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18話 甘い刺激臭


 太陽が沈んだ茜色の空を見上げて、私は芝の上に両足を投げ出した。

 もう一歩も動けない。

 連日、猛稽古をしているが、筋肉と同じで体力もつかないのが悩ましかった。


 アルシュバート殿下が汗を拭いながら私の隣に腰を下ろした。

 妙に距離を置いて座るところが、生真面目な殿下っぽくてイイ。


「楽しい時間はあっという間だな」


「まあ、殿下。楽しいだなんて。イノシシ女に絡まれて辟易したのではないですか?」


「そんなことを思うはずもない。でも、まさか君と剣の稽古に精を出す日が来るとは思ってもみなかった。それでも、とっても楽しいんだ」


 アルシュバート殿下は名残惜しそうな笑顔を残して、今日も帰路についた。

 後は殺されるのを待つだけか。


「いっちっち……」


 私は自室に戻って顔をしかめた。

 1日中、剣を握り続けた手のひらは真っ赤に焼けただれてしまっている。

 死ねばリセットされるのは先刻承知済みだが、私は痛みに耐えかねて薬草の煮汁を塗りつけた。


「きゃぁぁぁんん! お姉様ぁぁんん!」


 騒々しい金切り声を上げてクロベルが駆け込んできた。


「見てましたわよ、カーテンの後ろから! お姉様ったらアルシュバート殿下といい雰囲気だったではありませんの!」


 乙女のように身悶えながらそう言ったのも束の間、クロベルは渋い顔になった。


「でも、どうして剣のお稽古ばかり……。寝室に連れ込んで押し倒してしまえばよろしいものを」


「驚いたでしょう? 寝室どころか屋敷の中にさえ連れ込まなかったから」


 よく考えれば、せっかく王子様が遊びに来てくれたというのに、一日中、庭先で木剣を振り回し続けるなんて、私はかなりイカれた女なのではなかろうか。


「でも、いいなぁ、お姉様ったらー! アルシュバート殿下はずっとお姉様のこと熱い目で見つめていましたわよ! きゃあああああ! 私もうダメですぅー!」


 自分の体を抱いて私のベッドを転げ回るクロベル。


「熱い目で見つめられてもねぇ……」


 そんな甘い出来事さえも私の命とともに掻き消され、すべては青い空に塗り潰される。

 なんだか私は最近、冷めてきた気がする。

 同じ日を永遠に繰り返すなんて正気の沙汰じゃない。

 そのうち、殺されることにも慣れて、生きる気力すらなくなってしまうかもしれない。


「恋愛なんて私はいいよ」


「んまぁ、お姉様ってなんて贅沢な方なんでしょう。うかうかしていたら殿下を盗られてしまいますわよ? すべての女性が恋焦がれてやまない王子様なのですから」


 キャッキャしていたクロベルだったが、私の手を見るや顎が外れそうなほど仰天した。


「ヴぁ!? ……お姉様、その手はどうされたのですか!」


「剣術の稽古でね」


「もー、ご自分の体は大切にしてくださいまし」


 私よりひと回り小さな手のひらが私の手を包んだ。


「木漏れ日よ、春の在りし日のごとく安らぎを与えよ。我、清き手の内に神の御技を示さん」


 詠唱が終わると、蛍火のような光が舞った。

 傷が嘘みたいに消えていく。

 治癒魔法だ。


「さすがクロベルだね。傷を癒やすのって魔法の中でも一番難しいってパルタ先生がおっしゃっていたわ」


「お姉様のために一心不乱に練習しましたの」


「私のため?」


「はい。お姉様は昔からおっちょこちょいでしたもの。あっちこっちで擦り傷を作って帰っていらっしゃるので、妹をするのも楽ではありませんわ」


 私はなんて素晴らしい妹を持ってしまったのだろう。

 こんなに綺麗で賢くて優しい子が近くにいるのに、アルシュバート殿下はなぜポンコツのほうを選ぶんだ?


「クロベルが殿下と結ばれればいいのに」


 そう言うと、愛らしかった妹の顔に見る間に薄暗い笑みが浮かんだ。


「くふふ、お姉様の言質を得ましたわ。では、私が殿下の正妻になりますわね。お姉様は側室にして差し上げますわ」


「いや、どうして姉妹で嫁ぐのさ……」


 私は苦笑した。

 そして、クロベルの背を押し、半ば強引に部屋の外に押し出した。


「ありがとう、クロベル。さあ、もうおやすみ」


「……お姉様?」


 クロベルは何かを察したような寂しそうな表情を見せたが、結局、何も言わず下がっていった。

 私は部屋の扉を閉め、気休め程度に短剣を握った。

 こんなものでは、暗殺者を止められないことは百も承知だったが。


 私は広い部屋の中央に立った。

 壁を背にしているほうが死角が減って安全だと考えていたこともあったが、2度ほど壁越しに心臓を貫かれて以来、安全なんてないんだと思うようになった。


 足首にわずかな風を感じる。

 背後にしていたテラスのほうで気のせい程度の物音がした。

 お出ましのようだ。

 毎度毎度よくもまあ律儀に足を運んでくれるものだ。


 私はイチかバチか、振り向きざまに短剣を振り抜いた。

 しかし、そこには誰もいなかった。

 私が振り向くのに合わせて、さらに背後に回り込む。

 これは、黒衣の暗殺者の常套手段だった。

 後は首筋か心臓をざっくりやられてサヨウナラだ。


 いつもなら、そうなるはずだった。

 しかし、今夜ばかりは違った。

 短剣を握っていた手を強い力で掴まれる。

 暗殺者は背後から私に抱きつくようにして、壁に押し付けた。

 口元を布のようなもので塞がれる。

 甘く、それでいて、鼻から脳天を突き上げるような刺激臭がする。

 何か薬品を嗅がされたのだと気づいたときには、すでに私の体は自由を失っていた。


 鉛みたいに重くなった体を暗殺者は軽々と持ち上げた。

 テラスに歩み寄っていく。

 ここは3階だ。

 飛び降りに見せかけて突き落とされてしまう。

 そう思ったのだが、暗殺者は私を抱えたまま夜の闇に身を投げた。

 そこで、私はまぶたの重みに耐えかね、意識をまどろみに委ねたのだった。


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