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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
24/34

進化と退化と夕暮れの変態



「た、なか?」

「地上に帰ってきてすぐにあなたとお会いできるなんて、僕はなんて幸運なケンタウロスなんでしょうね! というか、やっぱり僕たちは運命の赤い糸で結ばれてるんですねっ。あ、運命の赤い手綱とかのほうがいいですかね!」


 ぽかん、と間抜けに口を開けたままで固まる私に、なんだかもはや懐かしいノリでそうまくし立てる田中東馬。明らかに、田中東馬。どこからどう見ても、田中東馬。

 風になびく赤髪せきはつに、薄いフレームの眼鏡。その奥できらきらと光る、薄い色の瞳。なんというか、その粘着質な性格が残念に思えるほどの美貌に翳りはなく、白い頬は今や興奮に赤く染まっている。

 かつんかつんと軽やかな蹄の音を響かせて、田中は立ち尽くす私に近寄ってくる。そうして鼻息も荒く、かばっといきなりと私に抱きついた。暖かな体温。現実の温もり。

 身動きひとつしない私の首筋に、田中は鼻を擦りつける。


「ああ、この匂い! かぐわしい二十九日さんの匂い! できればもうちょっと汗を掻いている感じのほうが好きなんですけど、僕は贅沢は言いません!」

「……田中」

「ねえ、二十九日さん。僕もう我慢しなくていいんですよね? だって、キスまでしましたよね? だったら、その先だって僕には許されるんですよねっ?」

「……田中」

「僕、初めてなんで最初はうまくいかないかもしれませんけど、あなたのためならどんなことだって、完璧になってみせます! 前に大野さんたちにあれを見せられた時には、心を汚されたようで我慢できませんでしたけど、二十九日さんが気持ちよくなるためなら、二十四時間耐久で見続けられますっ。だから、ねえ、二十九日さ――あいだあっ!」


 延々とうっとりした表情で喋り続ける田中に、私はとりあえずグーでパンチをしてみる。勢いよろけて地面に転がった田中は、その綺麗な瞳を潤ませて私を見あげた。


「いっ、痛いですっ、二十九日さん!」

「……痛くない」

「え」


 ぼんやりと自分の拳を見つめ、私は呟く。

 おかしいな、夢か現実化確かめるためには、痛みがあるかどうかだって聞いたのに。どうしてだろう、痛くない。夢なんだろうか。これは、私の妄想?

 それを確かめるために、私は打たれた左頬を押さえてこちらを見上げる田中に、ゆっくりと迫る。


「あ、ちょ、二十九日さん!」

「現実なら、痛いはず!」


 そのままもう一度拳を振り下ろす。

 がつっという音が鳴り、拳の下で田中らしきものが悲鳴を上げた。この妄想、なんて細かいところまでよくできているんだろう。

 そしてもう一度。

 ああ、なんだか違う趣味に目覚めてしまいそう。


「痛くない……やっぱり、夢なんだ……」

「ひどいですっ! っていうか、二十九日さん殴る相手間違ってますっ。これ、自分にむかってやらないと意味ないですよね!?」

「痛くない……」


 そう呟いたら、それまでずっと我慢してきた何かが決壊した。ぼたぼたぼたっと、両の目から情けないほどの涙がこぼれ落ちていく。まさに、滂沱。

 すると、暴行をはたらく私から腕を上げて身を守っていた田中らしきものが、素早く立ち上がり、ふたたび私の身体を優しく包み込んだ。宥めるように、手のひらが背中を何度も何度も撫でていく。私は、その腕から逃れるようにいやいやと身体をよじった。


「やめて。どうせこんなの現実じゃない……っ。こんな残酷なことするの、やめて……!」

「二十九日さん」

「呼ばないで、やめて、もうやだあっ」

「二十九日さんっ」


 浅はかな希望なんて、目が覚めたら消えてしまう幻なんて、もういらない。見たくない。

 そうやってもう一度絶望にたたき落とされるくらいなら、何にもいらない。思い出も、温もりも全部、鍵をかけて深い底に沈ませて。

 だから、私に触らないで。これ以上傷つけないで!

