ふたつめのさよなら
どのくらいその場で呆然としていたのか、よく覚えていない。
気がついたら夕陽はとっくに沈み、辺りには真っ暗な闇と虫の音。空気は冷え切っていたけれど、私はそれとは別に身体を震わせていた。
必死に、唇を強く噛み締めてそれをやり過ごそうとするけれど、強い波のようにそれは胸の奥から何度も何度も、無慈悲に私を突き上げる。喉からみっともない嗚咽がもれ始めた頃、誰かの温かな体温が私の肩を包み込んだ。
波打って歪む視界の中で、昭夫じいの奥さんである雪穂ばあ様が微笑む。小さくて皺だらけの手が優しく肩を撫で、それから小さい子供にするようにその胸の中へと抱き込んだ。
なんにも言わないで、背中をゆっくりさすられて、私はついに大声を出して泣き始める。それは、七歳の時エデンを失って以来の号泣だった。
また、失った。そしてもう二度と、この手には戻らない。
管理人が、この姿を見て大笑いしていても、もうどうでもいい。身の程知らずと罵られようと、私は確かに田中を愛していた。続いてきた日常が、長かったのか短かったのか。さっきまで確かに重なっていた温もりの残り香が、狂おしいほどに私を責める。
あの時のように私はまたすべてを無駄にしてしまった。いくらでも、告げる時間はあったのに。意地を張って、否定して。
だから最初で最後の口付けだった。
「ここは寒いから、うちに行きましょ。ね」
優しいその声に促され、私はしゃくり上げながら頷き、立ち上がる。
本当に子供の帰ったかのように、雪穂ばあに手を引かれて暖かな明かりの灯る二人の家へと連れて帰られた。家の中に入れば、いつも冗談ばかり言う昭夫じいも何も言わないで、よしよしと私の頭を撫でてくれる。もしかしたら田中が何かを頼んでいったのかもしれないし、そうでなくてもこの二人は全部わかってくれているような気がして、私は少しだけ安堵の息を吐く。
それでも止まらない涙を、ふたりは無理に止めさせるようなことも慰めるようなこともせず、ただずっとその晩は私の傍にいてくれた。温かいお茶を手に、こたつを囲んで。まるで、本当の家族みたいに。
私はその温もりに安心して、いつの間にか気を失うようにして眠りの中へと引き込まれていったのだった。
***
それから一年、私は何も変わることなくあの日の続きを生きていた。
見慣れた片田舎の、じいちゃんとばあちゃんの家。在宅勤務の傍ら馬を愛で、昭夫じいと冗談を交わし、駐在に蹴りを入れたりして。
そうして毎日、郵便受けをのぞいて見る。
もしかしたら……そんな淡い希望を裏切られ続けても、それでもその習慣だけはやめられなかった。
もらった四葉はもうとっくに枯れて、茶色く変色してしまったそれはこの間私の指からぱらぱらとこぼれ落ちてしまった。だから時々、アルカディア号の散歩の途中で探してみたりするんだけど、いまだに四葉は見つからない。
配達の途中で見つけました、なんて素知らぬふりをして送ってきたあいつは、どのくらいの時間をそれに費やしたことだろう。そんなことを想うと、私の胸はいまだに甘く痛む。誰も何も言わないけれど、私はずっとあのケンタウロスだけを待っている。
ときどき懐かしい夢を見て、笑う田中の顔を思い出す。それがあんまりにも嬉しそうだったから、もうどこにもいないことが信じられず、泣くこともあった。
それで赤い目をしたまま駐在に会えば、黒い瞳は気遣わしげに細められはしたが、彼はただ黙って私の頭を叩き立ち去るのみ。そういうところだけは妙に機微に長けていて、私は腫れた目で笑う。そんな、毎日だった。
「よお、尾野ちゃん! 調子はどうよ?」
「とりあえず、一発殴らせて」
こちらから呼びだしておいてなんだが、この顔を見るといまだに胸がむかむかするのは、私の事情を考えれば仕方がないことだ。
挨拶もそこそこに殺気をみなぎらせる私に対して、もはやそんな態度には慣れっこになってしまった獣医は、それでも少し距離をとる。本気じゃないからびびらないでほしい。……多分。
「ねえ、俺が何をしたっていうのっ。なんか、去年の冬から尾野ちゃん、俺に対して冷たいよねっ!?」
