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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
23/34

駐在と獣医と私の幸せ



 いつも通りに朝早い時間に起きても、なんだかやることもなくなってしまった私は、身支度を整えるとなんとなく朝の散歩に出るのが日課になりつつあった。エデンとの、アルカディア号との思い出の場所を歩いては少し立ち止まり、決して後ろ向きではない思い出に浸る。それが私の今の小さな幸せ。

 そして長くはない散歩から戻ると、なぜか玄関の前にこんもりと野菜やら果物やら、ある時には一升瓶なんかがちょこんと置かれているのである。これには、まいった。どこの傘地蔵様なんだ、私は!

 とはいえ、この地区の人たちが私に気を遣ってくれているがひしひしと伝わってきて、どう考えてもひとりで食べるには多いその食材に、かすかな笑みとため息が出る。料理をつくって昭夫じいのところで一緒に食べるか、それとも仕方がないから駐在のところに持っていってやるか。

 だけど最近、あんまり私が駐在にかまうと周りがにやにやしているし、佐内の双子が反発必死だからなあ。あれは、ふたりで惚れている、ということなんだろうか。

 アルカディア号のことから半年、この変わらない片田舎にもゆっくりと時間は確実に流れている。

 あれだけ馬鹿で騒がしかった独身寮にも、今や駐在ひとりきり。裏切り者のそしりを受けつつ、三ヶ月前、獣医は酪農家の出戻り娘と結婚した。獣医曰く、「Dカップの胸が決め手」とのこと。本当、牛のゲップでも嗅いで悶絶すればいいのに。

 うちに挨拶に来て以来音信が途絶えていた榊部長からは、この間久しぶりにメールが届いた。生来の人懐っこさと押しの強さをいかし、共同経営の会社は順調なようだ。むかつくくらいに日焼けして楽しそうな写真に、私は思わずひとり笑いをしてしまう。田中のことも、アルカディア号のことも特に伝えず、私はいつかそちらにも遊びに行きたいとだけ書いて送った。多分、行間から何かしら読みとってくれるだろう。

 私は今、満ち足りてはいないけれど、幸せを感じられている。

 勤めている会社の人たち、特にお世話になった和久井さんなんかは、「いつでも戻って来て下さいね」なんて言うけれど。私の記憶の大半はここでの思い出で占められているから、できるならここで一生を終えたいとまで思っている。それはきっと、田中のことやアルカディア号のことがなくても、そうしただろうと思う。

 ふと気になって和久井さんに『ケンタウロス居酒屋』について訊いてみたが、一時閉鎖されていたそこは、最近また再開しているとのこと。なんのお目こぼしなんだろうか。

 田中と管理人の賭が終わった今、地上に彼らがいる意味もない。それなのに、なぜか東京には今まで通りケンタウロスが闊歩しているらしいのだ。少しだけじりじり焦がれるような期待が、私の胸に巣くう。

 でも、希望を持つにはいつもあまりに現実は残酷で、私はずっとそこから目をそらし、ただひたすらに今の穏やかな日常を享受していた。

 そんな、春。




「いやあさあ、もう参っちゃうよなあ! なんつうの、一撃必殺? 初夜で当てちゃうとか、もう俺男として誇っていいのか寂しくて泣いたらいいのかわからねえもんねっ」

「人としてでいいから、その口閉じろ!」


 うちにはもう寄る用もないのにこのアホ獣医、なんで私に嫁さんの妊娠報告と生々しい新婚生活を語りに来るんだ!

 くちゃっとなればいいのに。主にナニが。

 新婚の奥さんには悪いが、この壮絶なうざさに思わずそんな呪いを込めて奴を睨めば、獣医はとたんにぶるりとその身体を震わせた。


「あれっ、なになに、何か悪寒が走った。やっべえ、風邪なんかひいた日には家に入れてくれなくなる!」

「それは大変だから、さっさと早く速効で帰って二度と来なくていいからな!」

「そんな寂しがらなくても、俺はいつだって尾野ちゃんの味方だから!」


 じゃあなーっ、と軽く手を振って去っていく獣医の背中に、とりあえず「禿げろ禿げろ禿げろ……」とエンドレスで呟いておく。幸せすぎて爆発しろよ、そろそろ。

 うんざりと、小一時間ほど続いたらぶらぶ新婚さん談義に、私は大きなため息をついた。

 それでも、余計な気を回さないあたりがあいつらしい。もしかしたら、そういう系統の神経が獣医には備わっていないのかもしれない。うん、そっちのほうがすごくあり得る。

 それとなく、今年産まれた子馬を引き取ってみないか、なんて話も出たが私は首を横に振った。獣医もそれ以上無理強いはせず、欲しくなったら伝手があるから言ってくれよ、とだけ付け加える。それをふと思い返し、私はさっきの呪いの言葉に「ザビエルくらいで許してやってもいいな」と思い直した。

 それから、私は家の中に戻り、過ぎてしまったお昼の支度に取りかかる。

 もらった野菜を適当に切って、中華風に味付けにした野菜炒め。少し多めに作ったそれを、相変わらずスーパーのお弁当で三食済ましている駐在へと差し入れに行く。雪穂ばあのお陰で、これでも昔よりは料理の腕は上達した、はずだ。


