第9話 來良の事情 8/6
竜臣叔父さんが帰った後のことだ。近所に野菜配りをする為、來良が一輪車を押して家にやって来た。
「おぃーっす。おっさん、持ってきたぞー」
「おう。悪いな」
玄関から來良の声が聞こえ、それに応える。当の來良は一輪車を玄関の前に止めると、勝手知ったるとばかりに家に入って来た。
「あっちぃ~。こんなクソ暑い中、花重さんも人使い荒いっての。……ほい、これ差し入れ。午前中は色々態度悪かったなって……」
パタパタと上着を仰いで文句を垂れつつも、來良は態々持参した保冷バッグから取り出したアイスキャンデーを、目を背けたまま手渡してくる。
どうやら、午前中、散々っぱら扱き使ってくれたお礼や、俺の客人である神楽木さんへ非礼をしたことへの詫びのつもりらしい。ある程度時間をおいて冷静になったということだろうか。
「お? くれんのか? ありがとう。てか、アレは素じゃなかったんだな」
「あっ、当たり前じゃん!」
幸いにも神楽木さんは表面上、怒ってはいないみたいだった。あの後、フォローしておいたから大丈夫だとは思いたいが……
午前中の出来事を思い返しながら詫びの品を受け取る。思えばアイスキャンディーなんて子どもの頃以来だった。早速袋を破り、アイスキャンデーを取り出すと一口かじる。オレンジ味だった。冷たさと共に甘みが口に広がり、思わず笑みが浮かんだ。
「 へへへ。ここに来る途中、駄菓子屋で買って来たんだ〜」
俺の反応に気をよくしたのか、來良も機嫌良さそうにニヘヘと笑い、アイスキャンデーをかじり始めた。その様を見れば、彼女はまんま悪ガキがでかくなったといった感じだ。
駄菓子屋か。確か近所にあった筈だ。俺も子どもの頃に友だちと買いに行った覚えがある。安いお菓子やアイスもそうだが、彼処にはプラモデルとかミニ四駆、火薬銃、クラッカーボール、パチンコとかも売っていたのだ。それで割と危な目の遊びとかもしたっけ。
「花重さんは?」
「買い物」
「え〜? 何もこんな一番暑い時間に行かなくてもいいのに……」
來良が溜息をつく。彼女の言うことは尤もだろう。なにせ夏真っ盛りの昼過ぎだ。しかも、今日の気温は三十度を超える。そんな時分のこんな暑い中を歩き回るのは正直遠慮したい。
來良も頰を上気させて汗を垂らしながら家に来たくらいだ。体にかかる負担を思えば、しんどいとしか言えず、婆ちゃんのことを案じているのは容易に分かった。
「ああ。本当にな」
來良の言葉に頷きつつ、また一口アイスを口にする。冷たくて甘い氷菓子を口の中で転がしながら、今日の仕事内容を思い起こした。
來良も来たことだし、この後は花重の御用聞きとして近所の家を一軒ずつ回っていく予定なのだが……ただ、この暑さだ。なるべく効率的に行きたい。
「……とりあえず、行くか」
「おー」
アイスを全部食べ終わった後、俺はそう來良に声をかけたのだった。
□
セミが鳴き、灼熱地獄の様相を成した道を、俺と來良は畑で採れた野菜を一輪車に乗せて、押しながら二人で歩き出す。遠くに見える道が熱気でゆらゆらと揺れているように見えた。
これからの事が億劫で、げんなりしてしまう。夏場でなければ玄関先に置いてくるだけでもいいのだが、この暑さだ。30分も放置すれば水分がとんでシナシナになってしまうだろう。なので、可能なら対面で直接渡さなければならなかった。
──まず最初の家に着いた時のことだった。家のインターホンを鳴らすと、女性が返事をする声が中からした。しばらくすると玄関が開き、声の主と思われる女性が現れる。
「あら、來良ちゃんじゃない」
「おばちゃん、こんちは〜」
來良が笑顔で挨拶し、俺もそれに追従するように会釈した。最近婆ちゃん家に居候し始めたばかりの俺はご近所でもまだ知名度は高くない。……いや、正確に言えば、行方不明だった孫が帰って来たという噂話は既に広まっている。要は俺の悪名だけが一人歩きしている状態で、顔を突き合わせての挨拶はまだ済ませていなかったのだ。
