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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
20/34

差し出された手は別れの形



 一瞬、獣医はきょとんとした顔になった。その表情はひどく人間くさく、あまりにいつも通りの彼の顔で、なんだか今までのことはすべて夢のような心持ちになる。

 しかし、次の瞬間獣医は辺りに轟くような声で笑い始めた。それを田中はただ静かにじっと見つめる。

 そうしてひとしきり笑った後、獣医は何を考えているのか容易に読みとれないような、そんな瞳を少し細めた。さっきまでの笑みの余韻は、もうそこにはない。


「負けを認めるってのがどういうことを意味するか、わかって言ってんだろうな」

「もちろん」


 圧迫を感じるような低い声音に、田中は普段通りの朗々とした声であっさりと頷く。

 そんな些細なことはどうでもいいとでも言うかのような彼の言葉に、獣医はひくりと眉を寄せた。


「おまえには魂がない。だから愛もない。愛されもしない」

「ええ、そうです。そして賭に負けた僕は、管理人さんの言うことを素直に聞いて楽園へ行く」


 賭に勝ったはずの獣医は苦虫を噛み潰したような表情になり、負けたはずの田中はなぜか余裕たっぷりの笑顔を浮かべてそれを見ている。

 そんな田中の横顔を見上げながら、私は今彼が言ったことを受け止めかねていた。まるで、今日のように近くへ出張に行く、とでも言うような気安いその言葉。


『楽園へ行く』


 それはエデンが――田中東馬がこの場所から消えてなくなる、そういうことだった。

 大きな声を出したわけでもないのに、喉がひりつく。胸の奥、自分が一番隠しておきたいところがひどい痛みを訴えている。涙を流したあとの頬は何だか突っ張るし、もう、身体の何もかもが私に訴えていた。

 そんなの、嫌だ。


「なん、で」

「二十九日さん?」

「なんで、行かなくちゃならないの……!」


 制服の裾をぎゅっと掴んで、俯いたままで私が言う。今さらだと、自分でも思った。

 だって、こいつは……田中はずっとここにいるものだと思っていたから。急に私の前から消えたりしない、うるさいくらいに近くにいてくれるはずだって。

 いつの間に、そんなにわがままになったんだろう。私はその先の言葉が続けられず、沈黙した。

 そこにある時にはぞんざいに扱って、なくなると聞くと手を伸ばすだなんて、本当に子供だ、私は。


「あなたに会えたことが、僕にとって『本当のこと』だから。もうそれで充分だったんです。それが答えだったってことに、愚かな僕はずっと気づけなかったんです」


 するり、と髪を撫でた手のひらが頬にかかり、気がつかないで流れ出していた涙をそっと拭ってくれる。その指の暖かさが、切ない。

 ――好きです、大好きです、二十九日さん。

 田中はずっと待っていてくれたのに、つまらない意地を張って、過去にとらわれて、愚かだったのはきっと私のほう。


「覚悟はできてるってことか。なら、俺は遠慮したりしないぜ? そうそう慈悲だって大盤振る舞いするわけにもいかねえ」


 硬く響いたその言葉に、私の涙腺は呆気なく崩壊してしまった。

 自分のどこにそんな水分が蓄えられていたのか、不思議に思うくらいの涙の量に、頬に添えられた田中の手のひらまで濡れていく。

 恥ずかしい。だけど、こうしているうちは田中がここにいてくれるようで、私は涙を止めようとは思わなかった。七歳のあの時以来の号泣、かもしれない。

 その私の様子に困ったのは田中だけではなかったらしい。


「……まあただ、一日くらいは時間をやってもいい」


 大きなため息とともにもらされたそれに、田中の手がぴくり、と揺れた。

 泣きすぎて呼吸が苦しく肩で息をしていた私も、その言葉に涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を上げて獣医を見る。

 彼はその瞳に初めて慈愛のような色を滲ませ、私を見つめていた。


「明日の日没までだ。俺も悪魔じゃないんでね」


 こちらに背を向けた獣医はそんなことを呟くと、そのまま屋上をあとにした。呆然とそれを見送った私と田中は、何を言うでもなく顔を合わせる。

 それでも流れ続ける私の涙に田中は困ったように微笑むと、着ていた制服の上着から白いハンカチを取りだした。そうっと、それが頬に触れる。

 寒い中、涙に濡れていた頬に、その乾いた布の感触が温かく心地いい。泣きすぎて痙攣を起こしている身体を落ち着けようと深呼吸。すると、こらえきれなくなったとでも言うように、なぜか田中が爆笑し始めてしまった。

