第43話 ご褒美、秘湯の宿
帰りの道は夕陽に照らされて黄金色に染まっていた。車の中には心地よい疲労感と、満ち足りた沈黙が流れていた。
「……なぁ、澄恋」
「ん、なに?」
「今日のあれ、マジで惚れ直した」
隣でシートベルトを直していた澄恋が、びくっと肩を揺らした。
「も、もうやめてよ……あんなの、ただの偶然というか、ちょっと勉強してただけで……」
「いやいや、ちょっと勉強しただけで、あんなに論破できるか? あれ見てたら俺もう完敗だわ。今度からは澄恋先輩って呼ばないとな」
ニヤニヤとからかうように言うと、彼女は慌てて顔を逸らした。耳まで赤く染まっているのが、横顔からでも分かる。可愛い。
「蓮って……本当に調子がいいんだから」
「だって、本気で惚れ直したんだから、仕方ねぇだろう? 『研究職の経験があるので』とか言い出した瞬間、俺、危うく拍手しそうだったぞ」
「もぉ……運転中に集中して……!」
「いや、仕方ないだろ。隣に救世主の女神が座ってるんだから」
澄恋は呆れたようにため息をついていたが、その頬はしっかりと緩んでいた。
沈む夕陽の赤がフロントガラス越しに差し込み、車内を茜色に染めている。彼女の横顔をちらりと見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
……このまま帰りたくないな。
そんな時だった。
国道沿いのカーブを曲がった先、視界の端に大きな看板が映った。
──「湯宿・風花──源泉掛け流し、露天風呂あり」
その瞬間、喉がごくりと鳴った。
「……蓮?」
「いや……見た? あの看板」
「温泉……? え、でも帰りの飛行機、最終便じゃなかった?」
「思ったよりも対応に時間取られたし、……たまにはいいんじゃないか?」
冗談めかして言ったつもりだった。
けれど澄恋の方も一瞬、目を見開いて——それから小さく笑った。
「……いいかも。今日くらい、頑張ったご褒美に」
その一言で、俺の理性は完全に決壊した。
ナビを切り替えて、宿の方向を入力する。
山道を登るうちに街の灯りが遠ざかり、静寂と星の瞬きが近づいてくる。
ラジオからは心地よいバラードが流れていた。助手席で澄恋が窓に頬を寄せて小さく呟いた。
「こんな遠出になるなんて、思ってなかったね」
「俺もだよ。……でも、悪くないだろ?」
「うん。悪くない。むしろ——嬉しい」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
気付けば夜の山あいにぽつりと光る宿の提灯が見えてきた。
静かな湯けむり。木造の門の向こうに、温かい灯りが揺れている。
「……じゃあ、今日は延泊ってことで」
「ふふ、責任者がそんなこと言っていいの?」
「もう今日はオフだ。それに今更、もう搭乗時間に間に合わねぇしな」
そんな冗談を交わしながら、俺たちはハンドルを切って宿の駐車場に入った。
——ここから先は、誰にも邪魔されない二人の夜が始まる。
宿の玄関をくぐると、檜の香りと湯けむりがふわりと鼻をくすぐった。
帳場には和服姿の女将が立っていて、柔らかく微笑んで俺達を迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でいらっしゃいますか?」
「いえ、今日、急遽一泊追加でお願いしたくて」
「承知いたしました。あの……ご夫婦でお越しでしょうか?」
一瞬、澄恋の肩がピクッと動いた。
俺もちらりと横を見たが、真っ赤になって固まっている。そんな澄恋を微笑ましく見ながら、俺は女将の言葉に頷いて答えた。
「婚約してまして……。ゆくゆくは正式に、と思っております」
自分でも驚くくらい、キリッとした声が出た。
女将は微笑みを深め、「まぁ、素敵ですわね」と目を細めた。
一方の澄恋は頬を染めたまま俯き、耳まで真っ赤にして袖をぎゅっと掴んでいた。
「……蓮、いきなりそういうこと言うの……反則」
「だって、嘘は言ってねぇし」
「もぉ……」
可愛すぎて、危うくまた抱き寄せそうになったが、女将の咳払いで我に返った。
「お部屋は離れの風花亭でございます。露天風呂付きの一室で、紅葉がちょうど見頃ですよ」
「ありがとうございます」
案内された廊下は、木の床が艶やかに光っていた。廊下の両脇には小さな庭園があり、赤や橙に染まったモミジが灯籠の光に揺れている。
足音と一緒に、畳の香りがふわりと漂った。
部屋に入ると、広い窓の向こうに静かな庭が広がっていた。
湯気の向こうを満月の光が淡く照らして、幻想的な光景に俺たちは目を奪われてしまった。
「……きれい」
澄恋が小さく呟いた。
その声に、俺はただ頷くしかなかった。
ほどなくして浴衣に着替えた俺たちは、宿の中庭へと足を運んだ。
石畳の小径には紅葉が舞い落ち、どこか懐かしい秋の香りがした。風が吹くたび、袖が触れ合い、温もりが伝わる。
「……ねぇ、蓮」
「ん?」
「こうやって一緒に歩くの、なんか不思議だね」
「出張のはずが、デートになっちまったからな」
笑い合いながら、月明かりの下を並んで歩く。庭の池には紅葉が浮かび、ライトアップされた水面がゆらゆらと揺れていた。
「澄恋」
「なに?」
「お前のおかげで最高の夜を過ごせそうだよ。ありがとうな」
俺がそう言うと、彼女は照れくさそうに笑いながら、そっと俺の袖を引いた。
「……もう、婚約者なんだから、ちゃんと手をつないでね」
その一言に、心臓が跳ねる。
迷わず彼女の手を取ると、指が自然に絡まった。紅葉の中、月の光が二人を包み込む。
誰もいない、静かな小径。
湯けむりの向こうで、虫の音が遠く響いていた。