「今日は暑いわねー。それにしても、あらぁ〜……?」
どうやら、見知った顔の來良と一緒に、見知らぬ存在である俺がいることに女性は驚いているようだ。目をぱちくりさせて俺と來良の顔を交互に見てきた。
「石動花重の孫の辰巳です。最近、祖母の所に居候し始めたのですが、挨拶が遅くなって済みません」
「あ、あらぁ〜、そう。あなたが花重さんのお孫さん? 話には聞いてるわ。……色々と大変だったわねぇ」
……やはり痛いところを突いてくる。覚悟はしていたが、このおばちゃんも例に漏れずだった。
大変だったわね、とは言うものの、それは取り繕った言葉だろう。何せ、行方不明となり周囲に心配をかけたばかりか、昔のこととは言え、テレビにも取り上げられて町は悪い意味で知られるようになってしまったらしいのだから。
女性のその言葉には俺も曖昧な苦笑で誤魔化しつつ、その節は大変ご迷惑をおかけしました、と再度頭を下げた。巻き込まれたのは不可抗力だし、本当は俺全然悪くない筈なんだけどね。
「まぁ、若い内は色々あるものよね。どんなお孫さんか知らなかったから、ちょっと心配してたのよ〜」
おばちゃんはそう笑って、俺の肩を叩いてくる。今、俺の表情大丈夫? 引きつってない? いったいどんなヤバい孫だと思われていたのだろうか。
「?」
しかし、その様子を見ていて不思議に思ったのか來良は小首を傾げていた。その様子を見るに、來良は俺がつい先日まで行方不明者扱いだったことを知らないのだろう。
──立ち話もそこそこに、それからも何件か家を回りつつ、挨拶しながら迷惑をかけたお詫びの行脚をして回る。掛けられる言葉は毎回似たようなもので嫌になってくる。中には婆ちゃんや親、皆に迷惑をかけたっていうので、訳の分からんことを怒鳴り散らすジジイもいた。こっちの事情も知らない癖に。メンドクセェなぁ……
暑さ故なのか、道中、やはり外を出歩いている人は少なかった。婆ちゃんの御用聞きの範囲も同じ町組ぐらいなので回らなければならない場所もそこまで多くない。それほど時間もかけずに畑で採れた野菜も配り終えることが出来た。とはいえ、炎天下の中で活動するのは流石にキツイ。一先ず今日のところはこの辺りでいいだろう。
「……なぁ、何で皆おっさんの名前聞くと、微妙な反応するんだ?」
おっさんじゃない、っちゅーに。最後の爺さんに挨拶し、家への帰路についている時、隣で歩いていた來良が聞いてきた。
「あー……それはな、俺がついこないだまで行方不明者扱いだったからだよ。皆、こいつがあの馬鹿者か、とでも思ってたんだろ」
「はぁ?」
突拍子も無い話を聞いて、お前はいったい何を言っているんだといった顔をする來良。だが、それも無理もないだろう。
「何だよ、それ? 行方不明って家出してたってことか?」
「ちょっと違うが……まぁ、それでいいか。俺にも色々事情があったんだよ。詳しくは話せねぇけど、遠い場所にいたんだ。周りの誰にも、親や婆ちゃんにも知らせないでな」
事の詳細は避けておいた。異界のことを話さないことには全容の説明は難しいし、そもそもオカルト地味た話をしたとして、頭が可笑しいと思われるだけだ。
「遠い場所……」
ただ、俺のその言葉を聞いてから別人のように黙りこくってしまった來良の様子に、何事かと気になってくる。
その後も妙に静かになったままの來良に声をかけてもよいものか迷っていると、彼女の方から声をかけてきた。
「……なぁ、おっさん。アタシが何で花重さんの手伝いしてるかって聞いたよな」
「ん、ああ」
來良が言っているのは、俺が午前中に來良にした質問のことだろう。突然の話題転換に戸惑う気持ちが無かった訳ではなかったが、態々、口にしたのだ。それが今、來良が話したいと思うことだったのだろう。
「ウチ、お母さんいなくて、ジジイとオヤジ、小学生の弟、アタシの四人でさ。女がアタシしかいないんだ」
唐突に來良が自身の身の上を語りだす。少々重い内容になりそうだったので、それって俺が聞いても良いことか、と一旦話を止めてみるも來良は肩を竦めてから言葉を続けた。
