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第7話 碧に映る世界 後編

「──こんな噺があんねやけど。ウチの地元には恋ヶ淵って呼ばれる池があってな、そこには……」


 伽耶子と友人関係になってからの学生生活は充実していた。伽椰子は民話研に入ってからは独自に日本各地の民話を収集するようになって、様々なことを結衣に語った。話上手かつお喋りな伽椰子は、こんな噺があります、という言葉を枕にまるで噺家のように口を回してゆく。


 それを聞いている内に、結衣もどんどん民話に詳しくなっていった。それから座学だけでは駄目だと言って、車椅子なのに妙に活動的な伽椰子に連れられて、フィールドワーク兼旅行に出る事もしばしばあった。


 そして──付き合いも長ければ、本性もバレる。伽椰子は結衣が二人きりの時に『本当の私』を曝け出しても面白がりはしても気味悪がったりなどはしなかった。むしろ、半人半霊の身に興味を示していたほどに。反対に、結衣も伽椰子の力やハンデ、今まで隠していた悪辣な性格を気にするようなことも無かった。


 二人共、素の性格が決して良いとは言えない上に、元々細かいことは気にしない質だった。互いを受け入れていたのは、趣味嗜好も似て相性が良かったというのも勿論あるが、一番の要因は二人がやっぱり同類であったからだろう。方や半人半霊の化け物、方や人の死を予言する死神と恐れられた女。今更、何を気にするのかという話だろう。


 ──その日も、実質二人きりの民話研は平和だった。サークル棟内に振り分けられた民話研の部室にて、結衣はいつものように私物の雑誌を読み返していた。


「結衣。まーた、それ読んどるん」

「別にいいでしょ。好きな男の子が載ってるのだから」

「……はぁん? これが噂の」


 二人の仲も大分深まり、お互いに名前で呼ぶようになっていた。ふと、伽椰子が古くなった雑誌のページを興味深げに覗き込んで言った。


「神隠し、なぁ……て、あらら。その人まだ死んどらん、あっ、ごめん」

「あ、やっぱりそうなんだ」


 伽椰子が雑誌に載せられた写真をチラと見て答える。人の死期が見えるということは、写真を見てその人が既に死んでいるのかどうかも判別可能という理屈であろう。


 神隠しに合い、行方不明だと言う事は、既に結衣から聞いていた。ただ、伽椰子から見た写真の彼の死期はまだまだ先の事だったので、ポロッと口から出てしまっていた。


 それを聞いた結衣はやはり自身の勘が当たっていた事を嬉しく思った。ならば、やはりその内帰ってくるのだろう、待っていることは間違いではないのだろう、と。


「好きって気持ちが最近やっと分かったから、次に会えたら話かけてみるんだ」

「……ほんまに再会できるかも分かれへんのに、大して話した事もあれへん相手を一途に想い続けるなんて……自分どんなストーカー気質なん?」

「ふふふ」

「あんな、全然褒めとらんのよ」


 流石の伽椰子も結衣の執着心には引かざるを得なかった。何せ、小学生の頃から醸成され続けたクソデカ好意感情持ちに、その頃に貰った飴玉をお守りとして未だに大事に保管しているくらいだ。しかも、その相手とはろくに話もしたことが無いという異常。ついでに言えば、本人はつい最近まで好意の感情をよく理解していなかったという意味の分からなさだ。


(雑誌のなかのアンタ……気張りやぁ。結衣はやっぱりガチもんのサイコパスやったで……)


 伽椰子は心の中で合掌した。


 何せ、この大学生の結衣は高校時代の暗黒期から抜け出し、現在は私生活も充実、絶好調である。結衣も妄想の中でなら、もう何度孕んだか分からないほど。再会してからの声掛け、交際、結婚、出産、子育てまでの脳内シミュレーションは完璧である。


「流石にキモいで……」

「……会ったら伽椰子もわかりそうだけど」

「何やそら、逆に怖いわ」


 そうかなぁ、と結衣は首を傾げたのだった。取り敢えず、再会しても伽椰子に会わせるのは止めておこうと結衣は思った、という日であった。


 □


 また結衣は基本的に取り繕った外見が凛とした美人ではあるため、大学のゼミの交流会で知り合った他大学の男子学生からナンパされることもあった。無論、学内での結衣の噂を知らない哀れな子羊である。


