プロローグ
田中は私を優しく優しく抱きしめて、ささやく。
まるで聞き分けのない子供をあやすように。宥めるように。そして睦言のように。
「忘れていませんか、二十九日さん。僕は男じゃないですよ」
「なにっ……言って……っ」
自分よりいくらか体温の高い逞しい胸に縋り付くようにして、私はしゃくり上げる。
一度崩壊した壁はそう易々と回復してはくれないらしい。
バカみたいだ、とぼんやりとした頭の隅ではそう理性が囁くのに、温もりを覚えた身体は言うことを聞いてくれない。
そんな私を甘やかすように、田中はますます腕の中にある身体を強く抱き込んでくる。
「僕は“オス”です。そこを忘れてもらっては困ります」
「……バカっ……」
ふと緩んだ腕から少しだけ身を離し見上げれば、そこにはいつもの如く彫刻のように整った田中の笑顔。
けれど睨み付けたその先にあった青氷の瞳の中に見つけたのは、消えることのない熱。
いつでもわたしを見つめ続けてきた、彼の。
「二十九日さん……」
掠れた低い声が名を呼んで、かすかに震えた私はゆっくりと目を閉じる。
遅れて重ねられた温もりと吐息にひどく安心を感じながら、甘く痺れる頭の中で、何でこんな事になっちゃったんだっけ、という不毛な疑問が渦巻いていた。
そう、あれは春。
この片田舎にひとりの郵便局員が配属されてきたのが始まりだった。
不定期更新です。
連載の合間に思いつき更新になると思いますが、お時間がある時に楽しんで頂ければ嬉しいです。