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28話 置き土産


 折れたククリナイフが耳障りな音を立てて石畳を転がった。

 追いかけるように血の輪が広がる。

 私は尻もちをついたまま後ずさりして血だまりから逃れた。


「やった……」


 今、85周目くらいだろうか。

 ついに、やり遂げた。

 これで、ようやく死の無限回廊から脱することができる。

 もう夜が来るたびに殺されることもなくなるし、拷問に怯えなくてもいい。

 私が戦士なら雄叫びを上げて、戦の神に勝利の舞を捧げているところだ。


「……」


 でも、なぜかガッツポーズすらする気になれなかった。

 黒衣の暗殺者はぴくりともしない。

 肩から腹部にかけて剣が通ったせいで、胴体はYの字に割れていた。

 切っ先が石壁にめり込まなければ完全に両断していただろう。

 この惨状を前にしてガッツポーズなんてできるわけがない。


 私は頬を水滴が滑り落ちるような感触を覚えて、腕で顔を拭った。

 腕が真っ赤になる。

 人を殺した負い目から無意識に涙が流れたのかと思ったが、そんなことはなかった。

 切り裂かれた頬から血があふれ出しているだけだ。

 胸元はぐっしょり濡れている。

 ほんの1分前まで燃えるような血潮に身を任せていたはずなのに、今は氷水を浴びせかけられたように寒かった。


 勝った気がしない。

 死ななかったというだけだ。

 本当に、これでセーブ地点が更新されたのだろうか。

 明日を迎えられるのだろうか。

 実感はまったくと言っていいほどない。


 今もって、暗殺者の背後にいる雇い主の正体はわからない。

 事件解決とは言えない。

 それでも、当面の脅威は去ったはずだ。

 これほどの暗殺者を何人も用意できるわけがない。

 私は敵の放った最初にして最高のカードを退けたのだ。

 雇い主はそれでも諦めないかもしれないが、少なくとも、今夜の襲撃はもうないと見ていい。

 終わったのだ。

 この際限ない今日というループは、これで……。


 私は実感の乏しさに一抹の不安を覚えながら、よろよろと立ち上がった

 ここからは、現実的なことを考えなくては。

 この惨殺現場に長居するのはよろしくない。

 天下の貴族令嬢が人を斬り殺したとなると、正当防衛にしても悪評は立つ。

 家のメンツを命より重要視するパトシュがこのことを知ったら、今度は実の父に殺されかねない。


 血糊がべっとりついた剣はこの際、処分しよう。

 ドワロフには悪いが、殺人の証拠を手元に置いておくことはできない。

 頬の傷は薬草で癒やすとして、返り血はどうしよう。

 私の体は赤いペンキの海を泳いできたような有様になっている。


 凶器の処分と怪我の治療、それから、血をすすいで着替え……。

 夜明けまでにすべてできるだろうか。

 やるしかないのだが。


「……あ、れ?」


 不意に世界が傾いた気がした。

 私は受け身すら取れずに冷たい石畳の上に倒れ込んだ。

 全身の震えが止まらない。

 自分の胸の中で心臓の拍動が少しずつ、だが、確実に弱まっているのを感じた。

 胸いっぱいに息を吸い込もうとしても、肺を荒縄で縛られたみたいに呼吸ができない。


 私は目の前に転がっている折れたククリナイフを呆然と見つめた。

 刃がぬらぬらと光っている。

 何か油のようなものが塗られていることに気づいた。


「……毒、か」


 不覚だった。

 まさか毒塗りナイフだったとは。

 道理で実感が湧かないはずだ。

 一撃もらった時点で私の死は決まっていたのだから。


 私は薄れゆく意識の中でアルシュバート殿下の言葉を思い出した。


『君には勝つための剣ではなく、生きるための剣を身につけてほしい』


 まさしく、おっしゃるとおりだ。

「勝つこと」を「生きること」だと誤認していた。

 勝負に勝っても死んだんじゃ意味がない。

 これは木剣でやる稽古ではない。

 紛れもない命のやり取りだ。

 一太刀でも浴びたら血しぶきが噴き出て、死に至る毒が体内を駆け巡る。

 私は甘かった。

 でも、次こそは……。


「あなたが選んだ毒、いいね。ちっとも苦しくないよ」


 私は物言わぬ屍に微笑みかけた。

 春のひだまりにいるような暖かさを感じる。

 それでいて、体は少しずつ冷えていく。

 凍えるように寒いはずなのに、意識が徐々に遠のいていくせいか、差し引きゼロで何も感じない。

 そういう毒を選んでいるのだろう。


 暗殺者は、根っこの部分では悪い人ではないと思う。

 いつでも私の苦痛が最も小さくなる殺し方をしてくれた。

 悪いのは黒幕のほうだ。

 きっと私たちはおたがいに不幸な役回りを演じさせられているのだろう。


「ごめんね……。私、人を斬ったの初めて、だから、苦しかったでしょ?」


 意識は薄れていくのに、手には骨を断つ生々しい感触がはっきりと残されていた。

 もうあんなのはごめんだ。

 次はもっとスマートな方法を模索しよう。


 そんなことを考えているうちに、私は再び青空の下に飛ばされたのだった。


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