 その男子学生は誠実そうで、清潔感があったが、人の心の見える結衣には彼の嘘がお見通しだった。普段から暇潰しに人の心を読み込んでいる結衣は、表向きニコニコといい顔をしている奴ほど、内心は汚いことがあると知っていた。


「ね、ね。結衣ちゃんって、可愛いね。彼氏いるの?」

 ──あ〜、やりてぇ。下半身イライラさせた責任とれよ。


「良かったらさ、今度ご飯に行かない?」

 ──ランチとかメンドクセー。夜に連れ出すのが腕の見せどころってもんでしょ。


「この前、お洒落な所見つけてさぁ。結衣ちゃんと行ってみたいなって。当然お金は俺が出すよ」

 ──かかれ〜、かかれよ〜。美味しい餌ですよ〜。そういうのが好きなんでしょ? 


「何か聞いた限りだと、料理も美味しいらしいよ。夜だとお酒も色んな種類あるって」

 ──あー、早く釣れろや。カプセル、まだ家にあったっけなぁ? 


 これまで告白してきた有象無象の中でも、群を抜いて嘘も演技も上手だったが、結衣の前ではそんなものは関係ない。結衣の眼には彼の下種な欲望がありありと見えていた。


 彼の目的は都合のいい女の調達、性欲処理の相手を作ること。いきなり夜飯に誘われた所から目的は見え見えではあったが、酒を飲ませて前後不覚にしてホテルなりに連れ込む魂胆のようだった。


「あ、ごめんごめん。警戒しちゃったよね、勿論グループでだよ!」

 ──チッ、なんだよガード固えなぁ。せっかく俺が誘ってやってんだからよ、さっさと頷けや。


「俺、そんな変な事なんて考えてないから!」

 ──ぜってー、逃さねぇ。どうやって言うこと聞かせっかなぁ。


「ただ純粋に結衣ちゃんがタイプだったからさ……」

 ──あー、コイツ、マジでイラつくわ。ハ○撮り確定〜。先輩に動画売ったろ。


 彼とは生物としての格、精神性からして雲泥の差だと結衣は思った。いや、比べることすら烏滸がましい。薄っぺらい魂に、薄弱な意思、薄汚い欲望。お前、何で生まれてきたの? と疑問が浮かぶ程の、塵芥、有象無象の内でも最下級にいる人間の一人という評価でしかない。


「ねぇ、消えてくれない? 性犯罪者とご飯なんて生理的に無理に決まってるじゃない」

「あ゛?」

 ──コイツ……


 と、結衣は路傍に落ちている糞を見るような目であっさり断ったのだった。


 ちなみに、結衣は大学の学内ではとある事件からユイコパス、尊厳破壊の悪魔、ハートクラッシャー結衣、人の心とかないんか? 等、影でかなり酷い渾名で呼ばれて恐れられていたりする。なお、まかり間違っても同学年の男子学生は結衣をご飯に誘うような事はしない模様。


 ──そう呼ばれるに至る切っ掛けとなったエピソードもある。それは学内のコンパで、結衣が初めてお酒を飲むことになった時のことである。


 まあ、年頃の女の子にありがちな失敗と言ってしまえばそうだが、自身の許容量を知らないが故の粗相。結衣の場合は許容量が極端に低い、絶対に飲ませてはいけない輩であった。


 当初、結衣はコンパに乗り気では無かったが、伽椰子が一度くらいは行ってみたいというので仕方なくの参加であった。当たり障りのない会話をしつつも早く帰りたいオーラを出していたのだろう。


 楽しめていない、と気を利かせたつもりの男子学生が結衣に酒を勧め、結衣はそれを断っていたのだ。しかし、皆が飲んでいるのだからと意地になった男子学生に執拗に飲酒を勧められ、いい加減キレた結衣が彼からグラスを取り上げて一気に呷った。


