カレーの半分は気合いでできています 前編
あの後、草原から呆然としたままアルカディア号に連れて帰られた私は、そのまま一週間悩み続けた。
田中の言ったこと、過去の記憶、子馬のこと。悩んで、悩んで、悩んで――。
そして今日、ついに私の堪忍袋は大爆発した。
切れるどころじゃない。大爆発!
出会った初っぱなから「好きです、好きです、大好きです」と、まるで呪いのようにささやき続けた人物が、突然手のひらを返したように「僕にはあなたを幸せにできない」とか言い始めた。どうしてくれよう。
この、告白したわけでもないのに振られた感について、誰が責任を取るというんだ?
だんっ、と振り下ろした包丁が派手な音を立ててまな板に突き刺さる。
その音に、先ほどから背後でおろおろとした空気をかもし出していた男二人が、びくりと身体を揺らしたのがわかった。
「あ、あの、尾野ちゃん?」
「その特定の相手への憎しみを感じる包丁さばきは何だ」
「男子厨房に入らず! 黙って座っていろ!」
気合いを込めてまな板から包丁を引き抜きじろりと後ろを睨めば、その気迫に押されたのかいつも小うるさい中年男子ふたりは、すごすごと引き下がった。
それでも、共有キッチンからすぐ側のダイニングで、そのふたり――駐在と獣医はこそこそと話し合いを始める。
「厨房に入らずって言われても、ここ俺たちの寮だし……」
「杉村、問題はそこではない。問題なのは、なぜ尾野がこの男の城で包丁を振るっているのか、というそこだろう」
「わかりにくいけど、これはデレてるの? 尾野ちゃん的にはデレなの!?」
丸聞こえなんだよ、馬鹿どもが!
イライラをぶつけるように目の前のじゃがいもを突き刺せば、ふたりは再び沈黙した。くそっ、なんでじゃがいもってのは、一個が一欠片にしかならないんだ!
もういい。面倒だしもったいないから、皮はつけたまま適当に切ってぶちこもう。
自分的にそう納得し、私はじゃがいもの泥をたわしで擦り始めた。若干、実までざりざりとむけてる気がするが、それはそれでいい。
どうせカレーになれば、皮なんか小さい問題だ。
じゃがいも、にんじん、グリンピースに玉葱。肉を入れないのは、特定の馬への配慮ではない。決してない。
その特定の馬――田中は今、この場にはいない。
生意気にも隣町への応援として出張中。秋のこの時期、ここみたいな田舎は米だなんだと、配達の仕事が増えるのだという。
「そっ、それにしても、東馬おそいなーっ」
「馬鹿か杉村。直球勝負すぎるぞ!」
わざとらしく聞こえてきた獣医の声に私は不覚にも動揺し、手にしていたにんじんを取り落とす。
そのまま静かに床からにんじんを拾い上げると、私はにっこり笑ってふたりに近付いた。そして獣医の前にそれを置く。
「食べろ」
「え」
皮もまだむいていない状態のにんじんと私の笑顔を、獣医の視線が行ったり来たりする。暑くもないこの季節、額から流れ落ちているのは多分、心の涙だ。
その隣で駐在はひっそりと両手を合わせている。
「にんじんは身体にいい。すごくいい。そうだろう?」
「は?」
「そうだよ、緑黄色野菜だよ。しかも、これは昭夫じいのところで奥様が丹誠込めて作ったにんじんだ。喜べ。喜んで、とにかく食べろ。そして食べている間は黙っていろ。わかったかな?」
「……はい」
いつも朗らかなその顔を苦しげに歪ませ、獣医はにんじんを手に取ると、そのまま思い切りかぶりついた。よし、いい子だ。おいしいだろう、生にんじん。
私は満足して頷くと、こちらの様子を窺っている駐在にも警告の睨みをきかせ、再び台所へと戻る。しばらくはふたりとも大人しくしているだろう。よし、カレーに集中だ。
そもそもこれは田中への復讐である。
あの草原で別れたっきり、田中はとにかく徹底的に私を避けた。この地区でも集荷配送が忙しくなったという理由で私の家あたりの担当を外れ、道で偶然に会えば競走馬もかくやという速さで逃げ、ちょっと前にぎぐしゃくした以上の避けられっぷり。
