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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
18/34

なくしたものと本当の名前



 獣医にひっぱられてやってきたのは、まさかの独身寮屋上。

 そこになぜか置かれていたアウトドア用の椅子に座り、これまたなぜか用意されていた燃料その他一式でいれられたコーヒーを飲む。なんでこうなった?

 泣いたために少しだけ腫れぼったく感じる目を向けると、獣医は鼻歌を歌いながらぐびりと缶入りウィスキーをあおっていた。どこまでも用意周到な奴だ。


「兵は詭道なりってな。外に出て行ったと見せかけて、実は一番近いところにいるってのは定石だろっ?」

「そうじゃなくて!」


 訊きたいことはそこじゃない。

 なんでお前と私が一緒に逃避行しているのかと、そこのところだ。


「え? 尾野ちゃんも飲むの?」

「そのボケ、わざとだったらお前に毎日弁当を作るからな」


 私がそう低くすごむと、杉村はぶるぶると激しく首を振ってそれを拒絶。自分で言いだしておいて何だけれど、その反応は地味に傷つく。まずいのは……認める。

 手にしていた温かいコーヒーを一口飲んで、私は大きくため息をついた。

 それでも、この空気を読まない獣医に、少しは感謝してもいいと思う。あのままあそこにいたら、きっととんでもなく情けないことになっていたはずだから。


「うーん、やっぱここからじゃ、ケンタウロス座は見えねえかあ」


 どんな時も荒れることのないのんびりとした声が、夜の屋上に響く。隣を見れば獣医は、冬の夜空を見上げながらまた一口、ウィスキーを口にする。

 そしてこちらへ視線をむけると、自分の着ていたジャケットをこちらに放った。慌ててそれを受け止めた私に、獣医はいたずら坊主のような顔をして笑う。


「寒いし、着とけよ。あいつ、頭は切れる癖に抜けてるとこあるし、もしも長丁場になって風邪がぶり返したら大変だから」

「でも……」

「俺は絶対に風邪引かないから大丈夫!」


 なぜか自信満々にそう言い切る獣医に、もしかしたらアレだからなのかな、と思いつつありがたくそのジャケットに袖を通した。

 まだ残る温もりが優しく私を包んでくれる。おかしいな、こんなことで泣くほど弱いとは思ってなかったんだけど。

 思わずにじんだ涙を誤魔化すように、私は再びコーヒーに口をつけた。獣医はただ黙って空を見上げている。多分、今、見なかったふりをしてくれた。


「尾野ちゃんさあ、東馬のこと、好き?」


 突然の言葉に、口に入っていたコーヒーを吹く。そのまま気管に侵入されて、私は激しく咳き込んでしまった。な、な、な、なにを!

 息苦しさと何かによって真っ赤に染まった顔を向ければ、そんな私を獣医はにこにこと笑って見つめていた。

 すると不意にその瞳がすっと静かな光を宿す。黒よりももっと深いような色のそれは、私の中身を探るように細められた。


「もし東馬の気持ちに答えられないんだったら、もうあいつを解放してやらない?」


 突然鋭く入り込んできたその言葉に、私は目を見開く。

 そこにあるのは、さっきから不自然なほどに自然な獣医のいつもの顔。人を殴りつける時にも、まったく変わらなかったその表情に、私はぞくりと背を震わせた。


「なに、を……」

「まだ思い出せない? あいつの本当の名前」

「本当の、名前?」


 問われた内容に私は首を傾げる。田中の本当の名前って、何?

 けれど、まったく知らないはずそれに、頭のどこかが引っかかりを覚えるのがわかった。何か大事なことをすっかり忘れてしまっているような、そんな不安が心に入り込む。


「それを思い出して、尾野ちゃんが東馬を拒絶すれば、俺の仕事はお終いになるんだけどなあ」

「仕事って」


 不思議なほど凪いだその声に、私はまだ熱を持ったままの瞳をしばたたかせた。その私の前で獣医はただ、その厚みのある唇に微笑をのせて笑っている。

 不意にこの男は誰だったろう、とそんな疑問が浮かんで離れない。

 へんぴな片田舎でのんびりと獣医を仕事にする男。いつも飄々としていて、馬鹿なことばかり言って、騒がしくて。だけど。


「生まれ変わったケンタウロスを見守るだけの、楽しいお仕事! 時間が来たら、また東へ連れて帰るだけの、な」


 東へ連れて帰る。

 その言葉に、私ははっと目を見張った。ずっとどこかで引っかかっていたものが、ぱらりと剥がれ落ち、そこに隠されていたものが目の前に提示される。

 田中、東、馬?


「二十九日さんっ!」


 屋上へとつづく外階段から、その田中が姿を現した。

 奴にしては珍しく、肩で荒い息をしている。よほどあちこち駆け回ったのだろうか、額から流れ落ちる汗もそのままに、田中は真っ直ぐ私のほうへやって来た。

 そしてほっとしたように懐かしい笑顔を浮かべると、今度は獣医に向き直る。

 私を庇うように、隠すようにして立ちはだかった背が、なんだか緊張しているのがわかった。


「……あなただったなんて、びっくりですよ、杉村さん」

「見破られるようじゃ、だめだろうよ、そこはさ」

「もう時間だと、そういうことですか」


 私にはまったく理解できないやり取りが、私を落ち着かなくさせる。いったい、こいつらは何を話しているというんだろう。

 無意識に田中のシャツの裾を掴んだ私に、奴はちょっとだけ身を強張らせ、それから安心させるような優しい笑みをこちらに向けた。

 大丈夫だとでもいうように、私の肩をぎゅっと抱き寄せ、私はその胸の中に頬を寄せることとなった。

 鼻こうに、かすかに香るよく干した草の匂い。太陽の、匂い。


 あ。


 その香りに誘われるように、脳裏にいつかの光景が甦る。

 それは、二十三年前の夏。七歳の私のところに子馬がやってきた、その日の――。


「エ、デン?」


 私がそう小さく呟くと、何かに弾かれるようにして田中は私から身を離した。

 薄い青の瞳がこれでもかと見開かれ、その少し乾いた唇が何かを発しようとして、また閉じられる。泣きそうな、けれど嬉しそうな。

 そんな田中の表情に、私は今度は確信を持ってその名を呼んだ。


「田中、おまえはエデン、なの?」


 それはあの日なくしたはずの、私の子馬の名前だった――。


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