 すると、その瞬間に脳の一部がグワン、と歪曲した感覚に襲われ、結衣は意識を失うことになった。


 次に結衣の意識が覚醒すると、一人の男子学生が呆然と泣いており、皆に慰められていたという話だ。


 周囲からの視点では、もっと分かりやすい。結衣の顕在意識が消えると同時に、彼女は卑屈な笑みを浮かべて彼のこれまで生きてきた内に生まれた秘密という秘密を皆の前で全てバラし始めたのだ。その喋り口は正しく結衣の実家の山に住む心を読む猿のようであった。


 ──小学生の頃、従兄弟の姉ちゃんの裸見たさに風呂に突入したことがあること。

 ──ウンコ漏らしたことがあること。

 ──13歳で精通し、高校の授業中、妄想だけで手を使わずにイッたことがあること。

 ──彼が中学の頃に好きだった女の子の名前。

 ──その女の子のオッパイを事故を装って触った事があること。

 ──高校生にもなって先生をお母さんと呼んでしまったこと。

 ──いつも、初恋の女の子に似た女優をオカズにしていること。

 ──最近、玩具を買ってみたこと。

 ──実は素人童貞であること。


 一気に喋りきった結衣はそのまま糸が切れたように倒れ、眠りについた。


 微妙に犯罪的な内容が含まれていたが、当時まだ子どものした事である。セーフであろう。むしろ、完全な犯罪というものを犯したことがなかったのを鑑みるに、男子学生は性への関心が少々高い、わりかし善良な方ではあったのだろう。


 その暴露に学生達(特に男子)は恐怖したという……なお、その時の彼女が何故男子学生の恥ずかしい秘密を知っていたのかについては、偶々いた同期のお仲間である雙羽朱音と橋立伊都の二人が機転を聞かせ、神懸かりだったのではという話の流れに持っていったそうだ。神道系学科なので、そういうこともあるかと意外と何とかなったらしい。


 ……ちなみに、一緒にいた筈の伽椰子はアルコールで馬鹿になり、結衣の様子を見て腹を抱えて笑っていたそうな。


 ──話は戻って。


 結衣を誘った他大学の男子学生の目は怒りに燃えていた。それは明らかに仕返しを目論むものであった。無論、それも結衣にはバレていることである。


 結衣はそれを面倒くさいなぁ、と適当にあしらう腹積もりであった。……が、その話を聞いた性格の悪い伽椰子が結衣に待ったをかける。


 曰く、良心が痛まずに今研究中のアレについて、実験の対象とするにはかっこうの輩であると。二度と女の子に悪さが出来んようにしといたるのが、世のため人のためやと、悪辣! 卑怯! 控え目に言って人間のクズ! の三拍子揃った伽椰子がニチャァという粘度のある笑みを浮かべたのだった。


 結衣は初めこそ『良心』に従って拒否したが、伽椰子の口車に抗う事は出来なかった。これは結衣の大切な存在を取り戻す為に、必要な事だと言われてしまえば彼女としては『良心』よりも優先せざるを得なかったのだ。


 □


 そして後日──結衣は民話研に顔を出した帰りの夕暮れ時、予定通り、ガラの悪い集団に遭遇し道を遮るように囲まれたのだった。


 瞳孔がかっぴらき、目の周りが心なしか黒ずんで見える。その集団はイキっているのかハイテンションでゲラゲラと不快な笑い声をあげながら結衣に詰め寄ってきた。


 結衣は怯えるようにして足早に今来た道を戻ろうとする。……しかし、待ち伏せしていたのか、逃げた先にも男達が現れ逃げ道を塞ぐように結衣を追い詰めていった。電線の上のカラスが黒い目玉にその光景を映し、カァーと一声鳴いていた。


 ──そして、誘導されるようにして辿り着いた人通りのない、緩やかな傾斜のついた細い裏道。そこにはごちゃごちゃした室外機と放置されたガラクタとゴミ、すえた臭いが立ち込めていた。


