手の中にある幸せ
要約すれば、田中の言い分はこうだ。
――次から次へと、ケンタウロスとして馬たちを地上に戻したのはいいけれど、最後の最後で管理人の力が尽きた。もうしばらく休ませろ、と言う彼に対して、田中とアルカディア号はせっついてせっついてせっついて。それで……
「昼間はケンタウロスとしていられるんですけど、陽が落ちると姿が保てなくて。下半身が人間みたいになっちゃうんですよねえ」
「……どうせなら、上半身が馬になればいいのに」
「二十九日さんてば、マニアック……っ」
「その余計な妄想する脳みそがあっても、言葉にしないだけかわいげがあるんだよ!」
裸の上半身に同じく殆ど裸の私を抱き込みながら、鬱陶しく田中は頭に頬を擦りつけてくる。馬にマーキングの習性ってあったっけ?
腰に回った手が尻へと不穏に移動していくのを阻止しながら、私は心底嬉しそうに笑う田中の顔を盗み見た。薄い色の瞳がすっと細められ、そんな私を見つめ返す。
朝の光に長い睫毛が光る。
いつも柔らかな笑みを浮かべている美しい顔は、今は満たされた男の顔をしていた。私を抱き締める腕も、包み込む胸も、こんなにも男性的に感じたことはない。伝わる熱が、彼がここに確かにいると、私に伝えてくれる。
寄りかかっても、いいのかな。
唐突に、そんな思いが胸の中に落ちてきた。自分のことなのに、何だかびっくりするして私は思わず寄り添う田中の腕から抜け出してしまう。
「二十九日さん?」
きょとん、と瞳を丸くしてこちらを覗き込む田中から、私は微妙に目を逸らした。なんだろう、この気持ちは。
ただ、怖い。
怖くて怖くて、たまらない。
ずっと求めてきた存在が今、この手の届くところにある。それなのに、どうして――。
とにかく落ち着こうと、そっと距離をとろうとした私の身体を田中が強く引き寄せた。再び、発熱してるんじゃと心配になるくらい熱い胸の中に収まる。
「逃げないで、二十九日さん」
「ま、待って。ちょっとだけでいいから、待って」
「目を逸らさないで、忘れてしまおうとしないで。あなたは何を恐れているんですか?」
触れあった身体から直接響いてくる声。胸にぴったりとつけられた耳に届く心音。意外と逞しい腕が、無理矢理ではなくしっかりと私を包む。
なんでなんだろう。
なんで、私は何も言っていないのに、こいつには伝わるんだろう。いつも、いつも。
「……怖いに、決まってる」
「二十九日さん」
胸に手をついて、私を守ろうとする腕の中で声を震わせる。
田中を……エデンを失ってから、ずっと怯えてた。そんなことずっと忘れたふりして、でもどこかで恐れていた。
――失うこと。
だから、失ったことのある榊部長と一緒にいるのが楽だったんだと、今になってわかる。
だけど、思わぬ形で失ったものが帰ってきてしまった。もちろん変わらないものなんてないし、私も田中もあの時の二人とは違う。
それでも、ずっと私が求めていたものがここにある。
「このままお前に寄りかかって、甘えることを覚えて、ひとりじゃなくなって。それでまた失ったら、私はもう立ち上がれない……」
今さらなんだ。自分を守る物は全部、昨夜この男に明け渡してしまったというのに。もう、どうしようもないくらい深くまで入り込まれてしまったというのに。私は。
私は俯き、田中のへその下――人の身体と馬の身体とが切り替わる境目辺りに視線をさまよわせる。ケンタウロスなんて、だってこの前みたいに何かの意志ひとつで消えてしまうような儚い物じゃないか。
ぐっと唇を噛み締めた私の頭上から、ふう、と大きなため息が降ってきた。
「また僕があなたを置いてどこかへ消えるとでも?」
「可能性は、ある」
情けない真情を吐露したついでに、そう愚痴ってみる。
こんな言い方したら、きっと田中はぎゃんぎゃんと「そんなことない!」って否定してくるんだろうなあ、と身構える。
けれど、田中は何も言わずに俯いた私の頬に両手を当て、上向かせた。そこにあったのは、なぜか心底嬉しそうな、甘ったるい笑顔だった。
自然と顔に血が上るのがわかる。くそ、無駄に綺麗な顔しやがって!
