第一節 異端の士大夫による建国と血族支配の論理
後漢末期、四百年にわたり天下の秩序を維持してきた帝国の権威は、黄巾の乱という未曾有の民衆叛乱と、それに続く董卓の暗殺、長安および洛陽の炎上という決定的な政治的破局によって完全に地に堕ちた。儒教的道徳を統治の根本理念として掲げ、郷挙里選という人物評価制度を通じて国家の行政を独占してきた正統派の士大夫層、すなわち自らを「清流」と称する名門貴族たちは、私兵を率いて跋扈する軍閥の暴力の前に成す術もなく蹂躙された。道徳や家柄といった形而上の権威が実質的な武力の前に無力化されたこの極限の乱世において、暴力と知略のみを頼りに中原の覇権を握り、のちに魏帝国という新たな国家を打ち立てることになるのが、武帝、曹操をその長とする曹氏および夏侯氏の集団である。彼らは、漢王朝を支えてきた正統派の士大夫とは全く異なる出自と価値観を持つ、極めて「異端の士大夫」であった。本節においては、この異端の集団がいかにして暴力と血の結束によって天下を制したのか、そして彼らが掲げた「実力主義」という建国理念が、魏という国家にいかなる光と影、すなわち構造的矛盾を胚胎させたのかを論証する。
魏の建国者である曹操の出自は、当時の政治的価値観からすれば極めて卑しいものと見なされていた。彼の祖父である曹騰は、後漢の宮廷において権勢を振るった中常侍、すなわち宦官であった。父の曹嵩はその曹騰の養子として曹氏を継ぎ、莫大な財力をもって太尉という最高官位を金銭で買い取った人物である。当時の知識人社会において、宦官の一族は「濁流」と呼ばれ、国家を食い物にする最も忌み嫌われる存在であった。したがって、曹操はいかに若き頃から類稀なる文才と兵法の知識を持ち合わせていようとも、正統派の名門貴族である汝南の袁氏や弘農の楊氏などからは、成り上がりの卑しい血筋として根強い軽蔑と反発を受けていたのである。
しかし、この正統派社会からの疎外感と、既存の道徳的権威への不信感こそが、曹操をして乱世を生き抜くための極めて冷徹な現実主義者へと変貌させた最大の要因であった。董卓の専横により天下が乱れた際、曹操は故郷である沛国譙県において挙兵するが、この時に彼の麾下に馳せ参じ、中核となる軍事司令部を形成したのは、彼と同じ血を分けた親族たちであった。夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、そして少し遅れて合流する曹純、曹休、曹真といった一族の若者たちである。曹氏と夏侯氏は古くから幾重にも婚姻関係を結び、事実上ひとつの巨大な血族集団を形成していた。彼らは、教養や血筋の高貴さを誇る洛陽の文官たちとは異なり、自ら弓馬を操り、最前線で泥と血に塗れながら敵陣に突撃する、極めて野性的で暴力的な武闘派の集団であった。
乱世の初期において、裏切りと寝返りが日常茶飯事となる中、曹操が心の底から背中を預けることができたのは、究極的にはこの同じ血を分けた親族の将軍たちだけであった。軍隊という巨大な暴力装置を維持し、それを統制するためには、いかなる恩賞や道徳的な大義名分よりも、「共に死し、共に生きる」という血の結束に基づく絶対的な信頼関係が必要不可欠であったのである。曹操が領土を拡大し、軍の規模が数万人、数十万人と膨れ上がっていく過程においても、国家の命運を左右する最重要の戦線や、中枢である司令軍の統帥権は、必ずこの曹氏と夏侯氏の将軍たちによって独占され続けた。夏侯惇は後方の兵站と領地統治の全権を握り、夏侯淵は西方の勇猛な異民族や軍閥を討ち払い、曹仁は絶望的な籠城戦を幾度も耐え抜いて南部戦線を死守した。彼らは単なる名ばかりの親族ではなく、実際に他を圧倒する軍事的な実力と狂気にも似た闘争心を持った歴戦の猛将であった。この「圧倒的な軍事能力を持った親族が、国家の最高武力を独占する」という形態こそが、魏の覇業の原動力であり、「血族支配」という極めて強固で原始的な統治の論理であった。
