったんです。もしかしてこれ、二十九日さんの物ではないのかもしれないなって。そしたら、返されても二十九日さんが迷惑するだけですし、どちらかというと洗濯後というよりは洗濯前の靴下ですし、他人の靴下を返されてもお困りでしょう? だから僕、ちょっと確かめようと思って……思って……思って……」
ぐっと息を飲み込みながら、壊れたラジオの如くそう繰り返す田中に、私はさっき駐在がしたようにばしん、と座卓を一発叩いて見せた。次はお前の腹だぞ、との威嚇の意味を込めて。
すると、びくうっと一度大きく体を揺らし、田中は諦めたようにその先を口にした。
「嗅いだんですっ!」
「……よくわからない、もう一回」
「だから、僕、この靴下の匂いを嗅いだんですっ。ほらケンタウロスって人間よりずっと嗅覚に優れてるところがありますから! 嗅げば誰の持ち物かすぐにわかっちゃうんですよ、すごいなあ僕!」
「……で?」
「そしたら、この靴下からは香しい二十九日さんの匂いがしたんですよお! それはもう、僕は興奮してしまいました……。何とも言えない、二十九日さんの匂い……。それで僕なんか堪らなくなってしまって、えっと、その……」
見る見る低下していく私の機嫌に恐れをなしながら、田中は覚悟を決めてがばっと私にむかって頭を下げた。ごつん、と座卓に額が当たる。
「我慢ならなくて使用してしまいました! とっても素敵でした!」
「出て行けえええええっ!! 今すぐ、ここから立ち去れっ、この変態っ!!」
上に置かれていた湯呑みや田中ごと、私は座卓をどこぞの野球馬鹿親父のように見事にひっくり返して投げつける。田中はその下敷きとなり、撃沈。見守っていた他の馬鹿ふたりは、がくがく震えながら部屋の隅へと退避した。
私は肩で息をしつつ、じろりとその二人を睨み付けて口を開く。
「いいか、これを持って帰れ。今すぐ。荷物と一緒に、今、すぐに!!」
「わ、わかったから落ち着け尾野。気持ちはわかるが、そんなに怒る事じゃない。純潔の男にはよくあることだ」
「そ、そうだぜ、尾野ちゃん。そんなに怒ったら、東馬が可哀想だ! むしろ可愛いくらいじゃ――」
「踏まれたいのか? 蹴られたいのか? どっちなんだはっきりしろ」
どすっと音を立てて畳を踏みしめる私に、ふたりの馬鹿は沈黙し、そうして素早い動きで田中を回収して玄関へと走っていく。こら、荷物も持って帰れ。
怒りのボルテージを上げたまま私が二人と一頭を追いかけていけば、捕獲された宇宙人のように抱えられていた田中が私に手を伸ばした。
「嫌ですっ、僕はもうあの小汚い独身寮には帰りたくないっ。僕は二十九日さんの傍にいるんだあああっ」
「諦めろ、田中。今は退く時だ!」
「これは逃げるんじゃないんだぞ、東馬。こういうのは戦略的撤退っていうんだっ」
二人に引きずられている田中は、それでも最後の力を振り絞るようにしてその腕を振り払うと、玄関で三人の様子を見ていた私に突進してきた。
そこはさすがに馬。あっという間に私の前まで来ると、有無を言わせず自分の胸の中に抱き込んでしまった。
「二十九日さんっ、僕はもう靴下なんかに欲情しませんっ。僕には二十九日さんだけですっ」
「うるさい。大人しく寮へ帰れ、変態馬!」
「そうですよね、いきなり流れのままに同棲なんて、ちょっとだらしないですよねっ。だから僕、明日にでも婚姻届取りに行きますから! 二十九日さんが名前を書いて判子を押してくれるまで、ずっと通い婚でいいですからっ!」
「話を聞け馬鹿!」
「二十九日さんっ、愛してますっ」
そのまま、私の文句は奴の口の中へと吸い込まれてしまった。
長い舌が縦横無尽に口腔内を駆け回り、私の抵抗も意地も怒りも、何もかもを飲み尽くそうと深くなる。逃げる舌を追って、どこまでも。
田中の肩越しに、必死に目を逸らす駐在とにんまり笑ってこちらを見ている獣医の姿。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて。でも、馬鹿みたいに気持ちがいい。田中とのキスは、長い間空からに乾いていた場所に恵みの雨が降るようだった。
染みこんで、満たされて、もっとねだる。
いつの間にか私は、だらりと下がっていた手を田中の素肌の胸に当て、その鼓動を確かめていた。私と同じように、早めのリズムを刻むその音。
ひとつ打つ度に、愛しているという気持ちが伝わってくるようだった。
ふ、と長かったような短かったような口付けが止んで。田中は今にも溶け出してしまいそうな甘い笑みで私に言う。
「判子をもらうのはお手の物なんですよ? だって僕、元郵便配達員ですから!」
「……馬鹿」
胸に置かれていた私の手を取り、軽く唇を押し当てた田中はそれだけを言うと、彼を待つ二人の元へと駆けて行ってしまった。
淋しいような、ほっとしたような、でもやっぱり淋しい。
自分で言いだしておきながらそんなことをふと思ってしまう自分に、苦笑する。でも、大丈夫。きっと田中は、明日もここへやってくるから。
婚姻届を何十枚も持って、私に判子をねだりに来るんだ。そうして私もいつかはそのしつこさに完敗して、届けに判を押すことだろう。
一緒に住んで愛し合って、まあ、たまにならふたりでお風呂に入ってやってもいい。
とりあえずは、まあ。
「爺ちゃんと婆ちゃんと、両親に報告、かな」
鬼籍に入った祖父母はともかく、後者は説得に骨が折れそうだと思いながら、私は玄関を閉めて家の中に入る。自然と浮かぶ微笑み。
ついこの間までと同じひとりきりの家なのに。
そこにはもう、何だか田中の気配が満ちあふれていて、まったく孤独を感じない。私はそんな幸せを噛み締めながら、朝風呂の用意に向かったのだった。
これにて本編完結致しました。
あとは拍手に置いていたお話を再録しようかと思っています。長い間、ありがとうございました!