36話 哀れなる雇われ人
ドワロフを負かして剣を手に入れたり、クラウト先生に解毒薬をねだったりしているうちに、日が暮れた。
決戦のときが迫っている。
日中、隙あらば頭に治癒魔法を施していたせいか若干の魔力不足感は否めない。
しかし、思考はかつてないほど清明だった。
爆弾のほうは解除されたと見て間違いないと思う。
念のため、クラウト先生に血管を若く保つ薬草茶を煎じてもらった。
これでダメなら、もはやお手上げだろう。
私は前日と同じ流れで地下室に陣取った。
昨日と違ったのは、暗殺者が手に布のようなものを持って現れた点だ。
その布は水を含んだように濡れていて、甘く、それでいて、鼻から脳天を突き上げるような臭気を発していた。
背筋が寒気を覚える。
一瞬で察した。
今日は拷問の日だ、と。
私はまた黒幕の逆鱗に触れてしまったのだ。
全身に刻み込まれた苦痛が稲妻のように脳裏を駆け巡って、体温が一気に3度ほど下がったような気になった。
怖い。
でも、これは千載一遇のチャンスでもある。
向こうの狙いも私と同じだ。
標的を生きたまま捕らえること――。
条件が同じなら戦闘はずっと楽になる。
そして、私が勝ちさえすれば地獄のような罰ゲームを免除されるばかりか、黒幕が姿を現す可能性すらあるのだ。
暗殺者がグッと踏み込んだ。
今宵は一気に仕掛けるつもりらしい。
麻痺毒を塗った釣り針に引っかかってくれることに期待したが、暗殺者は難なく見切って直進してきた。
やや出遅れた私はフラスコを投げようとした。
だが、時間にして0.1秒の遅れが成否を分けた。
暗殺者は私が投じたフラスコを素手で掴むと、通路の向こうに放り捨てた。
それが、割れるより先に薬品で濡れた布を突き出してくる。
私はその腕の下を掻い潜って抜剣した。
細いウエストを両断する勢いで振った剣がけたたましい金属音を立てて止められる。
ククリナイフだ。
私はにやりと笑って電撃を流し込んだ。
「ッぁ……!?」
黒衣をまとった体が通電されたカエルの脚のようにビーンと跳ねた。
体勢を崩した暗殺者に私は二度、三度と斬りつける。
もちろん、高圧電流により稲光する剣でだ。
「ああああああ……ッ!!!」
絹を裂くような絶叫が狭い地下室に響いた。
暗殺者は防戦一方だった。
私は帯電させた剣で繰り返し斬りつけるだけでよかった。
受け太刀して防ぐしかない暗殺者は受けるたびに感電し、悲鳴を上げた。
全身の神経を電流が駆け巡るわけだから、これもまた拷問のようなものだろう。
それでも、暗殺者は薬品を染み込ませた布を手放そうとはしなかった。
あくまでも私の生け捕りに固執している。
通路の向こうから今になって白い煙が流れてくる。
暗殺者が仮面の下で息を止めたのがわかった。
呼吸もままならない環境下で電撃を浴び続けるなんて、電気の海で溺れているようなものだ。
暗殺者は身体強化でかろうじて対抗しているようだった。
だが、その動きは秒を刻むごとに鈍く重くなっていく。
私はガードの開いた胸に膝蹴りを捻じ込んだ。
華奢な体が宙に浮き上がってから石床に叩きつけられる。
ごはッ、とむせ返った暗殺者は肺に残された最後の空気を吐き出してしまったようだった。
「やっぱりあなた、雇い主には逆らえない立場なんだね。これだけ分が悪いのに、まだ生け捕りにこだわっているんだもの」
でも、すでに実力が拮抗しつつある私に対して殺さない選択をするのは命取りそのものだ。
私が殺す気だったなら、すでに首は床の上を二転三転しているだろう。
私が手を緩めたのを好機と見たか、暗殺者は毒針を投擲しようとした。
しかし、それが手を離れることはなかった。
私を殺すわけにはいかないから、投げるに投げられないのだ。
「雇い主の要望は絶対、か。どんな弱みを握られているのか知らないけど、大丈夫だよ。全部私がなんとかするから」
私はか細い首を鷲掴みにした。
殺意のない暗殺者なんて、刃のない剣も同じだ。
何も怖くない。
「あなたの抱えているもの、私が一緒に背負ってあげる。少し眠っていなさい」
私は頸椎に直接電撃をひねり込んだ。
暗殺者は悲鳴にならない悲鳴を上げて、ぐったりとこうべを垂れた。
仮面が外れて石床を転がる。
暗殺者は薄く開けた両目から涙を流していた。
「ごめん、なさい……ムルア、メルア……」
意外な名前が出てきて私は思いっきり面食らった。
そして、暗殺者が双子と同じ銀髪であることに気がついた。
顔つきもどことなく双子に似ている気がする。
そのへんについて問いただす間もなく、暗殺者は気絶してしまった。
まあ、また後で茶菓子でも出しながらゆっくり話を聴けばいいだろう。
「ふう……」
ついに、完全勝利だ。
私は無傷で、暗殺者ちゃんも虜囚とした。
これで、あとは黒幕を吐かせるだけだ。
……もしかしたら、その必要さえないかもしれない。
小さな足音を感じて私は通路のほうに目を向けた。
「そこにいるの、アッシーカ?」
若い女の声だった。
その聞き慣れた声を耳にして、私は頭を石壁にぶつけたい衝動に駆られた。
「どう? 仕留められたのかしら?」
どこまでも無邪気な声だった。
逃げ出した猫を捕まえられたかどうかを尋ねるような、そんなのんきな雰囲気で暗がりから現れたのは、漆黒の髪の少女。
クロベルだった。
黒幕は誰あろう、私の妹だったのだ。




