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ケンタウロスと私  作者: 吉田
本編
10/34

乳と尻と波乱の予感



 なんで、と声に出して部長へと駆け寄ろうとした、その瞬間。

 強い力で腕を掴まれ、後ろへと引き寄せられる。よろめいた私の頬にあたる、紺色の制服に包まれた固い胸板。逞しい腕がすかさず私の腹にまわり、さらに密着度が高まる。

 それは先ほどまでいた、田中の腕の中。

 部長の前で抱き締められている、と自覚した途端に急激に上昇する体温に、顔が赤くなるのを感じる。

 そんな私を見つめていた田中は、にっこりとどこかわざとらしい笑みを浮かべ、そしていきなり朗々とした美声を辺りに響かせた。


「不審者発見! 確保お願いしますっ!」


 何を言っているんだこの馬は、と突っ込む間もなく、がたがたっと何やら大きな音がしたかと思うと目の前にはふたつの影。――訂正、ふたりの馬鹿。


「御用だっ!御用だっ!」

「神妙に縄につけ」


 飛び出してきたふたりの男が、あまりの展開に固まる部長に体当たり。短い悲鳴を上げつつ地面に転がった彼の上に馬乗りになった。おまえら今、どこからわいて出た!?

 突然のことに突っ込みすら追いつかない。

 というか、この馬鹿二人――駐在大野と獣医杉村――に私のツッコミが追いついたことなどあっただろうか。

 田中に抱き締められたまま唖然としている私には構わず、大野と杉村は自分たちの体の下に潰している部長を引き起こす。


「まさか警官が張り込んでいるとは思わなかっただろう、不審者その一」

「ふ、不審者?」

「今さらしらばっくれても無駄だって! あんた、最近この辺りをうろうろしてただろうがっ」


 杉村のその言葉に、大野との昨日のやり取りを思い出した。そうだ、それで私、あんな夢を見たんだっけ。

 起き抜けの急展開に思考がうまく働かず、どこかのんびりとそんなことを回想しているうちに、部長を拘束中のふたりはひどく真剣な顔をして彼に詰め寄っていた。


「で、目当てはどっちだ?」

「は?」

「正直に言っちまえよ、不審者。あれか、乳か。乳が目的だったんだろ!?」

「待て、杉村。駐在は俺だ。当然、尻だろう。尻にひかれてついやってしまったんだろう? 気持ちはわからないでもないが、残念だったな。お前が狙っていた尾野には、そのどちらも存在しない! 諦めろ!」

「やかましい!!」


 さっき田中が拾ってきたバケツを二人に向かって投げつける。それは大野の後頭部に命中したあと、反射角によって杉村の横っ面をも直撃する。

 いい音させやがって。頭に中身入ってるんだろうな、お前達は!

 ついでにいつまでも引っ付いている田中の横っ腹に肘を入れ、悶え苦しむ奴を一瞥すると、そのまま同じように頭を抑えてしゃがみ込んでいる馬鹿二人に近付いた。


「誰の乳と尻が残念だって?」

「事実は事実として受け止め、前を向くことが大事だと思うぞ、尾野」

「えっ、乳談義? 乳談義? 俺、パワーポイント使って説明していい?」


 切れ長の瞳をうるませ、励ますように肩に置かれた手が憎い。そしてダメージから素早く回復して、何かを期待するようなきらきらとした目が憎い。ついでに無駄に美形な田中も憎い。

 私は立ち上がってきた馬鹿二人の尻に蹴りを入れる。「最近、尾野ちゃんのツッコミ最速……」などと減らず口をたたく杉村にもう一発入れて、大きく深呼吸。それから、ぽかんとしてこちらを見ている部長に向き直った。


「騒がしくてすみません。……お久しぶりです、榊部長」

「尾野……」


 感慨深げに目を細めてこちらを見つめる部長に、私もかすかに微笑を返す。とりあえず事情は中で、と言おうとした私を部長の腕が引きとめた。どきり、とする胸の内を隠して、私よりずいぶん高いところにある顔を見上げる。

 ゆっくりと、見慣れた唇が開いて。


「尾野は……乳も尻も残念じゃないよなあ。主張が少ないってだけで」


 ニッセンで探せば、読める空気とか買えるんだろうか!