「ジジイは家のことなんて何にも出来ねーし、オヤジはアタシら養うために外で遅くまで働いてるから疲れてるだろ? 弟は遊びたい盛りだし。家のこと出来んのはアタシしかいねーんだよ」
確かに聞く限り來良以外の家族は全員男らしい。だがそれが婆ちゃんの手伝いをしていることと何の関係があるのだろうか。
「……ったく、男って察しが悪ぃよな。アタシは花重さんに家事とか色々教わってんだよ。言ったろうが、ウチにはお母さんがいないって」
「あ、あぁ」
「だから、花重さんはアタシにとって先生であって、母親代わりみたいなもんなんだ」
先を歩いていた來良がパッと俺の方を振り向く。そう言った彼女の笑みは明るく、影など感じさせないものだった。
……なるほど。そういうことだったのか。母親を亡くし、家族を支える為に家事を覚えたいと。こいつはそう考えていたらしい。俺は來良のヤンキーのような見た目から、彼女のことを誤解していたみたいだ。実のところ、随分と大人びた思いを持っていたらしい。
「花重さんは高齢の一人暮らしだったし、アタシに感謝してるみたいだけどさ。アタシだって花重さんに感謝してんだ。一番精神的に辛かった時に、アタシのことをちゃんと見てくれた、数少ない人が花重さんだったんだから」
……ははぁ。それで、俺が何で本来、身内でもない來良が、婆ちゃんの手伝いをしてんのかって聞いた時に不機嫌になったのか。
來良には、俺が來良自身を婆ちゃんの家から追い出そうとする異物か敵に見えたのかもしれない。もしくは勝手に自分のエリアに入ってきた余所者。実際にぽっと出とか言われたしな。母親代わりと慕う人の家から、邪魔だと追い出されそうになるとしたら、そりゃ反発するし怒るよな。むしろ、よくそのまま嫌われなかったものだとすら思う。
そう内心で納得していると、來良がじーっと見つめてきたことに気が付いた。その瞳は羞恥のせいか、じっとりしているようで、見つめられては熱っぽく見えないこともない。
「……何だよ?」
「あ、アタシは言ったぞ、理由……おっさんも教えてくれよ家出の事……何か気になるじゃんか」
少し恥ずかしそうに、もじもじとしながら上目遣いというか、睨むように見てくる。その頰は暑さのためか、それとも別のものなのか、赤らんでいた。ヤンキー娘とはいえ可愛らしいところもあるものだ。
というか、ヤンキー娘らしくといっては可笑しいかもしれないが、家出とかに興味でもあるのだろうか? 俺は何となく來良をそのまま見つめ返してみた。
「な、何だよ、なんか言えよぉ……もしかして、アタシだけ言わせておいて、自分は逃げるつもりかよっ……」
目の前の少女はまるで逆ギレしたかのように騒ぎ立てる。その反応が妙に可笑しくて、思わず破顔した。
「うはは。そう怒んなって」
「なら、さっさと教えろよなっ」
軽い溜息をついてから、家出中……もとい失踪中のことを語り出そうとする。
「まぁ、あれだ。俺が誰にも行き先を言わないで、行方不明になってたってのは話したよな? 何処に行ってたのかっていうと……」
俺は話す内容を考えながら空を見上げる。ギラギラと照りつける太陽に顔をしかめた。
「あー……なんてーか、こう……変な所に、いたんだよ。まぁ、仮に外国みたいな場所だと思ってくれ。言わば界外(海外)だな」
しかし、オカルト地味た話に全く関わりのない一般人に対して、異界をどう説明すればいいのか全く分からないことに気が付き、言葉がしどろもどろになる。嘘というか誤魔化しが下手クソなのが自分でもわかって嫌になる。
取り敢えず外国ということにしたが、まさか、バカ正直に俺は異界に迷い込んだんだ、なんて言える訳がないだろ。流石に。それこそ頭がイかれてると思われてしまう。
かといって神隠しをボカしつつ、とある事件に巻き込まれて日本ではない所で生活してたなんて言ったら、それこそ拉致誘拐事件に巻き込まれてたんじゃないかって引かれるだろう。
