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魏帝国崩壊の序曲:曹宇後見体制構想の挫折と権力構造の変遷  作者: えいの
第二章 帝権の黄昏と絶望の防衛線――明帝・曹叡の曹宇後見構想

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第二節 多極分散型後見体制の法解釈的真価と相互牽制の構造(後編)

 大将軍たる曹宇の神聖なる権威を戴き、首都の軍紀を握る領軍将軍の夏侯献、そして皇帝の最側近として近衛騎兵を統率する屯騎校尉の曹肇。これら二つの強力な柱に加えて、明帝が最後に組み込んだ第三の柱であり、この多極分散型後見体制の真の恐るべき巧妙さを示す存在が、驍騎将軍に任じられた秦朗である。

 秦朗の出自は、曹氏とも夏侯氏とも血の繋がりを一切持たないという点で、他の三名とは決定的に異質であった。彼は元来、後漢の群雄であった呂布の配下、秦宜禄の息子である。武帝、曹操が下邳において呂布を討伐した際、秦宜禄の妻であった杜氏の類稀なる美貌に目をつけ、彼女を自らの妾として略奪した。その際、杜氏の連れ子として共に宮中に引き取られ、養子として育てられたのが秦朗である。血の繋がらない敵将の息子でありながら、曹操はこの秦朗を非常に可愛がり、「世の中に、私ほど養子を愛する者がいるだろうか」と公言してはばからなかったという。秦朗はそのまま曹操、曹丕、曹叡の三代にわたって宮中の奥深くで育ち、一族と同様の手厚い庇護を受けて成長したのである。

 明帝がこの秦朗を最高の後見陣容に引き上げた法理的および政治的な理由は、彼が「一切の背後基盤を持たない、純粋培養された究極の忠臣」であったからに他ならない。夏侯献には夏侯氏という建国以来の強大な一族の基盤があり、曹肇には曹休以来の武闘派宗室の派閥が存在する。そして司馬懿ら他姓の重臣たちには、九品官人法によって結ばれた広範な士大夫の派閥と、戦場における数万の恩顧の兵が存在する。しかし、秦朗には、頼るべき親族の軍閥も、地方の豪族との繋がりも、自らを支持する官僚の派閥も何一つ存在しない。彼の持つ権力、地位、財産、そして命そのものに至るまで、そのすべては「魏の皇帝からの恩寵」というただ一本の極細の糸にのみ完全に依存していたのである。

 古代の権力闘争において、このような「基盤を持たない養子」や「宦官」という存在は、君主にとって最も扱いやすく、最も裏切る可能性の低い手駒として重用される歴史的法則がある。なぜなら、彼らは皇帝の権威が失墜した瞬間に、自らの存在意義も地位もすべて消滅してしまうため、誰よりも必死になって皇帝の玉座を守り抜こうとするからである。秦朗は慎重な性格であったと記録されているが、それゆえに彼は自らの既得権益と命を守るため、決して特定の野心家の反乱に荷担することはなく、常に権力の均衡を保ち、皇帝の側のみに立ち続ける絶対の安全装置として機能する。明帝は、この秦朗の完全なる依存性を逆手に取り、夏侯献や曹肇といった実力を持つ皇族たちが万が一にも野心を抱いた際の、冷徹な監視役として彼を配置したのである。秦朗という存在は、皇族同士の相互監視機構の中核に組み込まれた、皇帝直属の楔であった。

 秦朗の軍職である「驍騎将軍」は、曹肇の「屯騎校尉」と同じく、皇帝直属の精鋭騎兵部隊を統率する極めて重要な地位である。夏侯献が洛陽という「都市」を制圧する外周の軍事力を持つならば、曹肇と秦朗は皇帝の「身体」を直接取り囲む最内周の軍事力を持っていたと言える。このように、直系の叔父であり神聖なる純血の象徴である曹宇を頂点とし、武門の誇りと厳格さを持つ姻族の夏侯献、皇帝と極めて親密で機敏な傍系の曹肇、そして一切の基盤を持たず皇帝の恩寵のみに依存する養子の秦朗という、見事なまでに性質と系統の異なる四名を組み合わせたこと。これこそが、明帝が自らの命を削って構築した多極分散型の後見機構の全貌である。

 この四名は、互いにその権力の源泉を異にするがゆえに、完全な相互牽制の力学を形成する。もし夏侯献が領軍将軍の武力を背景にして朝廷で専横を振るおうとすれば、曹肇と秦朗は自らの率いる精鋭部隊で皇帝の身柄を確保し、宮廷の門を固く閉ざして夏侯献の軍勢の侵入を防ぎ、同時に大将軍である曹宇の絶対的な権威を以て夏侯献を逆賊として討伐する詔書を発することが可能であった。

 逆に、皇帝の最も近くにいる曹肇が、その親密さを利用して幼帝の言葉を偽り、自らの傍系の一族で朝廷を牛耳ろうと画策した場合はどうなるか。その際には、厳格な武門の長である夏侯献が、領軍将軍の絶大な武力をもって宮廷を外側から包囲し、曹宇の正式な軍命を盾にして曹肇の越権行為を弾劾する。さらに、一切の基盤を持たない養子の秦朗は、これら皇族同士の暗闘において常に決定権を握る存在となる。彼は自らの生存を保障してくれる「正当な皇帝権力」の側に必ず付くため、権力を私物化しようとする突出した野心家に対しては、最も冷酷な内部告発者かつ監視者として立ち塞がるのである。そして、何の実務能力も持たない曹宇が単独で独裁権力を握ることは、物理的にも能力的にも不可能である。四名の同意がなければいかなる重大な国策も軍事行動も実行に移すことはできず、一人でも反対すれば即座に合議は機能不全に陥る。この意思決定の遅滞こそが、特定の人間による迅速な国家乗っ取りを防ぐための、最大の防御壁であった。