しかしながら、曹操が単なる一地方の軍閥から脱却し、漢の皇帝を擁して天下の半ばを統治する巨大国家の指導者へと成長するにつれて、この強固な血族支配の論理だけでは国家を運営しきれないという致命的な壁に直面することになる。広大な領土から税を徴収し、法律を整備し、数百万の民衆を統治し、複雑な兵站網を構築するための高度な行政能力は、戦場を駆け巡る夏侯氏や曹氏の武将たちには到底持ち合わせることのできないものであった。国家を真に機能させるためには、彼らがかつて忌み嫌い、また彼らを軽蔑していた正統派の士大夫層、すなわち高度な教養と実務能力を持つ知識人たちを、大量に自らの陣営に引き入れ、官僚として組織しなければならなかったのである。
荀彧をはじめとする名門出身の士大夫たちが曹操の幕下に加わったことで、魏の覇業は飛躍的な進遂を遂げた。しかし、曹操は彼ら正統派の士大夫層の能力を極めて高く評価し、重用しながらも、彼らが共有する「儒教的道徳」や「名門の血筋」を尊ぶという価値観の根底に対しては、決して迎合することはなかった。むしろ曹操は、天下を統一するためには、家柄や表面的な道徳に縛られた古い評価基準を完全に破壊し、己の陣営の都合に合わせて人材を登用するための全く新しい論理を創造する必要があると考えた。これこそが、中国の政治思想史において極めて特異な輝きを放つ、曹操の「実力主義」すなわち「唯才是挙(ただ才のみを是として挙ぐ)」の宣言である。
建安十五年(二百十年)の春、曹操は天下に向けて有名な「求賢令」を発布した。この布告において曹操は、かつての古代の覇者たちがいかにして身分の卑しい者や過去に罪を犯した者を登用して覇業を成し遂げたかを例に挙げ、次のように強烈な言葉で自らの理念を宣言している。
「若し必ず廉士にして而る後に用うべくんば、則ち斉の桓公は其れ何を以て世に覇たらんや。今天下に豈に褐衣に交わり釣に渭の陽に理められる者無からんや。又た豈に盗受の金、未だ遇わざるの魏無知有らんや。二三子、明かに吾が為に仄陋を挙げて、唯だ才のみ是れ挙げよ。吾れ之を用うること得ん」
すなわち、「もし必ず品行方正な清廉の士でなければ登用できないというのなら、かつての斉の桓公はどうやって天下の覇者になれたというのか。今この天下に、粗末な衣服を着て市井に埋もれている偉大な才能がいないはずがなかろう。また、兄嫁と密通したり賄賂を受け取ったりするような道徳的欠陥があっても、かつての陳平のような比類なき知略を持つ者がいないはずがなかろう。諸君らよ、私のために身分が低く貧しい者であっても、才能さえあれば直ちに推挙せよ。私は彼らを用いるであろう」という、極めて過激な実力至上主義の宣告である。曹操はその後も建安十九年、建安二十二年と立て続けに同様の布告(求才三令)を出し、「不仁不孝であっても、治国用兵の術を持つ者ならば登用せよ」とまで言い切った。
この「唯才是挙」の理念は、後漢以来の士大夫社会が奉じてきた「親孝行であり、清廉潔白である者が国家を治めるべきである」という名教(道徳規範)の世界観に対する、公然たる挑戦であり、破壊行為であった。曹操がこの理念を掲げた政治的な動機は極めて明確である。一つは、天下の有能な人材を、身分や過去の経歴に関わらず一網打尽に自らの幕下に集め、宿敵である袁紹や孫権、劉備を打倒するための絶対的な実務能力と軍略を確保すること。そしてもう一つは、国家の人事権を、正統派の士大夫たちが郷里の評判によって互いを推挙し合う「郷挙里選」のシステムから奪い取り、最高権力者である曹操自身の個人的な評価と恩賞に完全に一元化することであった。家柄や道徳ではなく、曹操という絶対者のためにいかに有益な働きをしたか、その実力と結果のみで人間の価値を決定する。この冷酷なまでに合理的な論理は、既存の貴族階級の特権を解体し、異端の士大夫である曹氏の支配を正当化するための最強の思想的武器となったのである。
この実力主義の導入は、魏という国家に凄まじい活気と流動性をもたらした。身分が低くとも、あるいは道徳的に難があっても、戦場で功績を挙げ、あるいは内政で優れた計略を巡らせれば、破格の恩賞と地位が与えられる。郭嘉や賈詡といった、正統派の士大夫からは謀将として白眼視されるような異端の天才たちが、曹操の覇業に欠かせない知恵袋として最高の中枢に座ることができたのは、まさにこの唯才是挙の光の側面であった。
