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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
12/34

幕間 バス停とケンタウロスと俺



 大概ぼろぼろになった屋根と、申し訳程度に置かれた木のベンチ。人気のないバス停で、俺はのんびりと煙草を吹かせていた。次のバスまで四十分とは恐れ入る。

 大荷物を手にひとり、こんな所でのんびりしている自分がなんだか可笑しくなって、思わず笑みを零した。


「一緒に行こうって言わなかったんですね、榊さん」


 不意に耳触りのよい声が背後から聞こえ、俺はその予想通りの言葉と人物を振り返る。

 真っ赤な髪と対照的な薄氷色の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。射抜かれるようなその瞳に、なんの感情も今は見えない。俺はふうっと紫煙を吐き出した。


「言わなかったよ」

「どうしてです? チケット、用意してきたんでしょう?」


 かつ、と小気味のいい蹄の音を響かせて、その人物――田中東馬は俺の目の前に立つ。後ろに太陽を背負っているせいで、その彫像の如き美貌には影が差していた。それがより、こいつを作り物めいて見せる。

 彼女の前で見せていた、表情豊かでどこか憎めなさそうな青年の仮面はない。

 そんなことは欠片も匂わせなかったはずなのに、と俺は上着にしまいっぱなしだった二枚の航空券を思う。察しのいい奴ってのは昔から苦手だ。


「なんで、そんなこと訊くんだ? ええと、田中君。俺が尾野を連れてっちゃって、君はいいわけ?」

「それが彼女の幸せなら。僕は喜んでお見送りしますよ」

「ふうん」


 抑揚のない、まるで書かれたセリフをただ読んだだけのようなその言葉に、俺は一応相づちを打つ。そして煙草を手にしたほうの親指で、少しだけ寄ってしまった眉間をほぐした。

 こりゃあ、またやっかいなもんに好かれたものだ、あいつも。なんて、人ごとのように考えてから、その『やっかいな奴』には自分も当てはまるなあ、と苦笑い。


「田中君はさ、俺のこと嫌いじゃなかったっけ? 少なくとも、応援はしてなかったよな、さっきまでは」


 厩舎の前で初めて会った時から、敵意っていうよりも殺意、みたいな空気をばりばり出されていた気がするんだけどね。

 上目遣いに田中を見れば、そこで初めてその整いすぎて人形じみた容貌が表情を浮かべる。どこぞの宗教画の中にもないだろうと思えるほど、清廉な微笑み。

 しかし、これはうっかりときめくぞ、と考えた俺に降り注いだのは、その笑顔とはまったく真逆の言葉たちだった。


「嫌いって言うか、ものすごく嫌悪していますね。うん、というか憎悪? まあ、言葉なんてどれでもいいんで、むしろその手の言葉のすべてをお贈りしたいくらいです。今現在も、一秒ごとに頭の中であなたのこと切り刻んでますけど」

「うわあ」


 激しい感情の起伏も見せずに、そう淡々と悪意を並べられるのもけっこう恐ろしい。俺は訊いたことを本気で後悔しつつ、短くなった煙草を携帯灰皿へと放り込んだ。


「当然でしょう。あなたのことになると、二十九日さんが泣くんですよ。二十九日さんを泣かせるなんて、万死に値します」

「じゃあさ、なんで俺に尾野を託そうって思うんだ?」

「あなただから、ですよ……」


 さっきまで天使のようだった顔が、うつむき歪む。銀貨三十枚を受け取った奴だって、こんなに苦しみはしなかっただろうと思えるほどの、苦渋。


「あなたは二十九日さんの悲しみを理解できる。僕には、それができない」


 まるでささやくようにそう言った田中は、頼りなげな吐息をこぼして顔を上げた。そこにはもう、暗い色は一切見つけられない。また元通りの美しい顔。

 歪みきったその恋情に、何だかこっちのほうが泣きたくなって、俺は慌てて新しい煙草に火を点けた。

 深く深く吸い込んだ煙を吐いてため息を殺し、なんてこいつは馬鹿なんだろう、と思う。


「それでも、尾野は選んじまってるからなぁ。もしも俺が一緒に来てくれって言っても、来なかったと思うぞ」

「選、ぶ?」

「おまえのことは知らないけど、少なくともお前がいるここでの生活を、あいつはもう自分の一部みたいに思ってるんじゃないのか? ……いつまでも、“子馬”を亡くして泣いてるだけの子供じゃないだろう、尾野も。そう思わないか?」


 俺の言葉にはっと目を見開いて、それから田中は警戒するかのように一歩だけ後ろへと下がった。

 にやりと笑う俺の目を、探るように見つめ返して低く呟く。


「あなた、どうして……」

「これでも二時間サスペンスって好きなんだよ」


 さらに何か言い募ろうとした田中は、道の向こうからようやく姿を現した路線バスを見て、思い直したように口を閉じる。

 俺は煙草を消して立ち上がり、バスに向かって軽く手を挙げた。特に標識があるわけじゃないが、この辺の人たちはみんなここからバスに乗るんだろう。運転手も慣れた感じで手を挙げ、そうしてゆっくりと俺たち二人の前に停車した。

 大きな音を立てて開いた扉から、まずは大荷物なのを謝りつつ、俺はステップに足をかける。そして少しだけ、振り向いて。


「あいつを幸せにしてやろう、なんて馬鹿なこと考えてると、そのうち嫌っていうほど殴られると思うぞ。これは、失敗した俺からのアドバイス」

「――どうも、ご親切に!」

「会う機会ももうないだろうけど、俺は田中君のこと忘れないと思う。なんせ、初キッス奪っちゃったからなぁ」


 最後の最後に思わせぶりな視線をやれば、田中がその白い頬を赤く染めるよりも前に、運転手さんが咳き込んでしまった。俺と美貌のケンタウロスをちらりちらりと、興味の隠せていない目で見比べる。

 しまったなあ、これからかなりの時間、バスに乗るのは俺なんだけど。

 怒りのあまり口をぱくぱくさせている田中を置いて、俺が完全にバスに乗り込むと、動揺しつつも運転手さんは扉を閉める。行き先を告げるアナウンスに、田中はさっきまで俺が座っていたベンチのほうへと退いた。

 どうやらお見送りはしてもらえるらしい。

 後ろの席に荷物を置いて、たったひとりの乗客である俺は窓に寄って田中に手を振ってみた。お返しに思い切り中指を立てられるが、気にしない。バスが加速して、その姿も小さくなる。

 そうして彼方に過ぎ去っていくケンタウロスの影に、完璧に恋を終えたはずの俺は、なぜだか深い満足を感じていた。

 本当に馬鹿だなあ、あいつら二人とも。

 確かに田中が尾野の悲しみを癒すことはできないかもしれない。それは、『彼』だから仕方がない。

 だけど、俺はあんなに素直に感情をぶつける尾野を見たことがなかった。腹を立ててみたり、姿が見えないとそわそわして探してみたり。そんなの、もう恋じゃねえか。

 必要なのは共感じゃなく、彼女が泣ける場所なんだ。

 俺には最後まで隠した涙を見せられる存在が傍にいれば、もうそれでいい。

 どうか、あの二人がお互いにとってそうであるように――俺はそう願いながら、ひとり別れを思った。



11/5、本文中の「耳障り」を「耳触り」に修正致しました。これにつきましては、活動報告にて詳細を載せております。

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