 そして、この皇族内部の堅牢な相互牽制の構造こそが、外部に存在する巨大な敵、すなわち司馬懿を筆頭とする他姓の士大夫層に対する、最も完璧な防御陣形となることを明帝は計算し尽くしていた。

 司馬懿をはじめとする士大夫層が、魏の皇室から権力を奪い取るための最も常套的かつ効果的な手段は、皇族の内部に政治的な対立や分断を引き起こし、その一方に味方するふりをして軍事力で介入し、最終的に双方を滅ぼして自らが実権を握るという、分断統治の戦術である。しかし、明帝が構築したこの四名による後見機構は、外部からの分断工作を制度的に完全に跳ね返す力を持っていた。四名の権力基盤がそれぞれ独立し、かつ互いに刃を突きつけ合って監視しているため、士大夫層が彼らの中の一人を抱き込んで甘い汁を吸わせようとしても、即座に他の三名からの激しい弾劾を受けることになるからである。

 例えば、司馬懿が軍部内での絶大な影響力を背景に夏侯献に接近し、武官同士の結託を持ちかけたとしよう。夏侯献がいかに野心を抱こうとも、彼が司馬懿と結託して動いた瞬間に、曹肇と秦朗が幼帝を擁してこれを国家への叛逆と断定し、大将軍である曹宇が全軍に向けて討伐の詔を下す。相互牽制の構造が機能している限り、皇族の中の一人が外部の重臣と結びついて権力を独占することは不可能であり、士大夫層から見れば、この四名の皇族集団は、内部で激しく睨み合いながらも外部に対しては鉄の結束を誇る、決して手出しの許されない巨大な要塞として立ちはだかることになるのである。

 この明帝の同族内相互牽制の思想がいかに卓絶した危機管理の法制であったかは、歴史の残酷な結果、すなわちこの構想が破棄された後に現実の魏帝国で何が起きたかを検証することによって、完全な証明を与えられる。

 次章以降で詳述する通り、明帝の死の直前にこの構想は実務官僚の暗躍によって解体され、代わりに曹爽という無能な皇族が全権を握ることとなった。全権を掌握した曹爽が、自らの権力を固めるために最初に行った政策こそが、明帝の残した「特定家系への権力集中排除」の理念を根底から破壊する行為であった。曹爽は、自らの血を分けた実の兄弟である曹羲を中領軍に任命し、もう一人の弟である曹訓を武衛将軍に任命したのである。これは、首都と宮廷の武力を曹真の血統のみで完全に独占するという、最も露骨で危険な「特定家系による権力の一極集中」であった。

 明帝が意図した皇族間の相互牽制という安全装置を自らの手で取り外してしまった結果、曹爽一族の暴走を止める者は誰もいなくなり、彼らは孤立を深めていった。正始十年(二百四十九年)に司馬懿が洛陽の兵営を占拠して武力政変(高平陵の変)を起こした時、曹爽一族を救うために兵を挙げてくれる他の皇族や諸侯は、天下のどこにもただの一人も存在しなかった。もし明帝が構想した通りに、曹宇、夏侯献、曹肇、秦朗による多極分散型の合議体制が存続していれば、このような一方的で無惨な皇室の敗北は絶対に起こり得なかったのである。特定の家系に権力を集中させないことは、攻撃の標的を分散させ、国家が一度の政変で完全に乗っ取られることを防ぐための、究極の危機管理の法制であった。

 皇帝の知性と歴史への深い洞察が生み出した、同族内相互牽制による権力集中排除の構造。それは、軍事的実績と高度な官僚機構によって武装した士大夫層から、魏の皇室の命脈を守り抜くための、論理的に導き出された唯一にして最高の制度設計であった。しかし、この完璧に設計されたかに見えた巨大な政治機関には、法理や兵力では測ることのできない、たった一つの人間的な脆弱性が残されていた。それこそが、次項において論じる、大将軍たる曹宇に求められた「赤心」という非合理な精神への過度な依存である。


【引用文献・史料】

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書・諸夏侯曹伝(巻九)

 (夏侯氏と曹氏の歴史的な同格関係、夏侯献の中領軍としての役割、曹休および曹肇の傍系としての血統と皇帝との私的な親密さに関する記録)

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書・明帝紀(巻三)注引『魏氏春秋』

 (秦朗の出自、呂布配下の秦宜禄の子であること、及び武帝曹操の養子に対する異常なまでの寵愛の言葉に関する記述)

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書・明帝紀(巻三)注引『魏略』

 (秦朗の慎重な性格と、曹肇と明帝の宮廷内での遊興に関する逸話の記録)

陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書・劉放伝(巻十四)

 (夏侯献らが実務官僚である劉放・孫資を日頃から憎悪していたという記録、および彼ら皇族間の派閥的連帯を示す背景史料として)

范曄撰『後漢書』王莽伝(巻八十)

 (前漢末期における外戚の権力集中と国家簒奪の過程。明帝が権力の一極集中を避けた歴史的教訓の背景として)


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