「何なのよ、あなた達っ! ついてこないで!」


 逃げ場を失い、後退りしながら叫ぶ。すると、結衣を取り囲む男達の一人──リーダー格の男が顎をしゃくるようにして他の男連中を使い、結衣を囲ませた。


 明らかに精神的に異常な集団だった。出歩いていたら直ぐにでも職質されるような雰囲気であることは間違いない。


「ね、いいじゃんいいじゃん、ちょっとお喋りするだけだって」

「女の子追い詰めんの、タノシィィー!」

「なんだ。スゲー、かわいい子なんじゃん」

「ちょっと俺達についてきてくんない? なに、悪いようにはしないからさ」

「そう怖がんなって。後で感謝したくなるような体験、沢山させてやるからよ」

「それいいネェ〜。どうよ? キミだって、そういうことに興味はあるっしょ?」


 などと、ゲラゲラ自分本位に好き勝手騒ぎ立てる。


「嫌よ。 あなた達みたいな、見るからに下品な人達が好みそうな事……絶対するわけないじゃない!」


 結衣は嫌悪感を露わに、頑なに拒絶する。男達の表情が機嫌の良さげな笑顔から明らかに不機嫌な嘲りへと変わり、集団の一人が苛立ちながら手を振り上げた。


「ちっ……女のくせに生意気なんだよ。 大人しく着いて来いや!」


 バシッと派手な音が響き、結衣の頰に真っ赤な跡が付く。結衣はその衝撃で倒れ込んだ。


「っ……!」


 暴力を振るわれた恐怖と、痛みに身を震わせる結衣。それを見て、男達は少しだけ溜飲が下がり、支配欲を満たすものが得られたのか再び下品な笑いを浮かべた。


「へぇっ……良い反応。何か気に入っちゃったかも」

「従順な女は好きだぜ。女は男の言う事聞いてりゃいいんだよ」

「どーする? いつもみたいに彼処に連れ込んじゃおっか?」


 男の言う彼処とは、彼らがいつも溜まり場にしたり、連れ去ってきた女を運び入れ、気の済むまで凌辱するのに使っている場所のことだ。


「そうだな……アイツも裏動画欲しいとか言ってたしなァ」


 つまりは、標的を監禁する場所として利用されている犯罪が行われる場所。


「あー、クルマ取ってくんのダリー」

「まぁ、そう言うなって。お楽しみが出来たんだかよ」

「機材って全部クルマ?」

「うわ、準備からかよ。面倒くさー」

「やんなら徹底的にやらねぇとな……後でサツにでも行かれたら面倒だしよ」


 そうして被害者となった女性は一生消えない傷を負い、泥沼に嵌められたまま屍のように生きることになる。クズ達は皮算用をたてると、顔を欲望で醜く歪ませながら笑い合った。


