二十三歳児(オス)のプチ家出と過去
「きっ、今日も本当にいいお天気ですよねっ」
「そ、そうだなっ、まるでもう春の陽気だなっ」
郵便受けを挟み、今日も今日とて田中と向かい合った私は、頬を染めてぎこちなく微笑む奴の言葉にごく自然に受け答える。うん、自然自然。
何だかほてる顔にこのどんよりとした曇り空も、吹いてくる多少秋っぽくも思える風も心地よい。まあ、秋だけど。
「えっと、その、これ、簡易書留になりますっ」
「はっハンコ! ちょっと待て、ハンコ取ってくる!」
「あっ、二十九日さんっ」
これ以上ないくらいに自然に体の向きを変えた私が走り出そうとすると、その腕を田中の大きな手のひらがぎゅっと掴んで止めた。
私の手首なんか余裕で一周してしまう男の手の感触に、私が思わず固まってぎぎぎと振り返ると、掴んでいる田中のほうが真っ赤になった。そして慌ててその手を離してから、あちこちをさまよった瞳が困ったように緩む。
「その……ハンコは、手に……」
「え」
指摘されて自分の右手を見れば、しっかりといつものハンコが握りしめられていた。こ、これはその、あれだ!
何やらさっきから熱い頬を無視して、半ば八つ当たり的に田中を睨み付ける。
「あっ、新しいシャチハタがあるっ! きょっ今日はそっちにするから!」
「は、はい……」
私のその勢いに気圧されたように田中が頷くのを確認すると、私は再びダッシュで家の中へと戻った。玄関の扉を閉めてひとまず深呼吸。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!
百メートルダッシュした後のウサイン・ボルトだって、こんなに心臓どきばくいわせていないと思う。多分――いや、絶対。
熱を出したあの日、例のあの恥ずかしい夢を見た後から自分がおかしい。田中を見ると落ち着かないし、だからといって田中を見かけないとやっぱり落ち着かない。
いたらいたで殴りたくなるし、でもちょっとでも身体に触れると、どうしていいかわからなくなる。
田中は田中で何だかいつもモジモジとじれったいし、昔のように特攻してくることもない。
何が何だか、とにかくおかしい。全部が。
ため息をついて居間に上がると、私は宣言通り小箱から新しくしたシャチハタを取りだした。こんな風に、接したいわけじゃないのに。
あの柔らかな笑みを向けられる度、落ち着いた声が自分の名を呼ぶ度、その薄い氷色の瞳が不意に優しく細められる度に、私の胸がぎゅうっと締まって苦しい。
苦しくて、苦しくて、助けて欲しいと手を伸ばしたくなる。
「そんなのじゃ、ないのに……」
熱に浮かされたような頭を強く振って、私は意を決して玄関を開ける。私のその姿を見て、どこかほっとしたように微笑む田中から目を逸らして、いつものように。
いつものままで、まだ――。
***
それから二日、田中はまったく私の前に現れなかった。
風邪でも遷ったのかとかなんて全然気にしてないし、二日くらい別になんとも思ってないんだけど。
『尾野、すまないがこのあたりで野良ケンタウロスを見かけたら、捕獲して欲しい』
朝から我が家にやってきた駐在曰く、昨晩田中をいじって遊んでいたら、泣いて寮を出ていったっきりらしい。いわゆるプチ家出だな、と頷く駐在の頭をとりあえず叩く。おまえらはいい歳して何をやっているんだ、何を!
しかし家出するにあたって、きちんと有給申請をしていくあたりが小憎たらしい。どう見ても計画的犯行だろう。
そもそも、あれは中身はともかく二十三にもなる大人なんだから、二日三日帰らなくてもどうこうってこともないだろう。多分、草を食って生きていけるはずだ。
とにかくよろしく頼む、と勝手なことをぬかして帰っていった駐在の背を見送りため息をつく。
その私の肩を、今まで乾草を口にしていたアルカディア号がこつりと小突いた。何だろうとその首筋を叩いてやると、彼女はその黒い瞳でじいっと私を見つめる。静かだけれど何かを促すようなそんな瞳に、私は彼女の言わんとすることを感じて苦笑した。
「わかってるよ。……散歩がてらならまあ、いいか」
私のその言葉に同意するように、アルカディア号は一声嘶いた。
その彼女の口にハミを銜えさせ手綱と繋いで軽く引けば、アルカディア号は嬉しそうに軽快なステップで外へと歩き出す。
そう言えば、ここのところ台風や雨やら私の風邪やらで、しばらく一緒にお散歩してなかったなあと私も嬉しくなる。
とりあえず、いつもの散歩コースである地区内ぐるり一周の旅をして、例の野良ケンタウロスが見つかればよし。見つからなければスルーの方向で。
「まったく、手間ばかりかけさせて……」
無意識に口をついて出たその言葉は、自分で驚くくらいどこか甘く響いたのだった。
ところが。
「あの馬鹿、どこほっつき歩いてんだ!」
道草を食いつつかれこれ二時間。思わず地区内を二周もしてしまったというのに、あの赤い頭の馬はどこにも見えない。
この狭い地区の中でよくも見事に雲隠れできたものだと、一時間前までは余裕でそんなことを思っていたが、もう限界。頭に来た。見つけたらあの尾っぽ、縦ロールにしてやる。
前に案内された夕陽の見える場所に行っても空振り。さり気なく奴の担当している家々を回ってみても、姿は見えず。
河合さんちのミミちゃんに至っては、「あらあら、ひづめちゃん、とーまににげられてしまったの?」とまで言われる始末。
小首を傾げてそう眉を寄せる目の前の四歳児に、一瞬なんて返事をしたもんかと私は頭を抱えた。なにこのプチマダム。
見た目が市松人形そのものであるミミちゃんは、仕方がないとばかりにふうっと息を吐いた。酸いも甘いもかみ分けた、どこぞのクラブのママさんのようである。
「とーまはきょう、みみのおうちにはきてないわよ。あのこ、みためよりもせんさいなの、やさしくしてあげてちょうだいねっ」
「ぜ、善処します……」
そう言って逃げ出してきたのは三十分前。なんか、微妙に大怪我して回っている気がしないでもない。
何で私がこんなになってまで田中を捜さなければならないのか、本気で人生に片足つっこみつつ考え始めたその時、ぐいっとアルカディア号が手綱を引いた。その動きに釣られるようにして彼女を見れば、一生懸命に山のほうを首で示している。
「そっちに田中がいるの?」
問えば思い切り首を縦に振ってみせる。馬テレパシー?
自信満々に輝くその瞳にとりあえず頷き、方向を山のほうへと変える。そして一瞬ぎくりと身体を強張らせ、足を止めた。
この先にあるのは、あの草原だ。
そのことに気付いて躊躇する私の背を、アルカディア号はぐいぐいと鼻先で押してくる。速く行ってあげてと言わんばかりのその行動に、私はなんとか再び足を動かした。
そこにあるのは私の喪失の思い出。罪の記憶。
七歳の晩夏、あの子馬を置き去りにした、場所。
それでも、と私は頭を振って思い直す。それでも、いつまでも浸っているべきじゃないんだ。悲しい過去と向き合って、歩き始めた人を私は知っているから。
それにあの馬鹿がそこにいるのなら、私が行ってそのケツを蹴り飛ばしてやらなければならない。何度でもへこたれずに過剰な好意を向ける田中の顔を思い出し、何だか軽くなった心で私は一歩一歩を踏みしめる。
そうして急にやる気を出した私を見て、アルカディア号は嬉しそうに鼻を擦りつけるのだった。