 のんびりとした笑顔でとんでもない爆弾を投下した部長に、そこはかとない殺意を覚えた私は決して薄情ではないと思う。

 言葉を失った私の頭を大きな手が少し乱暴に撫で、その懐かしさにふいに涙ぐみそうになる。こういうところが、ずるい。

 私から何か言い出そうとする時、この人はいつだってこうして言葉をかき消してしまう。

 何度も口にしようとした終わりの言葉も、目の前にあるこの人の唇が飲み込んでしまったのだ。だから、私は――。

 撫でられたまま、泣くまいと必死にまばたきを繰り返していると、ふっと頭の上の重みが消え去った。

 部長と私の間に差し込んだ影に上を見上げれば、そこにはさっきまで痛みに悶えていたはずの田中の姿。私の頭にあった部長の手を、男にしては繊細に見える田中の手ががっしりと掴まえている。

 いつもの柔和な美しい、しかしどこか胡散臭い笑顔で田中が口を開く。


「こんにちは、初めまして。僕、二十九日さんのケンタウロス、田中東馬と申します」


 深く耳に柔らかいその声に、何か不穏なものを感じるのは私だけではなかったらしく、尻を押さえたままでなりゆきを伺っていた馬鹿二人が、びくりと肩を揺らした。何かとてつもなく恐ろしいものを前にしているように、額にぶわりと汗が浮かぶのが見える。

 掴まえた部長の手を、むりやり握手の形に変えた田中は、ぶんぶんとそれを振り回した。


「嬉しいなあっ。二十九日さんの『元カレ』に、こんなところでお会いできるなんてっ」


 なぜか『元カレ』の部分を強調して笑う田中に、驚いてされるがままだった部長の顔が意地の悪い表情へと変わる。図体がクマだけに、そういう顔をすると迫力倍増だ。

 並び立つ田中も決して細いほうではないが、こうして見ると部長のほうが一回り大きい。

 なんていうか、ものすごく面倒くさいことになりつつあったりするのか。まさか。


「こちらこそ、よろしく。いやあ、それにしても尾野、本当に馬が好きなんだな。ケンタウロスが飼いたくて在宅勤務になったわけじゃないだろうな?」

「え、あの」

「ふふっ。冗談がお上手な方ですね! 僕と二十九日さんとは運命で結ばれた恋人同士なんですよお! 二十九日さんてば、僕にはいつも激しくて……もう壊れそうなくらいです……」

「おい、待て」

「ああ、馬の調教って意外と難しいらしいな。それで、どこのレースに出る予定だ?」

「ちょ、聞いて――」

「本当にもう面白すぎて後ろ足がうずいてくるほどですよ。北海道のクマ牧場からここまで、さぞお疲れになったでしょう? 駐在所で少しお休みになったほうがいいですよ!」


 ねえ大野さん、と貼り付けたような笑顔で大野に視線を向ければ、奴は壊れた赤べこ人形のようにかくかくと上下に首を振る。

 お前、仮にもドエスだろうが! エスとしてのプライドを持てよ!

 助けを求めるように隣の杉村を見たが、こちらはすでに逃げ腰になっているところを、直立不動の大野に腕を掴まれ引き留められている状態だった。

 何これ。村最強の生物は田中だってことなの!?

 愛想良く笑い合いながら、自らの握力の全てで握手を続行している二人の男。その禍々しい何かにだいぶ引きつつ、私はしかたなく田中の横っ腹をつねった。


「あっ! ……二十九日さん、こんな昼間から人目もあるのに、大胆ですっ」

「変なところに性感帯持つな、この変態が!」


 部長の手をあっさりと放り出し、頬をむかつくほどバラ色に染めた田中が、すりすりと私に体をすり寄せる。どうしよう、近くに何も撲殺できる道具がない。

 しかたなく無駄に色っぽい喉仏に一発拳を入れて、むせる田中を放置しつつ、私は部長に母屋を示した。


「あの、ここでは何ですので、こちらに」

「悪いな、突然来たのに」


 部長も部長で何事もなかったかのように田中を見捨て、申し訳なさそうに頭を掻く。

 どういう事情があるにせよ、来てしまったものはしかたがない。話し合わなければならなかったのだ、いつか。

 私は軽く息を吐き、母屋へ案内するため歩き出そうとして、止まる。右足になんだか既視感のある重みと温もり。


「いやだああっ、僕も行きますっ! 絶対にふたりっきりなんて駄目ですうっ!」


 お前は地区唯一のスーパー金子で駄々をこねる五歳児か!

 舌打ちをしつつ足蹴にしようとして、こちらを見上げる田中の目と目が合う。情けなく下がった眉と、うるんだ氷色の瞳。いつもの冗談の延長みたいに思えるその仕草だけれど、どこか必死な表情が胸に迫る。

 足首を掴んでいる手はなぜかかすかに震え、視線はいつもより弱々しい。くそう。


「……きちんと泥を落としてから上がってこい」

「はいっ!」


 私の言葉にぱっと顔を輝かせ、田中は素早く立ち上がると勝手口のほうへと走り去った。

 なんであいつは、一度も説明も何もしたことがないのに、うちの足洗い場まで把握しているんだろう。一瞬そんな疑問が頭を過ぎるが、突き詰めると恐ろしいので忘れることにする。


「好かれてるなあ、尾野」

「まったく嬉しくないですけどね!」


 なぜか嬉しそうにそう言う部長に顔をしかめて見せて、少しばかりの波乱の予感とともに、私たちは今度こそ母屋に向かうのだった。馬鹿二人は放置したまま。




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