 クズ達は興奮した様子で口々に、普通じゃつまらないだの、エッチな下着を着てもらうだの、薬はあるかだのと、あーだこーだと穢れた欲望に満ちたシチュを言い合う。


「……」


 一方の結衣は何も口にすることなく、逃げるような素振りも見せない。ただ、殴られた頰を押さえていた。


「おい、さっさと行くぞ」


 リーダー格の男が言いながら結衣の手を掴み、引っ張ろうとする。しかし、その手は結衣によって払われた。


「あ? こいつ……!」


 ガラの悪い集団のリーダー格の男が下卑た笑みを浮かべて、殴られてから俯いたままでいる結衣の髪を掴み上げ、顔を覗き込もうとした。


 だがその男が見たのは──怯えた女の表情などではなく、愉悦と歓喜に歪む不気味な表情だった。


「なんだ、この女……」


 その表情にゾッとして──パッと手を離した。それから勢いよく後ろを振り返る。男の背後に気配を感じたのだ。背筋に氷を当てられたかのような異常。


 背後を振り返りよく辺りを見回す。しかし、そこには来た道があるだけだった。夕暮れ時、緩い坂になった裏道。夕日に照らされた影があるだけ。


 ただ、それを見て……違和感があった。何が変わったのかは分からない。だが明らかに何かが変わっていた。


 ──そうだ。空気だ、空気が違うのだ。澱んだ空気。胸が詰まるような違和感を感じる。


 昼と夜の間、逢魔時。赤い日が急速に堕ちてゆく。建物と建物の間に日が吸い込まれるように消え、影が深くなってゆく。昼の世界は夜へと変貌してゆく。


 ──カァー、という烏の鳴き声が一度だけ聞こえた。


「な、なぁ、気の所為? ここなんか可笑しくねぇ?」

「あ、あぁ、気味が悪ぃ。さっさと女攫って戻ろうぜ」


 ヒュゥ──


 と、生温い空気が首に巻き付いたように寒気が走る。女を犯せると息巻いていた他の男達の威勢も静まり返り、ようやくその異変に気づいたようだった。


「え……? なんだ、あれ……」


 その内の一人が何かに気がついた。


 ──元来た道が真っ黒に塗り潰されたように無くなっている。


「道が、ない……?」

「んな、馬鹿な……」

「え? え? え?」


 集団は困惑した。ついさっきまでは夕暮れ時で、夜にはなっていなかった筈だ。いくら、建物の影が多いとはいえ、暗すぎる。それに近くにいくつもある筈の店の灯りすら一つもない……一寸先は闇。


 その先に何も見ることが出来ない。不思議なことだが、その闇の先が元いた場所に続いているのかどうか、彼らには確信が持てなかった。


 彼らは結衣に痛い目を見せるため、暴行を加えるつもりの下種丸出しの男達のはずだった。だが、今の彼らは顔が青褪め、困惑と恐怖心から一歩も動く事ができないでいた。何か異常な事が起きている。急速に心の底に広がってゆく不安。明らかな身の危険を感じており、最早それどころでは無かった。


 ──ふと気づく。


 遠くで何かが聞こえた気がした。


『通りゃんせ── 通りゃんせ──』


 どこからとも無く聞こえてくるのは謡だ。壊れた室外機の影から。ゴミの山の向こう側から。見通せない暗がりの奥から聞こえて来る気がする。


 ジクジクと精神を病むかのように、恐怖心が伝播してゆく。誰かの吐息が聞こえた。どくん、どくん、と耳の奥で聞こえるのは自身の心臓の音に違いなかった。


『ここはどこの── 細道じゃ──』


 息遣いが荒くなる。聞きたくない。聞きたくない。だが、耳を塞ぐ事さえも思いつかない。硬直したかのように思考が出来なかった。ただただ、無抵抗。耳の中に音を流し込まれていく。


 ──気づけば。いつの間にか、女の傍には黄色いカッパを着た小学生くらいの男の子の姿があった。その姿は所々青白く透けているようにも見える。


「ゆ、ゆうれい……?」


 何とか発することが出来たのは緊張で掠れた声だった。精神が幼いとはいえ、大の大人である男達が、小学生くらいの年頃の男の子に恐怖していた。元々が集団で群れることでしか威勢を保つことのできない臆病な者たちだ。彼らの心は容易く千々に乱れてゆく。


 男達を見ているようで見ていない、色の無い無機質な目。男の子の口から変声期前の涼やかで楽しげな声音が響く。


『天神、さまの── 細道じゃ──』


 男の子が口ずさんでいたのは『とおりゃんせ』の謡だ。有名な童歌で、江戸期から子どもの遊びに用いられていたと言われているが、知名度に反して、現代ではその遊びをした者は多くは無いのではないだろうか。


 そして、童歌というのは、古くは大人が執り行う神事を子どもが真似た遊びだとも言われている。つまり童歌は神事の代替としても機能する儀式と言い換える事が出来た。


 問題は、それが何の儀式であるのか。


「あなた達、私と遊びたかったのでしょう──?」


 そこでようやく口を開いた結衣。


 男達には、その妙に映える紅を引いた唇が笑みの形に変形し、浮かび上がった白い歯が下弦の三日月のように見えた。


『ちぃ、と通して── 下しゃんせ──』


 変声期前の中性的な声で朗々と謡い上げる男の子。全てが眠りについたような、死んでいるようにも思える。都会の風景には珍しい静寂に、唯一響き渡るのは透き通った音の波だ。


 ドクドクという動悸が苦しい。耳鳴りもした。頭も重い気がする。


「お、おい、趣味悪ぃぞ、やめろっ」

「頼む……その歌を止めてくれ! 耳塞いでも聞こえてくんだよぉ!」


 遙々と波が伝わる。響き渡り、影が揺れる。揺れ動く。道端のガラクタが此方を見ているような気がした。室外機の中に誰かがいて、此方を責めている気がした。掃き捨てられたゴミが這い寄って来ているような気がした。