しかし、歴史の皮肉というべきか、この曹操が自ら生み出した最強の思想的武器である「実力主義(能力主義)」こそが、やがて魏帝国という国家そのものの命脈を内部から食い破り、崩壊へと導く最悪の構造的矛盾(影の側面)を胚胎させることとなる。
その矛盾の核心とは、国家の基盤を「実力」という絶対的基準に置いた場合、実力において他姓の重臣に劣るようになった皇族は、天下を統治する正当性をいかにして証明すればよいのか、という根源的な問いである。曹操の存命中は、この矛盾が表面化することは決してなかった。なぜなら、最高権力者である曹操自身が天下第一の軍事的天才であり、さらには軍の最高指揮権を握る夏侯惇、夏侯淵、曹仁といった第一世代の武闘派宗室たちが、誰よりも最前線で血を流し、他姓の将軍たちを力と実績で完全に圧倒するという「実力と血統の完全なる一致」が存在していたからである。正統派の士大夫層がいかに内心で曹氏を軽蔑していようとも、彼らが現実に戦場で叩き出す圧倒的な武功と軍事的暴力の前にあっては、平伏し、従属する以外の選択肢は存在しなかった。
だが、この魏帝国の強靭な二重構造、すなわち「血を分けた親族が絶対的な武力を握り、有能な他姓の士大夫が行政の実務を担う」という絶妙な均衡は、永遠に続くものではなかった。国家の権力が一代、二代と継承されていく中で、建国期の修羅場を経験した第一世代の猛将たちが次々と世を去り、代わりに宮廷の奥深くで平和に育った第二世代、第三世代の皇族たちが台頭してくる。もし彼らが、先達のような圧倒的な軍事的才能を持っていなかった場合、あるいは後述する曹丕の政策によって軍事経験を積む機会そのものを奪われてしまった場合、何が起こるか。
「唯才是挙」の論理を極限まで突き詰めれば、才能と実績のない者は、たとえ皇帝の血を引く者であっても権力の座から引きずり降ろされ、最も才能と実績のある者が国家の頂点に立つべきである、という極めて危険な簒奪の法理へと容易に転化する。曹操が漢の皇帝を事実上の傀儡とし、魏王という絶対的な地位に上り詰めるために用いた「実績なき主君は、実績ある臣下に道を譲るべきである」という易姓革命の冷酷な論理の刃は、そのまま自らの子孫の喉首へと向けられる宿命にあったのである。
正統派の士大夫層は、曹操の圧倒的な武力と才能の前に一時的に屈服し、魏の官僚として仕えてはいたが、彼らは決して自らの儒教的価値観や、士大夫としての自負を捨て去ったわけではなかった。彼らは実務を通じて国家機構の隅々にまで根を張り、静かに、そして確実に自らの派閥を拡大しながら、曹氏という異端の軍閥の力が衰えるその瞬間を待ち伏せていたのである。異端の士大夫が血と暴力によって創り上げた帝国は、その建国の瞬間に掲げた「実力」という理念の眩い光の背後に、いずれ己の実力が失われた時に国家そのものを他姓の臣下へと合法的に乗っ取られるという、制度的自死の時限爆弾をすでに抱え込んでいた。この致命的な矛盾が現実のものとして爆発する契機となるのが、次節で論じる文帝、曹丕による強迫観念的な「宗室去勢の法理」の制定と、それに伴う皇族の権力空白化の過程である。
【引用文献・史料】
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書・武帝紀(巻一)
(建安十五年の「求賢令」ならびに建安十九年、二十二年の布告における「唯才是挙」の宣言に関する記述)
陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書・諸夏侯曹伝(巻九)
(夏侯惇、夏侯淵、曹仁をはじめとする曹氏・夏侯氏の武将たちの血縁関係と、建国期における軍事的役割および武功に関する記録)
范曄撰『後漢書』党錮列伝(巻六十七)
(後漢末期における清流派の士大夫と濁流派(宦官勢力)との価値観の対立および政治的背景に関する史料として)