「気にするな。ちょっと激しく心の底からその顔が気に入らないだけだから」
「そこまで言ったら気にさせて!」
無意識に寄った眉間の皺をほぐしながら、私は叫ぶ獣医を無視して厩舎へと歩き出す。
あの時自らを『楽園の管理人』と名乗った何者かは、どうもこのどうしようもない獣医の身体を借りていただけの存在だったらしい。
田中が消えてしまった次の日に、いつも通りにのうのうと顔を見せた獣医の顔に、私は思い切りアンパンチをかましてしまった。後悔はしていないが。
涙目になって何の事情も知らないと逃げ回る彼に、ようやく私が納得したのはその一週間後だった。あの時は裏山に埋められると思った、と獣医は震えていたらしい。
田中がいなくなったことを獣医は何も聞かなかったが、私のこの理不尽な八つ当たりを許してくれているあたり、こいつも何だかんだといい奴ではあるのだ。
みんなに甘やかされている、と思う。それは嬉しくて、少し切ない。
「アルカディア号の調子が、昨日から少し悪いみたいで」
「了解。まあ、アルカディア号ももう大分歳だからなあ」
厩舎の中、敷き詰められた藁の上で、最愛のアルカディア号は心なしかぐったりとして私たちを見上げている。昨日から食欲ががくんと落ち、それからすぐに立ち上がることもしなくなってしまった。
水を与えても、身体を撫でてやっても元気のない鳴き声をもらすばかり。また急に寒くなってきたから、風邪でもひいてしまったんじゃないだろうか。
彼女の歳を考えると早めに手を打ったほうがいいだろうと、私は朝一番でこの獣医に連絡をとったのだ。
その獣医が真剣な顔になって、アルカディア号のあちこちを診察するのを私はただじっと眺めていた。そういえば、ここしばらくは散歩も少しきつそうにしていたかもしれない。
あれから一年しか経っていないのに、彼女は私の何倍も早く歳を重ねているようで、悲しい。
これでアルカディア号までいなくなったら、どうしたらいいんだろう。それでも毎日を続ける意味が、私に残るんだろうか。
「んー、感冒ぽくもあるけど、体力自体が少し落ちてる感じはするな。食欲もないんだっけ?」
「昨日からあまり食べられないみたいで。水は少し飲むんだけど」
「粘膜とって調べてみるよ。あとは対処療法になるから。できるだけ安静にして」
「わかった」
容態が変わるようなことがあれば、いつ呼びだしてもらってもかまわないから、と言い残し、獣医は帰っていった。
私は苦しそうに咳をするアルカディア号を前に少し迷うと、いつかの時のように母屋の中へと彼女を導く。苦しそうに歩く姿に胸は痛むが、あのぼろくて屋根にもがたが来始めている厩舎よりも、中のほうが寒さもしのげるだろう。もう少し早く、冬は中に入れてあげていればよかった。
そうして横たわる彼女の傍に、私も布団を敷いて座り込む。少しだけ熱く感じるその身体を撫でれば、彼女はいつもよりずっと甘えた仕草で鼻先を私に押しつけてきた。
「大丈夫だよ、アルカディア号。ずっとここにいるからね」
私の言葉に、アルカディア号は嬉しそうにぶるぶると鳴いて答え目を細めた。
時には親友で、時にはお姉さんで、そしていつもお母さんみたいなそんな存在。ここにいてくれるだけで、甘やかすようにして私が甘えている。
「ずっと、一緒だからね」
鼻先を撫でながら私はそう言って、ゆっくりと閉じられていくその瞳を見つめていた。
そうしてその呼吸が静かになるのを、抱き締めたままで感じる。天国の扉を叩くように、ひとつ、またひとつ。緩慢になっていくそれを聞きながら、私はひたすらに堪えた。
最期まで絶対に泣かない。
心配をかけないように、彼女には安心して行ってもらいたかったから。
田中のいる、楽園へ。
次の日の早朝、アルカディア号は静かに息を引き取った。
私は冷たくなったその身体を抱きながら、泣く。神様がいるのなら、私には特別意地悪なんだと、唇を噛み締めながら。
馬の病気や診察のやり方等々、すべて想像です。間違っていたら、ごめんなさい。