僕の美しい人だから
『名前を付けてやるんだよ、二十九日。そうしたらもう、その子馬はお前にとって特別たった一頭の子馬になる。“特別”にするってことは、“責任”を持つってことだよ』
そう言って私の頭を撫でてくれたじいちゃんの、その言葉の意味を痛いほど知ったのは、私のその特別な子馬、エデンが死んだあとだった。
私が付けた名前。私が撫でた身体。私が抱き締めた体温。私の特別な、命。
失ってしまったら、どんなに同じような毛並みを探しても、どんなに懐いてくれる子馬を探しても、それはもう同じあの子じゃない。
そんな、たったちっぽけなことがわかっていなかった自分。
あれからこんなに時が降り積もったのに、愛情も何もかも、その『同じようなもの』では受け付けられないでいる。
それは、飛んでいった風船をいつまでも泣いて惜しんでいる、ただの子供だ。自分から手放してしまったというのに――。
「俺は言ったんだ。人間ってやつはいつでもすぐに忘れ去るもんだってな。悪いことじゃない。俺たちからすればほんの瞬きの間の命だ。些細なことに気を取られてれば、あっという間にそれだけで終わっちまう」
ゆっくりと、いつもの飄々とした口調で獣医が言う。その瞳は優しげにこちらを見つめているが、その感情は人が人へむけるものじゃなかった。何か、大きな上位の存在が、か弱い生き物にむける哀れみのような、そんな瞳で。
それに対した田中が、真っ向から反逆する。
「それは違います。二十九日さんは僕にとってたったひとりの人。大切な人。どんなに大勢の人間がいたって、僕は間違えない。だって、僕に名前をくれた特別な人ですから。そして、二十九日さんにとっても僕はたった一頭だけの特別な子馬だったはず」
「これだよ、尾野ちゃん」
田中の言葉を受けて、不意に獣医がこちらに話を振る。私は突然のことにただ目をしばたたかせた。二人の意図するところがわからない。
「動物にはな、意志はあっても魂は入ってねえんだよ。そういう風に作られてる。だけど、与えられた命を全うしたものには、東の園に入る資格が与えられる。こいつはさ、尾野ちゃん。その資格があるのに、入り口でぐずってちっとも中に入ろうとしないんだ。管理人の俺としては、ものすごく迷惑なわけ」
どこかものすごく楽しそうな口調で、笑いながら獣医が田中を見た。すべての感情をそぎ落としたような、微動だにしないその美貌。私は不安を覚える。
何かの衝動をじっと耐えるように、その手のひらは強く握りしめられ、もう真っ白な色に変わっていた。
「僕にはその資格はありません」
「これだよ。何を言ってもこれ一辺倒」
やれやれ、といった風に獣医はわざとらしく大きなため息をつく。
そうしてふっと次に顔を上げた時には、もう今までの獣医の顔ではなくなっていた。どこがどう変わったのか、不思議なほどに気づけない。けれど、確実にそこにいるのは私の知っていた彼ではない。何か、別の生き物。
いや、生き物ですらないのかもしれない。私はその圧倒的な存在感に息を飲む。
「“自分はわざと彼女の心を傷つけたから、楽園には入れない”」
ぴくっと、田中の肩が揺れる。
今まで彫像のようだったその顔に、苦しげな表情が浮かんだ。
「本当は、木に繋がれた縄はほどけてたんだよな、東馬。だから、かしこいお前は家に戻ろうと思えばいつだって戻れたんだ。そうだろう?」
「え……」
その言葉に、私は思わず声を上げる。
私を庇うようにして立つ田中の顔を見上げると、彼はわざとこちらを見ないようにして、ただ真正面の獣医を鋭く睨み付けていた。まるで、私の心の傷から目を逸らすようにして。
私は、じくじくと痛み始めた心を押さえるように、胸に手をあてる。
今、告げられたことを反芻して、そして口に出す。
「どうして……?」
ほどけていた縄。帰れるはずだった、エデン。
そのままそこに居続ければ、身体の弱い自分がどうなってしまうのか、わかっていなかったというのだろうか。いや、獣医が言ったとおり意志があるとしたならば、エデンはわざとあそこで私を待ち続けた。どうして?