 ──シャリン、と男達の耳の中で鈴の音が鳴る。


「お、俺らが悪かった、悪かったぁ!」

「謝るから帰してくれぇ!」

「あんたに乱暴しようなんて考えて悪かったよ! もうあんたの前には現れねえ! だから……!」


 狂う。荒れ狂う。心が恐れに染まり掻き乱された。頭を抱えて涙した。


 どっどっ。どっどっ。


 心臓の音が耳に痛い。


 如何にも、こんなつもりでは無かったとばかりに。こんな生き方をしたかった訳じゃない。これ以外の生き方が選べなかっただけなんだ。道を踏み外してしまったのは俺のせいじゃない。全部周りが悪いせいだと。


 犯してきた数々の悪事が脳裏にフラッシュバックする。悲鳴。怒声。嘆き。溢れ出す罪悪感。罪の意識。だが、それも今更のこと。改心しようなど全て遅きに失するのだ。


『御用のないもの 通しゃせぬ──』


 謡が止む事は無い。男達にはその歌がカウントダウンのように聞こえていた。歌い終わってしまったらどうなるのだろうか。想像もつかない。わからない。こわい。どうか終わらないでくれ、聞きたくない、もうやめてくれ、と願うばかり。


「お、おれにはおんなと、こどもが……」

「……あなたのような親なんていない方がいいわ。どうせ母、子を捨てて逃げる。早いか遅いかの違いだもの」


 無機質に告げる。それが真実、未来だとばかりに。もとより結衣には帰すつもりなど欠片も無かったのだ。これは必要なこと。私の目的のためには。愛しいあの人──石動くんを取り戻す為には必要な犠牲だからと。


『この子の七つの お祝いに──』

『お札を納めに まいります──』


 逃げよう。早く逃げなくちゃいけない。でも、何処へ? 


 あの、背後の得体のしれない暗闇に? ──むりだ、絶対にいやだ。


 あの子どもの幽霊が現れてから、ずっと耳の奥で音が止まない。ジンジンと脳に滲み蝕むような音がする。


 逃げてどうなるかはわからない。でも、早く逃げなきゃ取り返しのつかないことになる予感がある。でも、何処に……


 そんなことを考えるのだが、視界が狭まり、焦りから何度も思考がループしてしまいもどかしい。意識はクリアなのに、荒い吐息や心臓の音が耳に聞こえ、妙に指の先から身体が冷えていく感覚が妙に気になって仕方がない。


『行きはよいよい 帰りはこわい』

『こわいながらも──』


 あぁ……そんな……いやだ、いやだ、おわらせないでくれ、という誰かの懇願が聞こえた。


「うふふ……行きはよいよい、帰りは怖い。遊ぶのでしょう? 追いかけっこよ。私も昔、よく友だちとしたわ」


『通りゃんせ── 通りゃんせ──』


 ──謡い終わる。いつの間にやら、黄色いカッパのフードの下にあった男の子の顔は不出来な狐じみたバケモノへと変わっており、男の子に変じていた化け狐が、かぱり、と大きく裂けたような口を開くと、中からは真っ赤な色が見えた。


「……あら? もしかして、この遊び知らない? 逃げないとすぐ死んじゃうわよ?」


『こわいはずだよ狐が通る──』


 大きく開いた口。一瞬にして、異形が距離を詰める。鋭い犬歯が男の一人の首元に突き刺さり、ギチリ、と裂肉歯が内頸静脈まで一気に断ち切った。


 ──赤、赤、赤。


 ブワッと溢れ出した赤い海。噛み付かれた男は最初何が起こったのか理解出来ないという風に啞然としていたが、あっという間に意識を失って、どう、と倒れ込んだ。


「ひあっ」

「あ、あ……あぁ、あ……」

「た、たすけっ、たすけっ、たすけてっ」


「ひ、ぃぎゃァァァァァ──」


 一瞬の間。いち早く状況を理解したリーダー格だった男が情けない悲鳴をあげ、結衣の側を抜けて逃げてゆく。それに遅れて、残りの男達も足を縺れさせながら駆け出していった。後ろを振り返ることなく。細い裏道の坂を駆け昇る。その先にあるのは、元の世界か、何処か別の場所か。