「外国ぅ? 家出で? マジで? パスポートとか必要じゃん」
案の定、俺がボカしつつ話すと來実は怪訝な反応を示す。しかし、來良の反応は無理もない。
家出で国内すっ飛ばして、海外に行ってたなんて、どんな奴だって話だ。しかし、中坊で海外逃亡っていったいどんな話をしようとしてるんだ、俺は。
「おう……で、まぁ、そこには不思議な日本では見慣れない生物が住んでいてだな」
俺は歯切れ悪く、しどろもどろになりながら説明を続ける。
「不思議な生物ぅ? それってどんなだよ?」
「うーん……角の生えた二足歩行の生き物とか、頭の天辺から耳が生えてるようなの、全身毛むくじゃらの奴とか……あとは、カエルや兎、動物が服を着てるようなのもいた。ちなみに、そいつらは人みたいに喋る」
「嘘つけっ! んな奴いるわきゃねぇーだろ! じゃなきゃ某有名なランド的な何かだろ!」
しかし俺の答えに対して來良がすかさずツッコミを入れる。來良の中では全て着ぐるみ姿のマスコットに変換されているのかもしれない。
「あと、そいつらは酒とか宴会が大好きだった。一仕事終えたあとは大体が酒飲みだったな」
「中の人の話すんなよ……」
俺の中では悪鬼悪霊やらの退治後の話だが、來良の中ではどうなのか……
「それホントに外国かよ……? いや、まぁ、夢の国とかって呼ばれることもあるしな……パスポートもいらないし……おっさんは家出中、そこでバイトでもしながら暮らしてたってことか……?」
「まぁ、そんなとこ」
俺の言葉を冗談か比喩か何かだと捉えたらしく、來良は溜息をついていた。悪かったな、面白い話にならなくて。
俺としても来良の反応はご尤もだと思ったので、苦笑いしながら肩を竦めたのだった。
「──……って、もうこんな話いいだろ。婆ちゃんも待ってるだろうしな」
と、ちょうどよく婆ちゃんの家の前に辿り着いた。玄関の扉を開け、中に入ると中からはテレビの音がした。婆ちゃんは先に帰って来ていたらしい。
「えーっ!? おっさん! 肝心の何で家出したとか、まだ聞いてない!」
「ただいまー」
「なぁって! おい、教えろよぉー!」
子どものような声を上げ、不機嫌そうに俺の後を付いてくる來良。その表情が本当に幼く見えて、俺は思わず声を上げて笑ってしまった。
「な、何笑ってんだよぉー!」
俺が笑っているのを見て、不満そうに噛みついてくる。また少し顔が赤くなっていた。からかったら面白い奴なのかもしれない。
「悪い悪い」
俺は頭を掻きつつ、居間へと向かう。居間では婆ちゃんがテレビを見ながら冷え冷えの麦茶を飲みながら寛いでいた。
「ただいま、婆ちゃん」
「おかえり、お疲れさん。しかし、また随分と騒がしいねぇ」
玄関口から來良の絶叫が聞こえたからだろう。どこか呆れた様子の婆ちゃん。それに俺は、ハハハーと誤魔化すように笑った。廊下から居間へと至る入口には來良が未だ不機嫌そうな表情でこちらを睨みながら立っている。
「來良ちゃんも、おかえり」
「……ただいま、花重さん」
少し間を置いて応える來良はブスッとしたままで、その声は明らかな不満気だった。まだ先程の話に納得がいかないらしい。
「なんだい? 來良ちゃんどうかしたんかい?」
婆ちゃんが來良の様子を見て不思議そうに声を上げる。
「べつに……」
「……何か気に入らなかったことでもあったかい? 辰巳。あんた何か言ったんだろ」
「え、はは……まぁ」
乾いた笑いを浮かべつつ、目を細めたおっかない顔の婆ちゃんから逃げるように俺は台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出す。使っていいコップどこだっけ、と首を巡らすと、音もなく後をついてきた來良が戸棚から取り出したコップを二つ渡してくれた。ありがとな、と礼を言うと、そっぽを向かれたので、思わず苦笑してしまう。
「……ってかさ。本当におっさん行方不明になってたわけ?」
俺が麦茶をコップに注ぐのを見ながら、來良が問うてきた。來良の分にも注ぎ終わると、冷蔵庫に麦茶のボトルを入れる。