「僕、嬉しいです、二十九日さん」
「な、なんで!」
「だって、それって二十九日さんが僕に欲張りになったってことでしょう? 僕との未来を考えてくれたんでしょう?」
欲張る? 私が、田中に?
言われた言葉が、すぐには自分の中に入ってこない。
田中がいなくなる可能性を考えるっていうことは、ずっとずっと奴にここにいてほしいって思うことの裏返しだ。田中とのこれからを、私はもう望みはじめてる?
そう気がついた途端、私の顔から身体から、全部が真っ赤に染め上げられてしまった。なにこれ、恥ずかしすぎる!
そんな私を見て、ますます田中はとろけるように笑う。笑うな、馬鹿!
「僕はずっとあなたの隣で待ちますよ? あなたが僕の存在を信じてくれるまで。もう二度とあなたを置いてどこかにいかないと、安心してくれるまで。十年でも、二十年でも。僕はいくらだって待てちゃうんです!」
――あなたを、愛してるから。
口にしない心がダイレクトに伝わってきて、私は思わず涙を零した。
見られたくなくて顔を背けようとしたのに、田中はそれを許さず、優しく唇で流れる涙をすくいとる。それでも泣きやめない私に、田中はちょっと困ったような微妙な笑みを向けた。
「僕はあなたに、あまり与えられるものがないんです。そばにいることしかできないんです。あなたに子供を授けることもできない……」
それが私と田中との間にある壁なんだろうか。
だけど、そんなもの。
「そばにいてくれればいい。私より先に死ななければ、あとは何にもいらない」
「二十九日さん……」
「何にもいらないから、ここにいて」
今度こそ、真っ直ぐに田中の目を見て言う。
晴れた日に覗いた、きらきら光る瓶の底みたいな綺麗な瞳が、さっきまでの私のようにぽろぽろと涙を零した。ぐっと何かを堪えるように、その体が震える。
「嬉しい。嬉しいです!」
潤んだ瞳が感激の色に染まり、私も同じように微笑もうとして、田中の次の言葉で固まった。
「もし二十九日さんが僕に飽きて、他の人の所に行ってしまっても、僕は恨みません! それがあなたの幸せなら、僕はそっと影から見守り続けます。ずっと、ずっと。そして僕は……立派なストーカーになってみせますよ!」
「は?」
なんだって?
「そうしてあなたがもしその男と別れでもしたら、即行その心の隙を狙って再びアタックします。弱っているところにつけ込むのは効果的ですからね! でも、普段は慎ましやかなストーカーでいますよ、もちろん。張り込みしている時、きちんとゴミは持ち帰りますし。下着類はうっかり風に飛ばされるまでは絶対に手を出したりしませんし」
ひどく幸せそうな顔をして語る底辺の内容に、私は感動もすっかり醒め、ちょうど手元に置いてあった馬の写真集で田中の頭を思い切り叩いた。何を嬉しそうにストーカー計画立ててるんだ、おまえは!
「痛いっ。というか、二十九日さんっ、こういう写真集はどうかと思うんですよ! これも一種の浮気だと思いますっ」
「うるさい黙れそして出ていけ」
「ええっ、もう僕捨てられちゃうんですかっ。どうして!? なんで!? もしかして僕の昨日のテクニックが――痛い痛い痛い痛いですっ、痛いからっ、布団たたきはやめてっ」
ばしん、ばしん、と二、三度横っ腹や尻を布団叩きで払ってやると、田中はようやく静かになった。乗馬用のムチでも買っておこうかな。
私は田中がめそめそと泣き崩れている間に、さっさと散らばった衣服を身につける。とりあえずは、朝ご飯を食べて朝風呂にでも浸かるか。
今日くらいはそんな贅沢も許されるだろう、と田中を踏みつけて部屋を出ようとした、その時。
「たのもうっ!!」
玄関からあり得ない奴の声。
私は一瞬固まり、その場に立ち尽くしてしまった。だって、それはしばらく耳にすることはないだろうと考えていた人の物で。
そのまましばらく機能を停止した私の耳に、もう一度その声が響いた。
「尾野! 起きてるか!?」
びくっと身体を震わせて、私は慌てて声のする玄関へと走り出した。まさか、まさかまさかまさか、どうして!
足音も気にせず乱暴に廊下を走り抜け、玄関先にたどり着いた私の目の前に。
「ちゅ、駐在!?」
「ああ、おはよう」
そこにいたのは、昨日私が振ったはずの駐在だった。