 最初はびっくりしてそれを見ていた私だが、あんまりにしつこく笑っているので、ついいつものようにその横っ腹を平手で叩く。


「いたっ。痛いですよっ、二十九日さん!」

「うるさいっ。……っく、な、んで笑って、るっ!」


 しゃっくりをしながらの文句ほど、迫力はないし間抜けなものはないな。三十年生きてきたけど、初めて知った。

 とにかくしゃっくりを何とかしようと息を止める私を見て、ようやく田中も笑いを治める。


「だって、二十九日さん。あの人を泣き落とした人なんて、二十九日さんくらいですよ。あの顔見ましたか?」

「嫌に余裕をこいてるお前がむかついて、そんな余裕なかった!」


 渡されたハンカチでこれでもか、となかば八つ当たり気味に鼻水まで拭き取った私は、目の前でにこにこしっぱなしの田中を睨み付ける。

 あの「僕の負け」宣言からこっち、なんでこいつはこんなに余裕綽々なんだろうか。私が今、誰の何のために泣いてるのか、わかってるのか!

 と、そこまで腹立たしく考えて、動きを止める。私、色々と今、恥ずかしい状況じゃないのか?

 三十代にして大号泣。しかも泣いて要求をのませるとか、それどこの三歳児。極めつけに、私はこのケンタウロスになんて言った?

 「なんで行かなくちゃいけないの」、だ。もうこれ、告白するより恥ずかしいだろう!

 ひとりでわたわたと顔を赤くする私に、田中は特に何を突っ込むこともなくにこにことそれを見ていたが、しばらくして私が落ち着いたのを見るとそっと帰宅を促してきた。


「さあ、もう遅いですし、帰りませんか」

「でも、時間は一日だけしか……」

「疲れたでしょう、二十九日さん。疲れていると、へこむことばかりに考えがいってしまうんですよ。ああ、僕と片時も離れたくない、添い寝して欲しいっていうなら喜んで!」


 いつものように叩かれるその軽口に、私もいつもどおりに反応しようとして、やめる。というより、できなかった。

 温かなその身体を、優しく撫でる。丁寧にブラッシングされた鹿毛は、上質のベルベットのようで荒れた心を宥めてくれた。懐かしい感触。きっと、あの子馬が立派に育っていたら、こんな風だったろう。

 そんな風にひたすら身体をなで続ける私に、田中は少しだけくすぐったそうな顔をした。


「なんだか懐かしいです。二十九日さんは、よくそうして僕を撫でてくれました」

「あの頃のおまえはもっと可愛かった。余計な上半身がついてなかったし」

「ひどいなあ」


 笑って、田中はさっきまで私に触れていたその手を差し出した。

 少しささくれたその手のひら。私が子馬だった田中に差し出せなかったそれに、私はそうっと自分の手を乗せた。きゅっと包まれた体温が、嬉しいはずなのに悲しい。

 あの日、こんな風にエデンに手を差し伸べていたなら、この悲しみはなかっただろうか。考えてももう、遅いのに。


「帰りましょう、二十九日さん」

「……うん」


 なんなら僕に乗ってくださってもかまいませんよ、とうっとりとした表情で言う田中に、私は小さな声で「馬鹿馬」とだけ呟いた。

 別れは、明確な形を持って再び出逢えた私たちに近づいてきていた。



***



 絶対に眠れないと思っていたのに、あんなに大泣きして色々あったせいか、家に帰って布団に入るなり私はぐっすりと深い眠りについてしまった。少しだけ腫れぼったさを感じる瞼を無理矢理押し上げれば、すでに日は昇り始めている。

 こんな時にでも真っ先に考えるのは、厩舎にいるアルカディア号のこと。こんな時だからこそ、かもしれない。普段より少しだけ早く布団から出た私は、手早く着替えて裏の厩舎へとむかった。

 朝日の中に黒鹿毛の美しい身体が輝いている。彼女は私を見ると、嬉しそうに首を振りながらこちらへと近づいてくる。そうして元気のない私に気がついたのか、心配そうに肩の辺りを噛んできた。私はその首を、安心させるように軽く叩く。


「ごめんね、アルカディア号。最近色々あって、なかなか一緒にいられないね」


 その言葉を否定するように彼女はぶるり、と身体を震わせた。首から胸、背中に腹、お尻へと久しぶりにゆっくりと彼女の身体を撫でていく。朝日に輝くその毛並みは、けれど出逢った頃よりいくぶんか年を重ねて艶を失いつつあった。今は流れる時間のすべてが、切ない。

