草原とあの日の記憶
ゆっくりと、その場所に近付いていくたびに過去の記憶がほどけていく。
七歳の私が横を歩く。子馬は足を引きずりながら、それでも嬉しそうに私についてくる。
あの時ももう、冷たい風が吹き始めていた。じいちゃんに「長いこと外にいさせちゃいかんぞ」って言われていたのに。
自分を置いて駆け出した私を、あの子馬はどんな気持ちで見送っただろう。どんな気持ちで、私を待ち続けたんだろう。考えれば考えるほど、私は無意識に奥歯を噛み締める。
あの時から、私は好意を寄せられることに臆病になったのかもしれない。共感してくれた部長のことも、そうだったのかもしれない。
無責任に命を放り出した私は、本当に好意を向けられてもいい人間なのか。人から見ればばかなトラウマなんだって、わかっているけれど、まだ抜け出せない。
だから田中が無邪気に寄せてくる好意が、私はとても恐ろしい。あの無防備な瞳が子馬を思い出させる。絶対的な信頼。すり寄る温もり。全部。
そうして伸び放題になっている草をかき分け、ようやく私は思い出の野原へとたどり着いた。
記憶の中とほとんど変わらない光景に、ほんの少しの間立ち止まる。わずかに胸に走る痛み。それを無視して私は、子馬を繋いだあの木へと視線を巡らせた。
するとそこにひとつの影。
「……田中?」
それはまるで完成された、絵のような光景だった。
いつも表情豊かなその瞳は閉じられて、赤みがかった長い睫毛が風に揺れる。赤髪の長めな前髪が俯いた顔へとかかり、彫りの深い美しい顔立ちに影を加えている。
いつからここで、こうしているんだろうか。もともと白い肌には血の気がまったく見られない。眼鏡をかけていない分とても大人びて見えるその姿に、どうしてか不安が過ぎった。
座り込んで目を閉じたまま、身体を幹に預けて眠っているようなその姿。それが、なんだかあの時震えていた子馬と重なって、私は思わず田中の肩を思い切り揺さぶった。
「田中! 起きろ!」
空色のシャツに包まれた肩はほのかに温かく、私はその温もりに少しほっと息を吐く。
その吐息にぴくりと睫毛が揺れ、そこからゆっくりと薄氷色が覗いた。眠りが深かったのだろうか、ぼんやりと視線が辺りを漂う。
薄く開いた唇が何かをかすかに呟くが、それは吹いてきた秋風に遮られ、私にまで届かない。
次第に覚醒していく意識が目の前の私を捉え、夢の残滓をまだ引きずるようにして、田中はその美しい顔にへにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「あ、二十九日さん。おはようございます……」
よおし、殴る。
おもむろに拳を固め一直線に赤い頭へと振り下ろすと、鈍い音ともに田中が沈んだ。声にならない声を上げ両手で頭を抑えながら、今ので完全覚醒したのだろう田中は涙目に形ながらこちらを見上げる。おい、上目遣いはやめろ。
「寝起きに二十九日さんの顔が見られるのは嬉しいんですけど、これはちょっといきなりすぎて痛いっていうか……」
「この馬鹿っ! 馬鹿馬鹿馬鹿っ! 何度でも言ってやる、大馬鹿馬っ!」
心配したとか、気になったとか。眠っている田中を見て、一瞬でも死んでしまったんじゃないかとか、馬鹿なことを考えた自分が一番腹立たしい。
こいつを心配したんじゃない、過去に重ねて勝手に悲しくなっただけだ。そう思いながら、ゆらゆらと揺れる景色にぐっと言葉を飲み込む。
すると、いきなり怒鳴られて瞳を丸くしていた田中は、なぜだか泣きそうな顔で私に手を伸ばした。するっと頬に少し節ばった指がかかる。
「僕の、せい?」
違うって言いたかったのに、声が出なかった。なんか馬鹿みたいなことになってるという自覚は、ある。気持ちが急激に動きすぎて、自分の感情なのについていけない。
ふっと温もりが近くなる。祈るように目を閉じて、田中は私の額に自分の額を寄せた。
かすかに触れあう鼻先がこそばゆい。吐息が唇をかするようにして、私は思わず首をすくめた。お願いだから、そんな風に触れないで。