視線の先の田中が、しばらく沈黙の後に重々しく口を開く。懺悔する罪人のような面持ち。私は言ってほしくないような、知りたいような、そんな気持ちでそれを待つ。
「僕はあなたをめちゃくちゃに傷つけたかった。心の深い、深い場所にまで手を突っ込むようにして、そこに刻みつけたかったんです」
自嘲するような笑みがその整った口元に浮かび、私は告げられたその言葉に瞠目する。
その私を、ようやく田中の氷色の瞳がとらえた。ガラスのような、美しい瞳。どんなに温めても、時間が経てばすぐに冷たくなってしまうような悲しい瞳が、歪む。
「だって、僕はすぐに死んでしまうじゃないですか! そうでなくても、あなたとずっとはいられない! 僕はあなたが欲しかった。最初に会った時から、ずっとずっと欲しかった。だけどあなたは人間。僕は馬。それも、いっとう弱いちっぽけな子馬……」
「エデン……」
二十三年ぶりに呼ばれたその名前に、田中は激しく首を振る。
「そんな綺麗な名前で呼んでもらう資格が、僕にはありません。日を追うごとにだんだんと世界を広げていくあなたに、生き生きと外へ行ってしまうあなたに、僕は嫉妬したんです。醜い感情を抱いていたんです。僕とだけいてほしかった。僕だけを“特別”にしてほしかった。僕だけ、僕、僕だけの二十九日さん」
その瞳にどこかほの暗い喜びの光が灯る。うっとりと、ささやかれた自分の名前に、私は背中が粟立つのを感じた。
しかし、その光は次の瞬間には消え去り、そこにはただ苦しみだけが残る。田中の腕がそうっと私に伸ばされ、けれど目的を果たすことなくまた下げられた。
「ずっと、覚えていて欲しかっただけだったのに。僕のことを忘れないでほしかっただけ……。けれど、ひどく悲しんで傷ついて弱ってしまったあなたの姿を知って、そこで初めて僕は大変な罪を犯したことに気がつきました。僕のちっぽけなエゴで、あなたを縛り付けてしまった。自分で望んだことなのにね。でも、そこでまた別の僕が言うんです。嬉しい、嬉しいって。こんな醜悪な生き物が、あなたを傷つけたまま平然と楽園で過ごしていいわけがないでしょう。ねえ、杉村さん」
「本当に面倒くさい奴だなあ、東馬。関係ないんだよ。それはお前の自惚れだ。魂を持たないお前がいくら愛を語ろうと、そこにはなにもない。尾野ちゃんだって、すぐにそんな傷は忘れてしまうさ。時に癒され、忘れ、そうして他の誰かを愛するだろう。それがお前たちの正しい姿だ」
さっきまでの笑みを消し去り、渋面を作った獣医が告げる。私と田中の間にあった、絆。それは愛じゃない。まやかしだ、と。本当にそうなんだろうか。私がずっと抱いてきたこの胸の傷は、幻想だったんだろうか。
部長とのことのように、いくら愛を注いでも注がれても、乾いた土に吸い込まれて消えてしまう――そんな傷だと思っていた。私とエデンの記憶。
「だから俺たちは賭をしたんだ。そうだな、東馬」
手にしていたウィスキーをぐいっと煽って、獣医が声を張った。
田中はそれを睨む。
「俺は動物に魂はない、だから愛も存在しないと言う。だがこの東馬君は、自分と尾野ちゃんの間にはあった。自分がそれをぶち壊しにしたから、楽園に行けない。そう言う。だったらこうしようじゃないか。お前たちのために舞台を整えてやろう。東馬、お前に人の身体を半分やろう。その代わり、お前の名前を彼女から取り上げる。それでも彼女がその名を取り戻し、お前に愛を告げるなら、俺はお前の言ったことを信じる。望むのなら、命のある限り添い遂げさせてやってもいいぞ、ってね」
「賭……? 舞台を整える?」
「そ。俺じゃあ東馬を人間にしてやることはできないからさ。だったら、そんな存在が許される環境を作ってやろうじゃないのってこと。半人半獣がいても不思議じゃない世の中ってやつ」
私はあまりの驚きに声さえあげるのを忘れて、息を飲む。ケンタウロスが受け入れられている、世界。そのものが、幻?
そんな心の中に起きた疑問を読んだように、獣医は静かに首を振った。
「幻じゃない。けど、尾野ちゃんの近くにしか存在しないだろ、ケンタウロスたちは。尾野ちゃんがもともといた場所や、その周りには存在する。だけど、じゃあ世界に同じようにいるかってえと、それはない。そういうこと」
「なんで、そんなこと」
「他の奴らとなるべく同じ土俵でなきゃな。こんな存在があっても普通に接することができないと、最初のインパクトだけで惚れ合われたんじゃしようがない。舞台を整えて、ようやく東馬を送り込んだってのに、こいつは予想外のことばかりしでかしはじめてさ。まいったよ、本当」
混乱する頭の中で、私は必死で今までの話を整理する。
田中は自分には魂があるという。そして、愛することができると言って。獣医は動物に魂など存在しないと、だから田中の言う愛を否定している。
私が田中の愛を受け入れれば、賭は田中の勝ち。私が田中を拒絶すれば、賭は獣医の勝ちだ。その時は田中は楽園へと連れ戻される。
最初の頃の田中の行動は、そう考えれば納得できることだ。エデンの頃から私を愛していたと、そして私にもその愛を返して欲しいというなら。
だけど、部長が現れてからの田中は、それまでとは反対の行動ばかりとるようになった。私から遠ざかるような、そんなことばかりで。
どうして。
「なんでだ、東馬」
私のその疑問を代弁するかのように、今はもう微笑みさえ消し去った獣医が問う。
すると、この問答が始まってから初めて、田中はその美しい顔に笑みを浮かべた。それは作り物でも何でもない、本当の田中の――エデンの心からの微笑み。
「だって、それは愛じゃないからですよ」
「どういうことだ?」
驚いた表情の獣医をおいて、田中は私へと視線を合わせた。
さっきは触れることを諦めたその手が、私の頬に触れる。温かくて、少しかさついている田中の手のひら。指。それがゆっくりと頬を撫で、愛おしそうに瞳が細められた。
「僕はまた間違えるところだった。僕に魂があるかなんて、これが愛かなんて、そんなのどうでもいいことなんです。そんなのは、僕が知っていればいいことなんです。そんなことのために、僕はまた二十九日さんに自分の気持ちを押しつけるだけ押しつけて、そうして傷つけてしまうところだった。僕は、二十九日さんが幸せなら、それでいい。笑っていてくれれば、それで充分だから……」
「田中……!」
ふっと私にむかってかがみ込んだ田中の、額が額に触れる。伝わる温もり。
これ以上ないというくらい近くで合わさった瞳は、いつかの日、私にすり寄ってきたあの子馬の瞳だった。絶対的な信頼と、温かな感情。
そして田中は私に微笑むと、身を起こして獣医を振り向き――。
「だから、賭は僕の負けでいい」
そう、高らかに宣言した。