カレーの半分は気合いでできています 後編
「おかえりなさい、田中」
「……ただ、いま、戻りました……?」
ぱっかぱっかとご機嫌な足音を響かせて、共有スペースまでやってきた田中は、そこで私の姿を見つけるなりその身体を凍り付かせた。
少しやつれたけれど、それくらいでは損なわれない美しい顔が、微妙に歪む。薄い青の瞳が、動揺してあちこちうろうろとさまよって、そして諦めたように私を見返した。
私はそれをじっと見つめ、静かにダイニングテーブルを指す。
「今晩はカレーだ」
「もしかして二十九日さん、匂いで僕に逃げられないように、なんて作戦たてました?」
「安心しろ。そんなことしなくても、私が逃がさないと決めたら、お前はどうせ逃げられない」
困ったように微笑む田中に、私も満面の笑みを返す。
後ろで控える馬鹿二人の手にしたスプーンが、カチカチと小刻みに音を鳴らしている。震えるほど今日は寒くないはずだけど。
そのままにらみ合うこと数秒、諦めたようにため息をついた田中は、黙って洗面所に移動していった。外から帰ったらうがい手洗い、重要だな。
その間に私はご飯を盛り、それにカレーをたっぷりとのせてやる。それを見ていた獣医と駐在が、ものすごく変な顔をしていたのはこの際無視。
「おまたせしました」
案外素直に戻ってきた田中の前に皿を並べ、私たちは表面上なごやかな晩餐を開始した。
この中に裏切り者がいる、なんて口火を切るのは私なんだろうか、なんて思いながら食事をしていると、私より先に口を開いたのは獣医だった。
「匂いはカレーなのに、カレーの味がしないってどういうこと!?」
「落ち着け、杉村。だから最初から言っているだろう、これはカレーに似た何かだと!」
「味がわかるまで食べさせてやろうか?」
大量に作られたカレーを指さしながらそう言うと、ふたりは生まれたての子馬のようにぷるぷると首を振った。
この私に何人分かなんて、そんなことを考えながら作れる腕はない。とりあえず、手元にある材料を入れられるだけ入れ、ルーも全部投入した結果があの寸胴だ。
まあ、カレーって何日でも美味しく食べられるらしいし。
馬鹿二人を黙らせた私は、目の前で黙々とカレーを口に運ぶ田中を見つめた。
憎たらしいほど美しい所作で食事をする彼は、その顔に何の表情も浮かべてはいない。今までのこいつなら、うざったらしいくらいに「美味しいですっ、二十九日さん、天才ですっ」なんて言ったはずなのに。
「どうだ、田中。美味いのか?」
無反応の田中に焦れて、私は挑戦的にそんな言葉を投げかける。それに対し、奴は食事の手を止めてこちらを見た。
口にものを入れたまま話さないっていうのは、感心だけど。
「有り体に言えば、ものすごくまずいです」
きっぱりと言い切った田中の言葉に、獣医と駐在が悲鳴にならない悲鳴を上げた。私は無言で続きを促す。
「なんていうか、もうカレー以前の問題ですよね。にんじんなんか、半分生っぽいし。じゃがいもは溶けてなくなってるし。カレーのルーは入れすぎです、明らかに。隠し味にチョコレート、とか考えたまではいいと思うんですけど、隠れてません。むしろ、市販のルーをベースによくぞここまでってくらいに、まずいです」
にっこりと、それはもう綺麗な笑顔で一気に田中は言う。
ははは。私の料理がくそまずいことくらい、私が一番よく知っているんだよ、田中。そんなこと言われたくらいで、私が引き下がるとでも?
