35話 クロベルの治癒魔法講座
「クロベルぅぅ……!」
医務室を飛び出した私は妹の部屋に駆け込んだ。
「まあ、お姉様。どうされたのです? そんな情けない顔をなさって」
クロベルは凛とした顔立ちを訝しげに歪めている。
「私の頭が大変なの。治癒魔法かけて!」
「嗚呼お姉様、お可哀そうに。魔法は万能ではありませんのよ。治せないものもあるのですわ」
あんたも私の頭を哀れむのか。
歩くだけで千鳥足になる姉だから仕方ないかもしれないが。
「ん?」
黒を基調とした落ち着きのある部屋にはクロベル以外の姿もあった。
ムルアだ。
顔がこわばっていて、頬には涙の跡がある。
上半身をはだけた状態で、背中をクロベルに向けていた。
妹のメルアの姿はない。
「まっ! お姉様、それは勘違いですわよ! このミミズ腫れは私がやったのではありませんの! 私はムルアの背中の傷を癒やして差し上げていましたのよ。使用人の中にはひどいことをする者もいるようで」
「疑ってないから。よかったね、ムルア。優しいご主人様で」
ムルアはぐずんと鼻を鳴らしてコクコクと頷いた。
「ちょうどいいところに来たみたいだね。ねえ、クロベル。ムルアのついででいいからさ、私の頭も癒やしてよ」
図々しいことを言うと、クロベルは微妙な顔をした。
「簡単におっしゃらないでくださいまし。治癒魔法は楽ではありませんのよ。施術者にしても被術者にしても、体力の消耗が激しいのですわ」
傷を即座に治すのだから、それはそうだろう。
「でも、そこをなんとか! 神様仏様クロベル様!」
私は命がかかっているので、泣き落とす勢いで頼み込んだ。
「仕方がありませんわね。お姉様に頼られて断るわけにもいきませんもの」
クロベルは満更でもないという表情だった。
「では、こういたしましょう。ちょうどムルアの傷を治すところですし、私がお姉様に治癒魔法をレクチャーして差し上げますわ」
クロベルの治癒魔法講座というわけか。
どうせ死ねば傷なんて消えるから、これまで、医術系の魔法を習得しようと思ったことはなかった。
なにかと怪我をしがちだし、いい機会だ。
この機に勉強してみよう。
ということで、クロベル先生の講義が始まった。
いわく、治癒魔法とは、神に深い祈りを捧げることで生命の真の力を揺り起こし、傷ついた体をあるべき形へと導くもの……らしい。
「なる、ほど……」
クロベルには悪いが、オカルトマニアに自説を聞かされている気分がして、私は途中から心の耳に栓をしてしまっていた。
神学的な部分を取り除き、科学的に解釈し直せば私にも理解できるようになるかもしれない。
「まずは、お手本を見せますわね」
クロベルはムルアの背中に手をかざし、深呼吸を3度ほど重ねた。
「木漏れ日よ、春の在りし日のごとく安らぎを与えよ。我、清き手の内に神の御技を示さん」
蛍の光が舞い、新しい傷がすーっと癒えていった。
しかし、古い傷は入れ墨のように残されたままだった。
「さあ、お姉様の番ですわ。……あっ、お姉様が祝詞を覚えられるはずもありませんでしたわね。今、紙に書きますわ。字は読めるのかしら……」
おい、馬鹿にするな。
馬鹿だって馬鹿にされるのは辛いのだ。
「詠唱なんてしなくてもいいよ」
「何をおっしゃっていますの? 火にかけなければ湯が湧かないように、詠唱なしでは魔法は使えませんわよ」
クロベルは困った子を見る目をしていた。
私は気にせずムルアの背中に手をかざした。
目を閉じて、集中する。
傷が治るにはいくつかの段階があったはずだ。
まず止血に始まり、死んだ細胞がマクロファージなどに貪食され、新しい組織が形成されて、傷が塞がる。
そんな感じだったはず。
でも、ミクロな世界をイメージするのは難しい。
代わりに、私はたくさんの働きアリたちがせっせと砂粒を運んで傷ついた城を修理するようなイメージを思い浮かべた。
崩れた壁。
隆起した石畳。
傾いた尖塔。
ひび割れた天井。
朽ちた屋根。
それらを少しずつ、でも、着実に直していく。
小さな無数のアリたちが寝る間も惜しんで働き続ける。
そんなイメージ。
「そんな……」
クロベルがショックを受けたような声を上げた。
まぶたの向こう側に木漏れ日のような柔らかな光を感じて、私は目を開けた。
部屋いっぱいに緑色の光が舞っていた。
内装が黒いこともあり、夜空を蛍が舞っているみたいだ。
無数の光は私の手の内から現れていた。
ムルアの背中から赤黒い傷が消えていく。
古い傷までも消しゴムで消したみたいに綺麗になくなった。
真っ白なキャンバスのような背中には歳相応の瑞々しさが戻っている。
「できちゃった!」
ほかの魔法を習得していたおかげで、下地ができていたのだろう。
思ったよりずっと簡単だった。
「私の努力が……」
クロベルがぽつりとこぼす。
「私、この魔法を習得するのに3年もかかったのですよ。お姉様はすごいですわね」
努めて明るい顔をしているようだったが、クロベルの笑顔は明らかに引きつっていた。
私だって相応の努力をしているのだが、彼女には無慈悲な才能のように見えたかもしれない。
私は妹の手を取った。
「ありがとう、クロベル。あなたは私のために治癒魔法を習得してくれたのよね?」
「お姉様の……ため?」
クロベルは小首をかしげた。
「私は昔からおっちょこちょいで生傷が絶えなかったから。だから、一心不乱に練習してくれたのでしょう?」
以前の周回で、手の傷を癒やしてもらったとき、そう言ってくれた。
もちろん、この周回のクロベルがそれを知るはずもないのだが。
「まさか。お姉様のためではありませんわ。私は自分の実力を認めてもらいたい一心で努力しただけですもの」
本人にきっぱりと否定されたので、今度は私が首をかしげた。
では、以前言ってくれた言葉はなんだったのだろう。
単に口先だけのものだったのだろうか。
「わーっ!」
姿見で背中を映し見たムルアが喜びに声を弾ませる。
「綺麗に治ってます! クロベル様でも治せなかった傷を治してしまわれるなんて、ルピエットお嬢様はすごいです! さすがお姉様でいらっしゃいますね!」
褒められるのは嬉しい反面、少しヒヤリとした。
クロベルのメンツを潰してしまったような気がしたからだ。
ちらりと表情をうかがってみたが、クロベルはニコニコとムルアを見守っていた。
ともかく、これで私は頭の時限爆弾を解除できる。
あとは、暗殺者を再び生け捕りにできればハッピーエンドだ。




