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3話 回帰点


「ルピエットお嬢様、なんだか今日はしっかりされていますね」


「まっすぐ立っておられますし、とても凛々しくていらっしゃいます」


 ムルアとメルアが小さな手を打ち合わせて喝采を送ってくる。

 まっすぐ立っていて凛々しいってさ。

 歩く姿は千鳥足というのがルピエットの公式設定だ。

 直立しているだけでも、普段の私を知る者たちからすれば、サルがタキシードを着ているくらいのインパクトがあるのかもしれない。

 ハードルが低くて助かるよ……。


「お姉様――っ!!」


 叫ぶような声が屋敷の長い廊下に響き渡った。

 星のない夜を思わせる漆黒の髪をたなびかせて、見目麗しい少女が駆け寄ってくる。

 私のひとつ下の妹、クロベル・リュピエートだ。


 ポンコツと称される姉と好対照をなし、『完璧令嬢』の名を欲しいがままにしている彼女は走る姿にも華があった。

 乱れた髪でさえも黒真珠のような煌めきを振りまいているように感じる。


 ノンストップで抱き着いてきた妹を受け止めると、私は衝撃でぐるりと回った。

 その際、ムルアとメルアがこわばった顔で壁際に控えているのがチラリと見えた。

 ほかの使用人たちもピリッとした空気で背筋を伸ばしている。

 私がいたときは気の抜けた様子で談笑していたというのに、だ。


 使用人とは、主人とその家族の前ではアイロンをかけたシャツのようにシャキッとしているものだ。

 私の前で客がいないときの店員みたいにのんびりしていたのは、私をお嬢様だとみなしていない証拠じゃないか?

 とか思ってみたが、ポンコツに対する世の中の評価なんてそんなものだろうと妙に納得するところでもある。


「お姉様、頭は大丈夫でして!?」


 クロベルは開口一番、信じられない言葉を放った。


「おい、姉の頭がおかしそうに見えたってか!?」


 見えただろうな……。

 昨日までの私は、紅茶の香りを味わおうとして鼻から飲んでしまうような子だった。

 寝ぼけてパンツをかぶって屋敷を徘徊したり(ナイトキャップと間違えたのだろう)、庭に出ようとして2階の窓から身を投げたり。

 ポンコツでは語り切れない狂気がルピエットにはあるのだ。

 頭の状態は控えめに言っても「大丈夫」とは程遠い。


「やだ。妙な勘違いをなさらないで。私は見てしまったのです。お姉様が派手に落馬されたのを」


 クロベルは目尻に涙をためて、私の頬を温かい手で挟み込んだ。


「無茶をなさらないでください。お姉様に何かあったら、私はショックで死んでしまいます」


「ごめんね、クロベル」


 黒い髪をなでてやると、クロベルはよく懐いた黒猫のように目を細めた。

 こんな姉でも慕ってくれる妹がいるらしい。

 ゲームの中も捨てたものではないな。


「さあさ、あなたたち、手が止まっていますわよ! 早く片付けてくださらないと、お姉様を私の部屋にご招待できないではありませんか」


 クロベルが手を叩くと、今の今まで物言わぬ像のように壁に沿って並んでいた使用人たちがよく訓練された兵士のように動き出した。

 私が指示を飛ばしてもこうはいかないだろう。

 この妹には指揮官としての才もあるらしい。


 私は小さな使用人たちの前でそっと膝を折った。


「ムルア、メルア、お仕事の邪魔しちゃってごめんなさいね」


「いいえ、ルピエットお嬢様とお話ししていると、」


「なんだかとっても元気が出てきました」


「ほかのみんなも」


「いつもより優しい顔していましたし」


 ほかのみんなとはクロベルに仕える使用人たちのことだろう。

 いつもよりと言われても、私は普段の様子をよく知らない。

 きっと私の前では気が緩んでいたのだろう、という意味で受け取った。


「また声をかけていただけませんか?」


「だめですか?」


 甘えるような愛くるしい顔を二つも並べるなんて反則だ。

 私はにっこりと微笑んで、頷いた。


「おや、おかしいですね。わたくしは医務室に向かうように申し上げたはずですが」


 張り詰めた弓弦のような声がして、私は背筋をぞわりとさせた。

 振り返ると、おっかない顔のパルタ先生がこちらを睨んでいるではないか。


「まあ、お姉様ったら! まだぶつけたところを診ていただいていませんの!?」


 クロベルも驚いた後でぷくーっと頬を膨らませた。

 私はどやされそうな空気を察して、廊下をぴゅーっと走った。

 今度こそ医務室に直行だ。


 リュピエート家の専属医、クラウト先生は薬草学の権威である。

 太りすぎたセイウチのような体を左右に揺すって薬草を煎じると、私の後頭部にすり込んでくれた。

 鏡餅のように膨らんでいたたんこぶが引いていく。

 安静にして経過を見守るべしということなので、その日はそのまま医務室のベッドに体を横たえることにした。


 ルピエット嬢は、寝つきのよさに関しては他の追随を許さない才を持っているらしい。

 目を開けると、白かったはずの医務室の天井はわずかな赤みを帯びた紫色になっていた。

 クラウト先生はとっくに帰路についたらしく、薬草の香る部屋はシンと静まり返っている。


 私は今一度目を閉じて、思案にふけった。

 なぜ自分がゲームの世界にいるのか疑問は尽きない。

 でも、不思議と元の世界に戻りたいとは思わない。

 今、私がいるこの場所こそが自分の世界だという確固たるものがある。

 なら、私はルピエットとしてこの世界で生きていくだけだ。


 でも、いつまでもポンコツ呼ばわりされるのは御免だ。

 前世の知識を活かして身を立ててやる。

 馬鹿にする人々を見返して、貴族はかくあらんという優雅な暮らしを満喫してやるのだ。

 うん、そうしよう!


 私は輝かしい未来を胸に、目を開けた。

 上に誰かがいた。

 ズン、と何かが首を突き抜けてベッドが揺れた。

 痛いと思った瞬間には、もう何もわからなくなっていた。

 そして、私は青い空を見上げていた。


「大丈夫ですか、ルピエットさん」


 パルタ先生が馬上から虫けらを見るような目で見下ろしてくる。


「え、あ……ぇ」


 私は首を押さえた。

 てっきり血がだくだくと流れ出しているものと思ったが、汗で少し湿っているだけだった。

 痛いのもどちらかというと、後頭部のほう。


「どうすれば、草をはんでいるだけの馬から落ちることができるのですか」


 聞き覚えのあるセリフに強烈な既視感を覚えた。

 いや、既視感なんてものじゃない。

 空の青さも、雲の形も、馬の尻で揺れる尻尾の振れ幅と周期さえも、何もかもが今朝見た光景とおんなじだ。


「私、死んだんじゃ……」


 鋭い何かで喉を貫かれたことを体がはっきりと覚えている。


「これほど見事に落下したのですから、後で屋敷中の笑いものになることを思えば、死んでしまったほうが楽だったかもしれませんね」


 パルタ先生のお小言を、私はどこか別の世界の雑音のように聞いていた。


(戻ってきたんだ、私……)


 鮮烈な臨死体験で揺れる胸の中に、小さな万能感が芽生えるのを私は確かに感じていた。


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