 そう全身で何もかもを拒絶する私に、でもその幻はますます力を込めて抱き締めてくる。きつく、きつく。


「ごめんなさい、二十九日さん、ごめんなさい。傷つけてしまって、何度も悲しい思いをさせて……。でも、嘘なんかじゃないです。幻でもないです。僕はここにいます。もうずっとずっと、あなたの傍から離れませんから……」

「やだ……っ」

「ねえ、ほら、こっちを見て。僕を、見て」


 子供のように泣きじゃくる私から少し身体を離し、田中らしきものは少し屈んで顔を覗き込んでくる。優しいその声に、私は固く閉じていた瞳をうっすらと開けてみた。

 目の前に、どこまでも清廉な青の瞳。

 薄いガラスを透して、私を真摯に見つめている、その熱。

 止めどなく流れ落ちる涙を困ったように見つめ、そしてかさついた手のひらがそれを優しく拭う。私はその温度に惹きつけられるように、恐る恐る自分の手を、笑みの形を作る田中の口元にあてた。

 伝わる、温もり。


「ね、本物の僕でしょう? 本物の田中東馬です。あなたの……あなただけの」

「田中……?」

「はい」

「本当に、田中なの?」

「はいっ。あなたのために、僕は帰ってきたんです!」


 満面の笑みを浮かべて見せた後、田中は急に眉をひそめて祈るように、私の手を両手で握りしめた。かすかな震えが、伝わってくる。


「会いたかった……会いたかったんです」


 いつも荒れることのなかった声が、涙に濡れる。

 さっきまで泣いていたのは私のほうだったのに、握りしめた両手に額を寄せるようにして、田中は俯いて肩を震わせた。

 まるで、子馬の頃に戻ったみたい。頼りなくて、弱々しくて、私に鼻先を擦りつけて甘えていたあの頃に……。

 そこで私の涙は止まる。

 自分勝手に叩きつけた何もかもを、改めてすくい取るように田中の手をほどき、頬に当てる。温かくて、女の私とは少し違う感触の頬。神様が特別手をかけて作ったみたいな、美しい稜線。ざらついた感触に、ああこの綺麗な生き物にも髭が生えるのか、なんてどうでもいいことに、笑う。


「二十九日、さん?」


 流したばかりの涙が、まだそこに溜まって光っている。夏の陽にかざした、とっておきの青いビー玉みたい。目尻で揺らぐ涙に、口づけてみた。

 小さく田中の身体が跳ね、だけど抵抗はせずに私を受け入れる。

 だからいいか、と頭の片隅にそんな思いが過ぎり、私は頬に置いた両手で田中の顔を引き寄せると、そのまま唇を重ねた。あったかい。

 前に触れた時と同じように少しだけかさついている、厚い唇。

 最初は確かめるように重ねて、それからより大胆に、何もかもを奪い取るように深く。私のほうが乾いていたのかもしれない。性急に唇を割って、素直に開かれたそこに舌をさし込んで、絡める。

 足りない、足りないの、もっともっと、ちょうだい。

 頬から手を離し、少し屈んでいた田中の首に今度は両腕をしっかりと回す。欠けたところを全部埋めるようにして、しっかりと。

 私の行為に応えるように、田中の両腕もまた、私の身体へと回される。このまま一緒に刺し貫かれても、きっと後悔はないだろう。そんな風に。

 口を塞ぎ合うぶん、お互いの鼻からこぼれる息がこそばゆい。それにすら、今まで感じたことのないくらいの快感が広がっていく。ただ、唇を合わせているだけなのに、ひどい絶頂感に酔いしれる。貪欲に、全部が相手にとけ込んでいけばいい。押しつけて、押しつけられて。

 うっすらと目を開けて見れば、田中もまた瞳を開けてこちらを見た。もう、青い瞳の中には上品とは言えないほどの熱がこもっている。求められている。そう感じた瞬間に、身体の中心が震えた。