 何だかまた泣きたくなってしまって、私は彼女の横腹に顔を埋める。呼吸の度に震えるそこは、冬が近づきつつある冷えた空気の中で、唯一温かい場所だった。

 そんな私を逆に宥めるように、後ろに首を巡らせたアルカディア号が、鼻先で私の頭を撫でてくれる。


「どんな顔をして何の言葉で、私はあいつを見送ればいいのかわからない。どんなに遠くにいても、私のこと嫌いでも、いてくれさえすればそれでいいのに……」

「僕があなたを嫌うなんて、そんなのあり得ません!」


 愚痴に似た呟きに、答える朗々とした声。かつんかつんと、聞き慣れた蹄の音が近づいてくるのを、私は胸が締め付けられるような気持ちで待った。そうして、すぐ後ろで止まったその音に、ようやくゆっくりと振り返る。

 そこには、朝日に照らされて燃え立つような赤髪。薄いガラスを透してこちらを見つめる、清廉な青の瞳。何度見ても心をざわめかせるような、美貌のケンタウロス。

 いつもの制服ではなく、いつか二人で出かけた時の白いシャツに身を包んだ田中は、にっこりとその秀麗な顔に笑みを浮かべた。


「おはようございます、二十九日さん! 朝日に照らされるあなたは、本当に美しい」

「お、お前も下半身だけは綺麗な毛並みだなっ」

「ええ、そうでしょう? 僕、色々な意味で下半身には自信があるんです。馬ですから!」


 二十九日さんにお見せできなくて残念です、と続ける田中に、私は何もかもを一瞬忘れて蹴りを入れた。身体に染みついた条件反射ってすごいな。それを受けてこの上なく嬉しそうにする田中もまた、ある意味で通常運転だった。

 一気に昨日からの重苦しい空気だとか、泣きそうだったことなんかが飛んでいってしまい、私は大きなため息とともに肩に入っていた力を抜く。


「二十九日さん、朝ご飯まだでしょう? 僕、おにぎり作ってきたんです。お茶もいれますから、一緒に食べましょう!」

「家事ができる馬アピールとかすごくうざいけど、仕方ないから家に上げてやる。アルカディア号の食事の支度を済ませるから、先に行ってて」

「前半の刺々しさが気になりますけど、嬉しいので聞かなかったことにしますっ」


 いそいそと足洗い場で汚れを落とし、勝手口から家の中に入っていく田中の背中に、私はとりあえずひと言付け加えた。


「それと、布団の匂いとか嗅いだら、お前の朝ご飯は自動的に生にんじんになるから」

「……はい」


 その間は何だ、その間は!

 なぜかひどく肩を落としてしょんぼりと家に消えていく田中を、やっぱり自分は何か間違ったんじゃないか、と思いつつ見送った。





 それから私たちは、運命の日だというのに、なんでか家でのんびりとした時間を過ごしてしまった。

 田中の身体を背もたれ代わりに、『田中スペシャル』とかいういれ方でいれてもらったコーヒーを飲みつつ、どうでもいいくだらない話をぽつぽつとする。

 温かな身体。きちんと重みと熱を持って、ここにある。呼吸をする度に同じように上下する自分の身体が、まるで田中と一体になっていくような気すらしていた。

 ずっと、何か欠けていると思っていたもの。それが、今ここにあった。満ち足りて、安堵して、私はいつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。

 口元に流れていた髪の一筋を、長く少し節ばった指がよけてくれたその気配に、ふっと目を開けた。


「あ、起こしちゃいました?」

「田中……」


 部屋の中はもう、夕焼けの色に染まりつつある。私はとたんに、物悲しくなってよけいに顔を田中の身体へと押しつけた。その私に、ふ、と田中の笑う気配。大きくて温かな手のひらが、私の頭を撫でてくれた。


「途中でアルカディアさんのとこ行って、お世話しておきましたから。戻ってきて元の体勢にしても、二十九日さんちっとも起きないで、ものすごく可愛かったです」

「馬鹿! どうしてもっと早く起こしてくれないのっ」


 愛おしいものを見つめる瞳でそう言う田中に、私はほとんど八つ当たりで感情をぶつける。

 最後の日なのに。もう、会えなくなるのに。

 それなのに、眠ってその大半を失ってしまうなんて、どこまで私は馬鹿なんだろう。


「僕はとても幸せでしたよ?」

「過去形にしないで!」

「僕はとても幸せなんですよ、二十九日さん」


 泣く代わりに睨み付ける私の目をしっかりと捉えて、田中はその顔にものすごく甘ったるい笑みを浮かべた。そうしてふっと外を指さす。


「よろしければ、あの夕陽の丘へと行ってみませんか?」


 初めて田中の誘いを受けたあの日に、連れて行ってもらったあの場所。今のように、眠ってしまった私を、田中が優しく見守っていたあの日。

 こいつはどんな想いで過ごしていたんだろうか。

 優しく促してくるその薄い青の瞳を見つめ、私はゆっくりと頷いた。それが最後になるのだと、わかったから。





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