「ああ」
「……マジ?」
「本当だよ。12年音信不通で、母さんにも、婆ちゃんにも本当に心配をかけた」
頷くが、來良はまだ疑っているのか、明らかに納得のいっていない様子だった。來良はコップに注がれた麦茶を手に取ると、それを一気に飲み干す。それから、ぷはっと息をつくと俺に向き直った。
「ふぅん……」
俺がもう話す気がないと理解したのか、來良は不服そうにしていたが、取り敢えずは無理矢理に自身を納得させることにしたらしい。俺も麦茶を一気に飲み干すと、コップを流しへと置く。來良がそれと、自身のコップをサッと洗うと水切りカゴに入れた。
「あ、すまん……まぁ、そういうわけだから。……あ、ついでに一応言っとくけど、來良が婆ちゃんの手伝いしながら家事教わるの、俺は邪魔する気ないから。妙な横槍入れて悪かったな」
「へ?」
「へっ、て……婆ちゃんが母親代わりみたいなもんなんだろ。俺が來良と婆ちゃんの関係に口出す筋合いなんて無かったわ。それに、これまで婆ちゃんのこと見ててくれたのは來良だからな」
もっとも。もう、來良は俺の事を邪魔者だとかとは思っていないとは思うが、念の為に伝えておく。俺は來良が此処に来ることを歓迎するし、來良も婆ちゃんが認めたのなら好きに家に出入りしたらいいと思う。もとより俺に居場所を奪うつもりなど無いのだし。それよりも、また午前中みたいな変な空気になる方が困る。
そう言いながら扇風機のスイッチを強に入れてその前を陣取った。古めかしい扇風機が音を立てて動き出すと心地よい風がやって来る。
当の來良は暫し無言のまま。俺の背後にいるため、どんな顔をしているかは分からない。また顔を赤くしているのか、はたまた何を言ってんだと、呆れた顔をしているのか。
「……なぁ、おっさん」
「んぁ?」
背後にいた來良が俺の方を向かって何か言っていた。ガガガガガガという半分壊れているような扇風機の音が大き過ぎて、聞こえた筈の小さな呟きに問い返す。
「……アタシにもそれやらせろ」
そう言って來良はクソ暑いというのに肩に手を乗っけて来た。肩に乗せられた手のひらから熱が伝わり、ジワジワと体温が上がって行っている気がする。触られてるだけで、あちぃ……
「いや、やめろ」
俺が本気で嫌がっている声を出すと、來良が不服そうな声を上げる。
「アタシだって、あちぃーんだよ!」
耳元で叫ぶな、煩い……それにそうだ、確かに暑い。何故ならば、この家にはエアコンは一応あるものの、婆ちゃんはエアコンの風が嫌いなのか自ら電源を点けるような事はしない。
昔ながらの日本家屋らしく、家中の扉全開にして簾を下げ、自然風と日陰で涼むスタイルだ。当然、今いる台所も外気温よりはマシだろうが、普通に暑い。扇風機一つでは全然足りなかった。
「暑いなら離れろ」
「やだっての! ほら、扇風機交代すっから早くよこせよ!」
肩に置かれていた手が退くと、俺の横にやってきてグイグイ割り込むようにして扇風機の前に身を乗り出した。
「おわっぷっ」
ぶわっと風が吹き、來良の髪が舞い上がる。來良の髪からは蒸されたシャンプーの甘ったるい香りと、薄く女の汗が混ざった匂いがした。
俺の顔に靡いた髪がかかる。パシパシと鬱陶しい。來良は扇風機の前からどくつもりはないらしく、俺は諦めて來良の後ろに身を下げることにした。
靡く髪。あ〜、という子ども地味た遊びにガキかコイツは、という感想が浮かび、実際ガキなんだと思い直す。
「あんたら、今日会ったばかりだろうに。余程馬が合うんだね。本当の兄妹みたいだよ」
そういえば、來良ちゃんは兄が欲しかったと言ってたね──と。婆ちゃんが飲み終わった麦茶を片付けに台所にやって来ると、扇風機の前で並んで座っている俺たちを見てそう零した。
「か、花重さんっ、なんだよそれ! こんなのが兄とか、全っ然欲しくないんだけど!」
「へっ。どうせなら、おっさんじゃなくて、辰巳お兄ちゃんって呼んでみるか?」
「うわ、キモ……」