 きっと、私も同じような目をしてる。田中の手のひらがある種の意志を持って背から腰へと辿り、私はその甘い感触に思わず唇を離し、声を上げた。


「とおま……っ」

「二十九日さん……!」


 初めて名前で呼んだ私に、田中は歓喜に打ち震えるようにして身体を寄せてくる。耳元に熱い息がかかって、私も同じように震えた。

 もう一度、顔を合わせて見つめ合って。


「東馬」

「二十九日さん」


 呼び合って、田中は嬉しそうに私の鼻の頭を軽くむ。唇で優しくくわえて、音を立てるようにキスをして。私も田中の高い鼻梁に、同じようにいたずらをする。

 そんなことを繰り返しているうちに、あたりはすっかり夕闇に包まれていた。

 少しの間でも、お互いの身体が離れているのがこんなにも辛い。寂しい。寒い。我が儘な子供みたいな気持ちをぶつけるように、もう一度田中の身体にぎゅっと抱きつく。それを田中は甘やかすようにして受け入れた。

 今までどうやってこの素晴らしい場所を拒否し続けられたんだろうか。

 意地を張り続けていた過去の自分がおかしくて、私はますますその暖かで安心する胸に身体をすり寄せて、そして――。


「ん?」

「え?」


 私の上げた声に、うっとりと髪を梳いていた田中の手が止まる。あれ、ちょっと待って。

 背中に手を回したまま、私は自分が感じた違和感を確かめようと、密着。田中はわけがわからず、そのまま私を抱き締め返す。

 なんだろう。下半身に、違和感。

 腹の下あたりに何か、すごく形容しづらい何かが、当たってる。


「どうしたんですか、二十九日さん」


 きょとんとした声で訊いてくる田中を無視して、私は彼から少し身体を離し、恐る恐るゆっくりと視線を下げていった。まさか、ねえ?

 ある種ちょっとしたホラー感を抱きながら見た、そこに。


「たたたたたたた、田中?」

「嫌だなあ、二十九日さん。さっきは東馬って呼んでくれたじゃないですかあ」

「いや、その、あの、えっと、ええ!?」

「ねえ僕、あなたの色々なところに、もっとキスがしたいんです……」

「待て待て待て待て。あり得ない」

「駄目なんですか? あ、じゃあ舐めるのはいいんですか? 僕の舌って、人のよりちょっと長いのが自慢なんですけど。僕、二十九日さんの身体なら、足の指までなめ回したいくらいなんです……」

「うわあああああああああっ、変態っ! 変態がいるうううううううっ!!」


 あまりの衝撃の現実に、私は固まりかけた身体を叫び声で動かし、思いっきり田中の顔に平手をかまして離れた。

 突然の私の変わり様に、打たれた田中は呆然とした表情でこちらを見返す。そして、再びその瞳に涙をにじませ、こちらににじり寄ってきた。いやいや、来ないで来ないで!


「止まれっ、そこで停止しろっ!」

「どうしてですか、二十九日さん! 足の指はだめなんですかっ。それとも、僕の舌が長いっていうのがだめなんですかっ!? じゃあ、僕舌を切りとりますっ。今すぐ切り取りますからっ」

「ちちち、違う馬鹿っ!」

「そしたら、僕はどうすればいいんですっ。あなたにそんな風に拒絶されたら、僕はこの先、どうやって生きていったらいいんですか!」


 じりじりと後ずさりをする私に、田中もじりじりと距離を詰めようと近寄ってくる。

 私は原因を指摘したいのは山々なんだけれど、今自分が見ているものが衝撃的すぎて、言葉にならない。ただひたすら、無言で口を開け閉めするばかり。

 その間にも田中はこちらに近づき、そしてなぜか段々と薄ら笑いを浮かべてヤンデレ化していく。だから、違うってばっ。


「もしかして、僕が留守にしている間、大野さんとくっついた……なんてことはないですよね? あまつさえ、僕の二十九日さんに手を出したなんて、そんなことはあり得ないですよね?」


 色々ありすぎて、腰が抜ける。

 かくりと地面に座り込んでしまった私の目の前に、綺麗すぎて寒々しい笑顔の田中が迫る。だから、来るなっ。来るなって!

 この目線の高さが一番どうしようもないんだっ!


