第1話 二度とこんなに誰かを好きになるなんて思いもしなかった
——失恋した。
付け込む隙すら与えられなかった恋だった……。
俺、音無蓮は裕福な家庭に生まれた故に、厳しい教育を強いられて育てられていた。
物心がついた時から英才教育、御受験、一貫エスカレーター式の私立学校で中学の時から人の上に立つことの苦労を知れと、生徒会で学ぶことを課せられていた。
その反発で分かりやすくグレた俺は、高校卒業と共に遊び呆けて夜な夜な女遊びを繰り返した。
その中で出会った少女、朝霧凛のことが忘れられなくて、ずっと片想いをしていたのだが……数年後に再会を果たした彼女は、年上の男と付き合って、愛され女子へと変貌を遂げていたのだった。
しかも、その男がとんでもない完璧男だったのが、運の尽き。
敵うわけがなかった。
それどころか俺は、その男に魅了されて惚れてしまったのだ。
——屈辱だったが、後悔はなかった。
だが、最初から実ることがない片想い。
当然俺は振られ、半ばヤケクソになっていたのだった。
「……あー、マジで最悪だよ。よりによって、何であんな片想いを……」
だが、目を瞑れば好きだった人の笑顔が脳裏を霞む。最愛の恋人に向ける優しい微笑み……。あぁ、ムカつく。いや、ムカつくというよりも、悶々する…………。
「ヤベェ、このままじゃ俺の人生観が歪んでしまう!」
こうなれば女の子と遊んで、本来の俺に戻らなければ!
だが、いざ遊ぼうと思っても好きだった人以上には出会えない。声を掛ける前に気持ちが萎えてしまう。
もしかして俺は、このまま一生恋愛できないのか……!?
「い、嫌だ! 俺だって幸せになりてぇのに!」
その時だった。
普段なら無視する親の電話。反射的に取ってしまったことを後悔しつつも、俺は「……何?」と答えてしまった。
『蓮、お前……まだフラフラしてるのか? もう少し音無家の人間として、将来のことを考えて』
「チッ、うるせぇな……。頼むから俺のことは放っておいてくれないか?」
『——そんな自分勝手なことしか口にできないなら、お前への援助は断たせてもらうぞ?』
親父の言葉に、思わずグッと言葉を詰まらせてしまう。
今住んでいるマンションも、親が税金対策で購入していた部屋だ。俺自身も親の会社で働いているとはいえ、援助を断たれてしまうと生活水準を下げざる得ない。
『今、付き合っている女がいないなら、一度くらいはお見合いを受けてみないか? お前は知らぬ顔かもしれないが、私にも面子があるんだよ』
「……分かったよ。んなら、一回だけなら会ってやるよ」
結局、金の為に、親の言うとおりにお見合いを受けることとなった。
「……どうせ前以上の恋もできねぇだろうし、こうなったら家の為に契約結婚をするのも悪くないのかもな」
こうして俺はスーツを着て、予約をしていた見合いの場へと向かった。
静かな料亭の一室。白木の低い卓には漆塗りの膳が整えられ、香ばしい出汁の匂いがふわりと漂っている。
庭園に面した襖は半分開け放たれ、苔むした石灯籠と小さな池が見えた。鯉が水面にさざめきを立てるたび、どこか現実味のない時間が流れているように思えた。
「……失礼します」
俺は襖を開けて、中の様子を見渡した。
低い声が、張りつめた空気をわずかに震わせる。
そこには先に通されていた女性が一人。彼女は黒髪をきちんと結い、淡い水色の振袖を身にまとっていた。
膝の上でぎゅっと両手を重ね、落ち着かない視線を障子や庭に彷徨わせる。胸の鼓動は早鐘のようで、唇を噛むたびに赤く染まった。
二人の間に、緊張と沈黙が流れる。
膳に添えられた湯呑みの湯気だけが、やさしく二人を繋いでいるようだった。
「……初めまして、音無蓮です。本日はお時間を作っていただき、ありがとうございます」
すると彼女はスッと三つ指を立てて、礼儀正しく頭を下げてきた。
「……初めまして。早瀬澄恋と申します。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
——静謐。
障子の向こうの庭で鯉が跳ね、水音が一瞬だけ響いた。
俺は思わず息を呑んだ。
形式的であるはずの挨拶なのに、その声音には芯の強さと覚悟が宿っていた。
澄恋はゆっくりと顔を上げ、頬をわずかに染めながら、真っ直ぐに彼を見た。
まるで自分の命を差し出すかのように、決して揺らがぬ眼差しで——。
(——ヤバい、無理! こんな真面目な女、一緒にいるだけで息が詰まる! やっぱ直ぐに断って帰ろう!)
適当に話を切り上げよう。そう思っていたのだが、会話が全く広がらない。
黙ったまま俯かれ、無情な時間だけが過ぎていく。
あぁ、きっと彼女も俺と同じく、親に言われて《《仕方なく》》お見合いをしたに違いない。
でないとこんな静寂、とてもじゃないが耐えられない。
まるでマネキンみたいな、能面のように表情ひとつ変えない顔立ち。綺麗だが面白味のない、つまらなそうな人間だ。
何が楽しくて生きているんだろうとさえ思ってしまう。
(……って、それは俺も同じか。好きだった奴に振られて、無感情に毎日を過ごして……。あんなに反抗していた親の見合いを受けて、馬鹿らしいったら、ありゃしない)
だが、不意に上がった彼女の視線が俺に向かれ、俺は息をすることを忘れそうになってしまった。
冷血だと思っていた彼女の顔が耳まで真っ赤になって、困ったように俯いた。まるで生娘のようなウブな反応に、動揺を隠せない。
ゾワゾワと、胸の奥が騒めくのが分かる。
「あの、澄恋さん……」
「は、はい! な、何ですか?」
さっきの凛とした姿とは裏腹の、まるで小動物のようなか細くて震える小さな声。必死に俺を見ようとするが、泳いでしまう視線。
忘れていた感覚が、沸々と込み上がる。
「よろしければ一緒に外を歩きませんか? 少しは気分が変わるかもしれないですし」
興味がなければ断るだろう。そう思いながら俺は提案した。
そして彼女が口にしたのは、案の定の言葉だった。
「……はい、よろしく……お願いいたします」
ギュッと目を閉じて、怯えるような彼女の表情を見た瞬間、俺は確信した。
(この女、面白い……!)
忘れかけていた男の本能が、今、目覚めようとしていた。