突然現れた婆ちゃんに來良は驚いたようで、次いで投げ掛けられた言葉に過剰に反応した。
そして、そんな一言から口喧嘩が始まる。そんな俺らを見て婆ちゃんはクツクツと含み笑いを漏らすのだった。
□
その晩、來良も帰った夕飯時のこと。婆ちゃんから話があった。
「辰巳。アンタにこんな事言うのは責任を背負わせるみたいでどうかと思うが……來良ちゃんはね、少し危なっかしいとこがある」
婆ちゃんの表情は憂いを含む硬質なものだった。その表情とその言葉からすぐに得心した。そして同時に思いもする。ああ……、やっぱりあの子は、と。
來良は家事を習うために婆ちゃんの手伝いをしていると言っていた。それを聞いて、初めはとても立派なことだと感心したものだ。到底、俺には真似できる気がしない、と。
……だが、若い子が幾ら家族を支えるためだとしても、本当にそんな事を考えるものだろうかと俺は少しだけ違和感を覚えていた。それは少し歪んでいるのではないか、それとも俺の方の感覚がズレているのかと。
「私が來良ちゃんを初めて見掛けたときはね、母親が亡くなって暫くの頃だったが……その時は、気丈に振る舞っていたが、私には辛くて、もういっぱいいっぱいで、今にも自暴自棄になりそうな状態に見えたんだよ」
婆ちゃんはその時の事を語ってくれた。
その頃はまだ髪も黒く、普通の女の子といった見た目だったらしく、最初は近所に住む見知った女の子が暗い顔をしていたからと気楽に声をかけたのだそうだ。
「あの時は、來良ちゃんだけじゃなくて猪瀬の家自体が荒れていたみたいだからね……」
そうして声を掛け、話している内に気づいたのは小さな違和感だった。強がってはいたが笑顔に力は無く、何かに絶望しているようにも見えた。それが何によるものだったのかはわからない。そして、それに何の責任も無い赤の他人が触れていいものなのかどうかも。
婆ちゃんは悩んだという。しかし、來良を家に上げ、何気ない話をしている途中で感情が溢れてしまったのか突然、泣き出してしまったそうだ。
きっかけは些細なことだったらしい。
來良が独り言のように呟いていた、もう嫌だ、逃げたい、という言葉に婆ちゃんが反応し、ついつい気になってお節介を焼いてしまったと。そして、気づけばすっかり來良のことを放っておけなくなっていたのだと婆ちゃんは言う。
「他所様の事情だ……家のことに口を出すことは出来なかったが、辛そうな來良ちゃんを見て見ぬ振りは出来なくてね……」
だから、逃げたくなったらウチに来なさい、と言ったらしい。幸い、來良の祖父は婆ちゃんとは顔見知りでもあったし、婆ちゃんが向こうには直接話し、家事を教えるという体で許可は取れたと言うが……
來良も初めのうちはやはり遠慮していたようだが、学校のない日や辛い時に来させていたら、次第に遠慮もなくなっていったそうだ。そして始めは辛そうにしていた來良も段々と笑顔を取り戻していった。結局、婆ちゃんの前で涙を見せたのは最初の一度だけだったと。
しかし、元気になると同時期に來良の見た目も変わっていった。
付き合う友だちが変わったせいか、いつしか髪は金髪になり、時に青になったり、ピンクになったり……服装もジャージにサンダルというものに変わっていった。いつだったかは、下着のままみたいな格好で出歩いていることもあって、流石に叱ったらしい。とにかく、婆ちゃんにとってその変化は心臓に悪かったということだ。
「だからねぇ……できる限りでいい。アンタも気にかけてやっておくれ。あの子が馬鹿をやらないようにね」
「あぁ、わかった」
そう返すと婆ちゃんは安堵からホッとしたように表情を緩ませた。しかし、どこか寂しげな雰囲気も感じるのは気のせいだろうか。もしかしたら婆ちゃんも俺が間に入ることで來良に構って貰えなくなると思っているのかもしれない。
「うん。頼んだよ」
婆ちゃんはもう大分身長差のある俺の頭をくしゃっと撫でた。その手は骨と皮ばかりだが、確かに優しくて温かい。
やっぱり。皆、婆ちゃんが好きなんだなぁと思った。