「でも、僕は許しますよ? もう、誰に遠慮する気もゆずる気もありませんから、正々堂々と戦いを挑みます。最初は後ろ足で蹴り飛ばすところから始めましょうか。そのうち、頭も打ちすぎればあなたへの横恋慕なんて、綺麗さっぱり忘れてくれるはずです。ねえ、そうですよね、二十九日さん……」

「後ろ、後ろ、足」

「なんですか?」

「ううう後ろ足とか、前足とかかかか、ない」


 情けないことに、目前まで迫ってきた『それ』から目をそらせずに、私は何とか田中に事態をわかってもらおうと必死になる。

 夕闇の中で、田中がその秀麗な眉をひそめるのが見えた。わ、わかれ!


「後ろ足がどうかしましたか?」

「だだだ、だからっ、後ろ足がないっ。お前、後ろ足どころか前足もなにもないじゃないかっ!」

「え?」


 顔を真っ赤にしてやっと言い切った私の言葉に、そこで初めて気がついたように、田中が自分の下半身を見下ろした。

 上半身にまとうのは、見慣れた簡素な白いシャツ。いつも喉元と腹の辺りをゆるく開けているのが、妙に色っぽい。だらしなく感じないのは、奴の顔がいいせいか。いやいや、今重要なのはそこでなく、その下。さっきまで確かに美しい馬の半身がそこにあったはずなのに、今は。

 自分のそれを見つめていた田中がゆっくりと顔を上げ、ちょっと泣きそうになっている私ににっこりと笑う。


「ああ今、僕、二本足ですね!」

「返せええええええっ、私の美しい馬の身体、返せええええっ。この下半身丸出し変態男っ!!」

「あっ、やっ、ちょっとそこに蹴りはまずいですっ。やめっ、やめてえええっ」


 思わず、座ったまま足蹴りを繰り出す私に、心底焦った表情で田中が前を押さえて後ずさる。上はシャツを羽織っただけの、下半身丸出しの美形ってどうなのっ。よくわからないことになってるけど、それはどんなに美形でも許されないからねっ。

 片手でぶらぶら揺れる『それ』を押さえつつ、田中はなんとか暴れる私を諫めようと手を伸ばしてくる。恐慌状態から立ち直れないでいる私は、半泣きになりながらそれから逃げる。

 端から見たら、どんな間抜けな状況だろう。

 というか、これはどう見ても露出狂がいい歳した女を追いかけ回すという、犯罪の臭いがしないでもない光景だ。ふと、そんなことを考えた瞬間。


「この変態があっ! 逮捕おおおっ!!」

「痛いっ」


 私を追い回す田中の背後から、気合いの入った叫び声をあげながら現れたのは、さっきまで彼に復讐を誓われていた駐在だった。

 全体重をかけて田中にのしかかり、地面へと引き倒して制圧する。手際の良さは、さすがといって誉めてもいいんだろうか。なんというか、間が悪すぎる!

 そのまま腕を後ろで拘束された田中は、顎から地面に激突したらしく、声にならない声を上げて悶絶している。ああああ……。


「大丈夫かっ、尾野っ」

「ああ、うん……。というか、それをよく見ろ、駐在」

「なんだと?」


 一気に疲れた。

 私はがっくりと肩を落として、駐在の下に敷かれている田中を指さす。すると、ひどく真面目な顔をしていた駐在は視線を下に落とし、それからがばっとそこから身を引いた。

 同時に、地面に伏せていた田中がむっくりと起きあがる。

 駐在を振り返って、涙目で。


「ひどいですよ、大野さん! いくら僕が恋敵だからって、暴力はよくないと思います!」


 お前、さっきまでこいつを蹴り飛ばしまくることを想定していた癖に、よくもぬけぬけと。

 呆れかえって何も言えない私に代わって、駐在は切れ長の瞳をこれでもかと大きく見開き、呆然とその名を口にした。


「たな、か……!?」

「そうですよ。こんな美しいケンタウロスが他にいるわけないでしょう」


 失礼な、と立ち上がって身体についた泥を払う田中に、私はただ頭を抱える。おまえ、今ケンタウロスですらないから!

 そんな心のツッコミは口に出ることなく、夕闇のどこかに消えていった。


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