泣き出す一歩手前まで追いつめられた私を瞳を、ゆるりと開いた田中の薄い青色がのぞきこんだ。透けて真ん中の濃い色が見えるくらい、近く。
「二十九日さんは、僕のことで泣いたりしたらだめなんです。あなたは、誰よりも幸せでなくちゃ……」
何かをこらえるように掠れる声が、子守歌のように私にささやきかけた。厚い唇が額に触れる。私の肩に置かれている大きめの手のひらが、少し震えているのにその時気がついた。
強く掴もうとして、離れる。
「こんなところに、来ちゃいけないんです」
妙にきっぱりと放たれたその言葉に、離れた体温に少しの寂しさを感じていた私は思わず眉をひそめる。こんなところ、なんて、何も知らないくせに。
私はきつく田中の瞳を睨みつける。いつもならうろたえる田中は、今はただ黙って静かにその私の攻撃的な視線を受け止めた。
「ここは、私の大事な場所なの」
「早く忘れるべきです。そんな、悲しそうな顔しかできないのなら」
必死につむいだ言葉は、ひどくあっさりと切り捨てられる。そのあまりの冷淡さに、私は一瞬言葉を詰まらせ、それから激昂した。
「忘れちゃいけないことだってある!」
「忘れられないことと、忘れないことは違いますよ、二十九日さん。あなたは誰よりも幸せになって、辛いことなんかひとつもないように、笑っていなければならない人なんです」
「勝手なこと言わないで! 私にとって何が幸せかなんて、知らないくせに!」
田中のあまりに勝手な主張に、なんだか泣きそうになりながら切り返した私のその言葉が、彼の心に傷を付けたのが、わかった。わかって、しまった。
歪む、ガラス瓶の底のような瞳。割れないのが、不思議なくらい。
あっ、と思った時にはもう、その腕の中に取り込まれていた。熱くて、逞しくて、とてもじゃないけれど逆らうことの出来ない、その腕に。
「忘れてください! 忘れてしまえばいい! あなたに傷を残すことしかできなかった子馬なんて、そんな存在、彼方に葬って……!」
「たなっ……!」
息苦しさに距離をとろうとした私を、田中はますます強く抱き込んだ。息も出来ないくらい、強く、強く。
それは何かを主張するようなものじゃなくて、溺れた人が必死に何かに縋り付くような、そんな切迫感を持っていた。
抱き込まれた胸の硬さと、上がり続ける体温と、耳元に感じる激しい吐息に頭がくらくらする。いっそのこと、このまま深くまで傷つけてほしいとすら思う。
奥底に眠るものを全部暴いて、しつこく痛む傷の上から新しい傷を付けてほしい。だけれど、田中は――。
どっとアルカディア号が田中の背中を突き、はっとしたように彼は私からその身を離した。
呆然としたままへたり込む私に手を伸ばそうとして、止める。その手は真っ白くなるほど握りしめられ、力無く降ろされた。
うつむいた顔に長めの前髪がかかり、その表情は見えない。ただ、彼が何かにひどく傷ついていることだけは、わかった。
「すみません、二十九日さん」
ぽつりと言葉が草原の上に落ちる。弱々しい声音。
私はまだ下がらない熱に浮かされたまま、それを聞く。
「僕にはあなたがどうしたら幸せに笑ってくれるのか、わからない。僕にはあなたを幸せにすることができない。わかって、いたはずなのに……」
自分の内に沈み込むように続けられたその言葉。それに私が何か反応する前に、田中はこちらに背中を向けた。拒絶するような、その姿。
さっきまであの腕の中にいたというのに、まるで急激に遠くなってしまったような冷たさが、身体を走った。
「失礼します」
こちらを見もしないでそう言うと、田中は草原から駆け下りて姿を消してしまった。
残された私の肩を、気遣うようにアルカディア号が優しく食む。その温もりに、混乱したままの私は少しだけ息を吐いた。
彼は忘れろと言った。
私の心の底に巣くう、あの日の記憶を全て忘れてしまえと。
なぜ?
「なぜ、あの子馬のこと、あいつが知っている……?」
冷たく吹き付ける風が、その言葉をさらって、消した。