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19話 白い歯


 ……どこだろう、ここ。

 目が覚めても青い空は見えなかった。

 湿ったカビの臭いと土の香り。

 どこか地下のような場所にいるようだが、それがどこかはわからなかった。


 どうやらまだ殺されていないらしい。

 昼間、ぶっ続けで行った剣術の疲労がリセットされていないのがその証左だ。


 ぼんやりした頭が冴えてくると、自分が手足を縛られていることに気がついた。

 拉致されたらしい。

 いつもは問答無用で殺されるのに、どうして今回はこんな回りくどいことをしたのだろう。

 首を巡らすと、壁際の暗がりにたたずむ黒衣の人影を見つけた。


「わざわざ拉致したってことは私に訊きたいことでもあるの?」


「……」


 暗殺者は私の問いかけに肩をビクリとさせたように見えた。

 何度も対峙した私だからこそわかる。

 今日の暗殺者はどこか様子がおかしい。

 普段は一振りの剣のような、冷え切った迷いのなさを感じた。

 それが、今日は、風を受けたロウソクの火のごとく揺らいでいるように見える。


「……」


 暗殺者は何も答えなかった。

 しかし、喉の奥で生唾を飲み込んだのがわかった。

 蹌踉とした足取りで私に歩み寄ってくる。

 少しでも時間をかけようとしているような、じれったくなる足取りだった。

 ひどく緩慢な動きで私の肩を押さえつける。

 振りかざしたククリナイフが小刻みに震えていた。

 美しさすら感じられた冷徹な刃が今日ばかりは見られない。

 初めて人間味みたいなものが見えた気がした。


「拷問でもする気? 訊かれたことには全部答えるよ、私」


 どうせ死ねばリセットされるので、黙っている理由もない。


「……」


 暗殺者はやはり何も言わなかった。

 ただ、私を押さえつけた手は情けないくらい震えていた。

 これじゃ、私が拷問しているみたいじゃないか。


 私は縛めを焼き切るべく、真っ赤な火をイメージした。

 しかし、まだ薬品の影響が残っているのか、頭の中には子供の落書きじみた炎しか想起できなかった。


「……」


「……」


 たがいに動きがないまま時間だけが過ぎていく。

 沈黙を破ったのは小さな咳払いだった。

 姿は見えないが、もう一人誰かいる。

 咳払いを聞いた途端、暗殺者は怯えた猫みたいに肩を縮ませた。


「ごめんなさい……」


 仮面の下から、かすかな女の声が聞こえてきた。

 ざっと60回は殺されて、やっと性別が判明した形だ。

 そして、暗殺者はやはり雇い主の意向で動いているらしい。

 さきほどの咳払いの主こそが私を殺そうとしている張本人なのだろう。


「私も、本当は苦しめるのは……。命令だから。ごめんなさい。でも、なるべく早くすませるから」


 途切れ途切れの声がそう告げる。

 このときまで、私は情報を吐かされるのだろうと漠然と思っていた。

 訊かれたことに素直に答えたら、そのうちサクッと殺してくれるのだろうと考えていた。

 だから、突然自分の二の腕に刃を突き立てられたとき、痛いというより困惑のほうが大きかった。


 茹でたトマトを踏み潰したみたいに赤い飛沫が頬に飛んできた。

 一度ならず二度、三度と暗殺者は私の腕を刃物で切りつけた。

 痛みで目に涙が浮かんできた。

 そして、理解した。

 これは、拷問なんかじゃない。

 私に訊きたいことなんて何一つとしてない。

 ただ、殺す前に苦痛を与えたくて、ここに拉致してきたのだ。


 苦しめて殺すのが目的。


 そう悟って身の毛がよだつ思いがした。

 暗殺者は私の左腕を文字通りの八つ裂きにすると、反対側の腕に刃物をあてがった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 涙ぐんだ声が仮面の向こうから聞こえてくる。

 この人も本当は苦しいんだ。

 命令だから仕方なくやっているんだ。

 そう思ったから、私はなるべく悲鳴を上げないように努めた。

 何度も殺されているから痛みにも耐性があると思っていたが、とんでもない。

 傷口が増えるたびに苦痛は指数関数的に増大していった。


 この暗殺者はきっと心根は優しい人なんだと思う。

 これまでは、標的わたしが苦しまなくてすむように的確に急所を突いてくれていたのだ、と。

 何度も殺されたのに知らなかった。

 痛みには、たぶん上限がない。

 増えた傷の分だけ私の知らない痛みの領域が広がっていく。


 激痛で意識が飛びそうになる。

 私は電気を流されたみたいに全身を痙攣させた。

 息ができない。

 水もないのに溺れているようだった。


 私は釣り上げられた魚のように何度も身をよじって、首を左右に振った。

 そのとき見えてしまった。

 ぴくりとも動かない自分の腕。

 なぜ右腕が左側にあるんだろう。

 朦朧とする意識の中でその意味に気づいたとき、腹の底から恐怖が膨れ上がって頭の中で爆発した。


 それでも私は鉄の意思で堪えた。

 情けなく悲鳴を上げたくないというプライドが私に我慢を強いた。

 喉から噴き出しそうになる悲鳴を奥歯でギュッと噛み殺した。


 途中から私は痛みではなく、自分と戦っているような錯覚に囚われていた。

 長い夢を見ているようだった。

 パルタ先生のキツイ目。

 アルシュバート殿下の控えめな微笑み。

 クラウト先生の張り出したお腹。

 双子の使用人の瓜二つな表情。

 それらが、前世の記憶と渾然一体となって脳裏を駆け巡った。

 走馬灯だろうか。


 ガキッという異音で私は現実に引き戻される。

 血の味がした。

 あまりにも強く噛み締めたために、砕けた自分の歯が歯茎を深く傷つけたのだ。

 悲鳴を喉の奥に押しとどめていたダムが決壊した。

 私はついに耐えかねて泣き叫んだ。

 声の限りに叫んだ。

 しかし、その声は虫の羽音ほども響かなかった。

 銀の刃が私の喉を突いていた。


 これも、暗殺者なりの気遣いなのだろうか。

 刃は私の首の骨を完全に断ち切っていた。

 神経を断たれたことで、私は全身を蝕んでいた痛みからようやく解放された。


「ごめんなさい……」


 私を抱きしめて泣きじゃくる暗殺者に何か声をかけてあげたかったが、もはや息一つ出てこなかった。


 黒衣の向こうに人影が見える。

 壁にもたれかかるようにして腕組みしている。

 顔は闇に閉ざされて見えなかったが、真っ白な歯だけははっきりと見えた。

 バラバラに解体される私を眺めてほくそ笑んでいたようだ。


 ぶん殴ってやりたい。

 それが、叶わないなら一言文句を言ってやりたい。

 しかし、目を開けておく力さえも、もはや私には残されていなかった。


「ごめんなさい……」


 私は懺悔の声によって送り出された。

 再び、始まりの朝へと。


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