「変態駐在、いるのか?」

「やって来ていきなり不敬だな。村を守る唯一の警察官をつかまえて」

「お前がいると風紀が乱れるんだよ。いい加減自覚しろ」


 挨拶のように暴言を吐くと、私はラップに包んで置いた皿を差し出す。

 駐在の視線は一度それに落ち、それから心なしか青ざめた顔でぶるぶると震えだした。失礼な奴だな、前の鯖のみそ煮のことはいい加減忘れろ。あれは、塩と砂糖を間違えただけの、不幸な事故だ。


「気持ちだけ受け取っておく」

「気持ちなんか入ってないから、物を受け取れ。今回は……大丈夫だ」

「その間が怪しい! だいたい尾野、なんでお前は自分で味見をしないんだ!? おまえ、これが失敗だったら帰ってから食べるのやめるつもりだろう!」

「そのくらいは地域の役に立て」

「毒味!?」


 持ってきた割り箸で料理をつまみ、四の五の言わせずその口に突っ込んでやる。

 そこそこ育ちのよい男である駐在は、一度口に入ったものは吐き出すことはない。そのまま、脂汗を掻きながらもぐもぐと噛み、飲み込む。そして。


「……美味い」


 呆然としてそう呟く駐在に私はそうだろう、と畳みかける。……やっぱり醤油はあの程度でよかったんだな、危ういところだった。

 目的は達したとばかりに、背をむけて帰ろうとする私の手を、駐在がそっと握って止める。振り返れば、少しだけ真剣な黒い瞳とぶつかった。それはここ最近、幾度となく告げられてきた言葉を言う前の、前兆。

 私は駐在が開いた口に指を押し当て、それを止める。


「……皿は、また取りに来るから」


 何も言わせない私に、駐在はふと困ったような笑みを浮かべて、私の指に軽く自分の唇を寄せて離した。


「尾野、お前はひどい女だよ」

「ドエスの癖に厚かましいぞ、駐在」


 駐在の触れた指先をそっと握りしめ、私は微笑む。一方的に我慢をさせているこの関係を、なんて呼ぶのかはわからない。それでも、私はこの男を友と呼びたいと思っている。

 そうやって私の一日は、少しの波乱と大いなる安定と一緒に過ぎていく。きっと、多少なりとも何かはあっても、ここにいる限り変わることはないんだと、そう思っていた。その日の夕方。

 午後からずっとパソコンの前に座って仕事をしていた私は、いつの間にか外が赤く染まっていることに気がつき、思い切り背伸びをする。ぱきぱきっという、どうにも情けない音を立て、そうして一段落した仕事に満足すると、パソコンの電源を落とした。これは月曜日までに会社に送ればいいし、週末はのんびり過ごせるだろう。

 今夜は昭夫じいのところに顔を出してもいいな、なんて考えながら、私は無意識に厩舎のほうへと足を向けていた。気がつくと、いつもそこに立っている自分に気がつき、苦笑する。自分のことながら、未練がましいというかしつこいというか。

 この場所にいると、なんとなく温もりを感じるような気がして。アルカディア号に触れた最期の温もりとか、あの日に私を包んでいた田中からした太陽の匂いだとかが思い出されて、安心する。

 真っ赤な、夕陽のようなその赤い髪。手をさし込めば、羨ましいくらいに柔らかかった。少し癖毛で、いつも前髪が眼鏡に掛かって。その透き通るような青の瞳とのコントラストに、何度も見とれていたなんてあいつは知らないだろうな。

 冷たい印象を抱かせる氷色の瞳は、私を見ればいつも柔和に細められた。ひどく甘く、何か懐かしいものでも見ているかのような、視線。たまらなく私を疼かせた。

 抱き締められた時に感じた硬い胸板、自分のものとはまるで違う筋肉のついた腕、筋張った首筋、優美に動く肩胛骨。かさついて、それでも柔らかく触れた唇の温もりも、全部。まだ、ここにある。

 まだ少しだけ肌寒く感じられる風が吹き、私はその温もりを抱き締めるように、両腕で自分を抱き締めた。もうすぐこの夕陽も落ちて、あたりは夕闇に包まれる。

 その前に、昼間駐在に上手いと言わせた炒め物を温めなおして、昭夫じいの家にお邪魔しようと厩舎に背をむけた、次の瞬間。


「あああああああああああああっ」


 どっかで聞いたような叫び声と共に、どかん、と厩舎の屋根に上から何かが落っこちて当たった。ぼろいその屋根は衝撃に耐えられず、めきめきっと音を立てて崩れ落ちる。落ちてきた何かはそのまま中にどすんと落ちて……静かになった。

 私はあまりのことに、唖然としてその場で固まる。え、なに、落下?

 固まること三分あまり、ひゅっと吹いた冷たい風に我を取り戻した私は、恐る恐る半壊した厩舎へと近づいてみた。これで、何かおかしなものだったら走って逃げよう。ごくり、と喉が鳴る。

 そしてかろうじて残っている木の扉に手をかけた、そこで。


「まったく、最後の最後まで仕事が雑だなあ。僕の美貌に傷がついたらどうするんだろう、あの人は!」

「っ!」


 息を、飲む。

 がらがらと瓦礫をどけながら、土埃の中に立ち上がった、そのシルエット。まさか。

 その声の主がふっとこちらを振り返り、一歩踏み出す。

 落ちかけた夕陽に照らされて、それ以上に赤い髪の毛が揺れる。彫刻のようなその顔に光が当たり、氷色の瞳がふわりと笑みの形に細められて。かつり、と懐かしい蹄の音。狂おしいほど望んだその声が、私を呼ぶ。


「ああ、ただいま、僕の二十九日さん!」



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