第42話 VS クレーマー 【スカッと有】
目を覚ますと、白いカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
高層ホテル特有の静けさと、低く響くエアコンの音。
どこか現実感が薄い——夢の続きのような朝だった。
腕の中には愛しい彼女が、まだ夢の中にいた。柔らかい寝息が胸のあたりでくすぐったい。
「……おはよ、澄恋」
耳元で囁くと、彼女が小さく身じろぎをして薄く目を開けた。寝ぼけ眼でこちらを見上げるその仕草が、反則級に可愛い。
「……ん。おはよう、蓮」
「まだ眠そうだな」
「うん……だって昨日の蓮、スゴかったもん」
髪がふわりと頬にかかる。
俺はその髪を指先で払いながら、頬に軽くキスを落とした。
「起こしちゃったか?」
「ううん。でも……もう少し、このままでいたい」
彼女の声が胸の奥に染みて、動けなくなる。
柔らかく抱き締め返して、しばし静寂を味わった。
窓の外には、朝焼けに染まる街並み。昨夜のネオンが消え、代わりにオレンジ色の光がビルのガラスを照らしている。
仕事の一日が始まるというのに、こんな穏やかな朝を迎えられるとは思わなかった。
「……なぁ、澄恋」
「ん?」
「こういう朝、悪くないな」
「ふふっ、出張の朝なのに?」
「いや、澄恋と一緒だから。どこで目覚めても、最高の朝になるよ」
照れたように笑った澄恋が、毛布の中から手を伸ばしてきた。指先を絡めて握り返すと、その温もりがゆっくりと広がっていった。
——とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
今日は朝一で出発しなければ、帰りの最終便に間に合わなくなってしまう。
本当ならいつものように一回イチャイチャしてから起きたいところだが、我慢するしかない。
「澄恋も準備をして。今日は気合い入れていかねぇとな」
そしてスーツに着替え終えた俺だったが、初めて見る澄恋のスーツ姿を見た瞬間、前言撤回したくなった。
陶器のように滑らかなナチュラルメイク。キッチリと結った髪を留めた首筋が、やけに美味しそうに見えた。
それにタイトなスーツ姿にメガネ……!
理系女子に弱い俺にとって澄恋の姿は、あまりにも魅惑的すぎた。心臓がバクバクして落ち着かない。チラッとシャツのボタンの間から見える黒の下着と肌がエロい。
こんな女子社員がいたら、仕事どころじゃない!
「……え? 蓮? どうしたの?」
「——お前さー……俺以外の男の前で、そんな無防備な姿を見せないでくれよ?」
「無防備なんかじゃないよ? 一応、プレゼンや就活時に着るために買ったスーツだし」
いや、インナーを着てくれ。
俺がジィィーっと、胸元を見ていると、気付いた澄恋がハッとして説明をした。
「ちゃんと着てるからね! だって、下着じゃないからね!」
「いや、でも……シャツの隙間から見えてる時点で、下着だろうとインナーだろうと、俺は興奮する」
「ちゃんとしてるのに……!」
理不尽にも程があると言いたげだったが、正直どっちでもいい。俺が下着だと思えば、それでオカズになるのだから。
「なんて、ふざけてる場合じゃねぇな。んじゃ、行こうか」
こうして俺達はチェックアウトを済ませて出発した。天気は快晴で、道の向こうには青空と白く輝く雲が広がっていた。
仕事だというのに、澄恋が助手席にいるだけで、心は旅行気分だった。
エンジン音と音楽、そして小さな笑い声が混ざる車内。このままどこか遠くへドライブに行きたくなるほど、穏やかな空気を纏っていた。
——が、そんな浮かれ気分は、目的地に着いた瞬間、氷のように冷めた。
玄関の前には、年配の男性が腕を組んで立っていた。表情は険しく、俺たちを見る目には、明らかな敵意があった。
「……あんたらか? 電話で言ってた責任者ってのは」
「はい、ハウスクリーニング事業部の音無と申します。本日は不備の件でお伺いしました」
丁寧に頭を下げた俺の言葉を遮るように、男が怒鳴った。
「不備どころの話じゃないんだよ! おたくの洗剤使ったら、金属が錆びついて動かなくなったんだ! どう責任取ってくれるんだ!」
男の指差す先には、古びたキッチン家電。
たしかに高価そうではあるが……相当な年季が入っている。普通に考えれば、経年劣化だ。だが相手は聞く耳を持たない。
「新品を買ってもらおうとは言わない! せめて《《同等品》》を弁償してくれりゃいい!」
あぁ……こういうタイプか。
無理筋な理屈を押しつけて、自分の機嫌を取らせる。
これが『責任者を呼べ』の理由ってわけだな。
「お客様、まずは現状を確認させていただけますか? 洗剤の使用量や希釈率なども——」
「そんなもん、いちいち測るか! 言われた通りに使ったに決まってんだろ!」
あぁ、詰んだ……と思ったその瞬間だった。
隣で控えていた澄恋が、静かに一歩前へ出た。その声は落ち着いていて、けれど真っ直ぐに響いた。
「もしよろしければ、拝見してもいいでしょうか?」
彼女は丁寧にキッチンの前にしゃがみこみ、手にした資料ファイルから、製品の成分表と化学反応の一覧ページを開いた。
「この洗剤の主成分は高分子ポリオキシアルキレン系の界面活性剤で、酸性ではなく中性領域です。金属を腐食させる成分は含まれていません」
「な、何だと……?」
「それに、仮に金属が酸化しているなら、原因は空気中の湿気や油汚れの残留物です。もしこの錆が洗剤の影響で生じたなら、一晩以内に腐食痕が出るはずですが、これは長期間放置されて形成された酸化層ですね」
淡々と語りながら、澄恋はスマホでライトを当て、錆びた部分の酸化の層の厚さまで説明した。
男は完全に固まっていた。
「……えっと、私、研究職の経験があるので。もし気になるようでしたら、成分分析をしたうえで、こちらから正式な報告書をお出ししますね」
その言葉に、男の顔色がみるみる曇る。
さっきまで怒鳴っていたのが嘘みたいに、小さくなった声でつぶやいた。
「……あー、その、まぁ……俺もちょっと言い過ぎたかもな」
「いえ、疑問に思われるのは当然のことですから」
澄恋が微笑んで頭を下げる。完璧だった。
完全論破——かつ、穏やかなトーンで相手の退路を残す。俺でもできない対応だ。
……やばい。惚れ直した。
うん、惚れるだろう、こんなの。
俺は尊敬の眼差しで澄恋を見つめ、クレーマーは青ざめた顔で立ち尽くしていた。