「そうかそうか。よし、もっと食え」
「いただきます」
私が差し出した手に、田中も負けずと皿を返す。ご飯なし、ルーだけたっぷりよそってやると、田中よりも隣の駐在が泣きそうな顔をした。
「田中、人生はまだまだこれからだぞ」
「どういう意味だ、駐在。お前の人生を今ここで終わらせてやってもいいんだぞ?」
「落ち着け、尾野。尻はどうにもならないが、料理はこれからどうとでも改善できる。諦めるな」
「とりあえず、尻から思考を離せこの変態!」
からかっているわけではなく真剣な顔の駐在に、私も全身全霊の拳を振り下ろす。小さく呻いた駐在を見て、私は少しだけ楽しさを感じて微笑んだ。すると、それをじっと見ていた田中がおもむろに口を開いた。
「大野さんと二十九日さんて、さすが幼なじみって感じですよね」
突然の何の脈絡もないその言葉に、私と駐在はわけもわからずに田中を見返した。
そんな私たちにどこか冷たい瞳のまま微笑みを向けると、田中は静かにスプーンを置く。そして、こちらに向き直り、少し眩しそうに目を細めた。
「大野さんはこう見えて公務員ですし、一部の性癖を除いては真面目な方で。二十九日さんのこと、小さい頃からよく見知って、しかも初恋の相手でしょう? 僕、思うんです。二十九日さんと大野さんて、とってもお似合いの二人なんじゃないかって」
ただひたすらに美しい微笑の田中に、私はただ呆然とした視線を返すだけ。言われた言葉の内容が、うまく頭の中に入ってこない。
なんで、こいつがそんなことを言うんだろう。どうして、私と他の相手をくっつけるようなことを。
そんなことをぼんやりと考えた私の斜め向かい、当の駐在ががたっと乱暴な音を立てて立ち上がるのが見えた。なんだか、視界のすべてがゆらゆらしていて、よくわからないけれど。
「田中っ、おまえ――!」
普段は決して見せない激しい表情で、駐在が田中の襟首を掴んで引きずり立たせた。そのままの勢いで殴りかかりそうになったその腕を、獣医がなんとか押しとどめる。
「やめろ、大野。おまえ、警察官だろうが」
「……くそがっ!」
叩きつけるように田中の身体を離すと、駐在はひどく傷ついたような目で奴を睨み付け、そして静かにその場を後にした。
玄関の開く音に、彼がそのまま外に出ていったのだと知れる。
あまりの出来事に、私は瞬きも忘れてただ残された田中と獣医とを見つめていた。
「おかしいですね、大野さん。初恋のこと、ばらされたのがそんなに恥ずかしかったんですかね」
どこか空虚に笑ってそんな風に言う田中に、獣医はいつも通りの表情で問う。
「東馬。お前は今、自分が何言ってんのかちゃんとわかってるか?」
「杉村さんまで。おかしいなあ。僕、そんなに変なこと言いましたか?」
「そうか。わかってんだな」
飄々としたいつもの獣医そのままの態度で、彼はそれを確認すると、いきなり田中の頬を拳で思い切り殴りつけた。
突然のことに勢いを殺せず、田中の身体が椅子から転がり落ちる。骨と骨がぶつかる音もひどかったが、受け身をとらないままに倒れ込んだ音も、また耳を塞ぎたくなるようなものだった。
その田中の身体をもう一度獣医が掴み上げ、声をかける。その顔もまたいつも通りすぎるくらいいつも通りで、私は知らず、身体を震わせた。
「お前の中になんか引っかかりがあって、それでお前自身が拗ねてんのなんか、どうでもいいけどよ。それで大野や、尾野ちゃんまで傷つけるっていうのは俺は見過ごせねえな。自分のことしか頭になくて、それで好きな女泣かせて楽しいのか、お前は」
その獣医の言葉に、はっと目を見張った田中が、つかみ上げられた身体はそのままにこちらを向く。
そこで初めて瞬きをした私は、何かがぱたぱたとダイニングテーブルの上にこぼれ落ちたことに気がついた。今まで視界が揺れていたのは、溜まった涙のせいだったのだと。
そして改めて田中に顔を向けると、奴は泣いている私以上に痛々しい顔をして、こちらをじっと見つめていた。
奥歯を噛み締め、眉をひそめる田中の身体を放り出し、獣医はゆっくりと私のほうに歩み寄る。
「大野はああ見えて潔癖だから、尾野ちゃんを今さらどうこうってのはねえよ。だけどなあ、俺はけっこう節操なしだぞ? 東馬、お前の望み通り、俺が尾野ちゃんをもらってくよ」
「え、獣医、お前――」
「じゃあなあ、東馬あっ!」
私がなにか訴える前に、獣医は私の手を引いて玄関へと走り出す。
意外に力強いそれに引きずられるまま、私は唇から血を流してこちらを見つめる田中を残し、大野に続いて独身寮から出て行った。唐突なその行動に、流れていた涙も止まる。
そんな私を見て、獣医はいたずらっぽく片目をつむって見せた。
「さ、楽しい駆け落ち、俺と行こうぜっ」
「はあ!?」
そうして私と獣医と田中の長い夜は始まった。