あまりの変わり様に、地区内では「尾野がついにあの身体に我慢できず、襲いかかったらしい」などという不名誉な噂まで、まことしやかに流れる始末。
流していたのは昭夫じいだったので、とりあえず奥様に例の雑誌についてちくっといてやったが。
まあいい。別に避けられたって、今さら嫌われていたっていい。特に支障はない。むしろ肩を叩いて喜んでやりたいくらいだ。
だけど、あれだけ人目も憚らず迫りまくったんだ。けじめってものをつけてもらわないと。
というわけで、私は独身寮にカレーを作りに来た。
それは、河合さんちのミミちゃんが、「だんじょがはなしあうときは、ごはんをたべたあとがいちばんいいのよ。おなかいっぱいになっているときは、すなおになれるの」と助言をくれたからである。ミミちゃん、何者。
選択がカレーだったのは、私が作れるのがホットケーキとカレーのみだから。文句は言わせない。
あらかた材料を切り終わり、たまねぎを適当に炒めてさっさと水にじゃがいもににんじんに、とぶちこんでいく。
作れるからといって、得意だとは言ってないからな、私は。
その制作過程を黙って見つめている駐在と獣医が、心なしかかたかた小刻みに震えながら、顔色を青くしているのは気のせいだろう。
田中は今夜、出張から帰ってくるらしい。
ここで待ち受けていれば、まず逃がさない。逃亡を図りそうな勝手口には罠もしかけておいた。これは猟友会、田端さんから習った特製の奴。
「ふふふふふ」
思わず笑みがこぼれる。
さあ田中、早く帰ってくるんだ!
ぐりぐりと魔女鍋のように寸胴をかき回す私の背後で、ひいっと声があがった気がしたが、上機嫌な私はそれもスルーすることにした。
***
「あのう、尾野ちゃん。質問があるんだけど……」
「なんだ? ソースとかかけたいっていうのは、却下だからな」
「いや、そうじゃなくて、その……これ、なに?」
奇跡的に食器棚にあったカレー皿にご飯をよそり、出来たてのカレーをかけて配膳したところで、恐る恐る獣医がそれを指さした。
ごくり、と隣で駐在が生唾を飲む。何を言っているんだ、この男は。
「カレーに決まっているだろうが」
とうとう頭までおかしくなったのか、とため息混じりにそう教えてやれば、獣医は半泣きになりながら、声を上げた。
「嘘だっ! 俺の知ってるカレーと違うっ! じゃがいもは!?」
「溶けた。それくらいしっかり煮込んだんだから、問題ない。……多分」
「多分って! 多分って言ったぞ、大野っ!」
「まあ、落ち着け杉村」
ひとりで興奮して立ち上がる獣医の肩を、どうどうといなしながら大野が優しく叩く。相変わらず仲良しだな、お前達。
うう、となぜか泣き出した獣医をとりあえず横に置いて、大野は意を決したように私へと向き合う。なにその、魔王に対する勇者みたいな表情。
「尾野。これはカレーではないと思うぞ」
「何を言ってるんだ、お前まで。私はカレーを作ったんだから、カレーだ」
「いや、これはなんだその――限りなくカレーに近い何かだ」
これだから国語の成績がいいやつは嫌いだ。
私は黙って、ふたりにスプーンを差し出す。とにかく、食え。
カレーの半分はカレールーで構成されているはずだから、どんな風に調理しようと最後にルーさえぶち込めば、それはカレーだ。間違いない。
「召し上がれ」
特上の微笑みでそう宣告すると、ふたりは本気で涙目になり、スプーンを握りしめた手をぶるぶると震わせた。ちょうど、そこに。
「ただいま戻りましたあ! あれっ、なんかとても焦げ臭いんですけどお」
のんびりとした美声が響き渡り、何かを拭う音がしてから、あの独特の足音が近付いてくる。田中の、蹄の音。私が聞き間違うはずもなく。
すでに青から白へと変わった二人の顔色に、私はただ笑みを深くするのであった。
おかえり、ケンタウロス田中東馬!