「振り返らない方がいいわ。帰れなくなるもの。あなた達は前に進むしかないの」

「頑張ってね。もしも、彼を見つけて来てくれたら、お礼はしてあげる」


 そんな逃げてゆく彼らに結衣は声をかけたが──その声が届くことは無いのだろう。


 □


 遠くで運動部の発する掛け声やホイッスルの音が聞こえる。窓を開けると、外から涼し気な風が入り込んできた。


 いつもの日常。その日も結衣は民話研の部室に顔を出していた。特に用事はない。強いて言えば、家に帰っても掃除をするか、夕飯の準備をするしかやる事が無い為だ。


 いつものように部屋に備え付けてあるケトルでお湯を沸かし、持ち込んだティーバッグをお気に入りのマグカップに入れる。お湯が沸くのを結衣はボーッと待っていた。


 本のページを捲る、カサリ、という音。音の主は窓の近くで良く分からない本を読んでいる伽椰子だ。暫くの間、無心で読み進めていると、伽椰子はポツリと軽く雑談するように呟いた。


「そういえばなんやけど、こないだのあの下種共どないなったん?」

「ん……残念ながら、駄目だったみたい」

「そっかー」


 まるで日常の会話のいち場面のように、サラリと片付き、流れてゆく。


「ならまだまだ研究が必要みたいやなぁ。あれから少し考えてみたんやけど、異界への解釈がちぃっと甘かったんやないかなぁって──」


 伽椰子は数日前のことを振り返る。自身の仕掛けた意図的に異界への道を開く方法。今回は何処にでもあるような緩い坂を、黄泉比良坂に見立てて意味づけをしてみたが、やはりなんの謂われもない土地である。伽椰子が求めていた結果が得られたとは到底言えなかった。


 ただ一方で、怪異と人間の恐怖の感情を利用した異界への接触。怪異により現実を変異させ、人間の恐怖と想像力により、未知/道を安定させる。その研究は少しずつではあるが、進捗を見せていた。


 ──二人が求めていたモノ。それは向こう側へと人を送り、帰って来た者から向こう側で観測した情報を得るというもの。それには、向こう側に人間が渡っても無事でいられるのかや、帰って来たとしても以前と同じでいられるのか、といった検証も含まれていた。


 初め、結衣は単独で異界に干渉もしくは渡る方法を考えていたのだが、それを知った伽椰子が面白そうだと協力を申し出たのだ。


 結衣には一応の良心があるため、人を使った実験は自ら進んでする事はない。だが、一方の伽椰子は自身の目的のためなら犠牲も厭わないという、倫理観の欠如がみられた。無論、ただの一般人を使うのでは無く、比較的居なくなっても騒がれなさそうな、居なくなっても勝手に理由が作られそうな輩を選ぶあたり性悪であった。


「むぅ……そういや、もう一人おった筈やろ? もう一回遊べるドンッ、てとことちゃうの?」

「ドン……? そういえばいたわね……すっかり存在を忘れてたけど」


 しかし、どうやら伽椰子は今回の実験の結果に納得がいっていないらしい。遊べる、と言ってしまっているあたり、本心は何処にあるのかは伽椰子のみぞ知ることだ。まぁ、やろうと思えば結衣ならその考えも読めるのだが。


 それはともかく。


 結衣のその興味無さげな返事に伽椰子は肩をすくめて呆れたように溜息を吐いた。伽椰子が読んでいた本を閉じる。


 ケトルからゴポゴポと沸騰する音が聞こえてくる。結衣がティーバッグを入れたままマグカップにお湯を注ぐと、すぐにティーバッグから成分が染み出してきた。


「そんで、今考えとるんがな? 渋谷七人ミサキの怪談と掛けて、黄泉、冥界、あの世への道を開くって方法なんやけど」

「あれって女子高生の話じゃなかった?」

「少し調べたんやけどな? ちょうど七人女が自殺で死んどるみたいやねん、ソレの周りでな?」

「あぁ〜……その七人を見立てようってこと……伽椰子、あなたも私のことサイコパスとか言えないわよ」


 結衣は伽椰子を見ているとよっぽと自分よりサイコパスじゃないかと思う。そう言うと、伽椰子はイヒヒ、バレた? と茶化した。


「だけどなぁ、彼ピッピのために犠牲無視してまで、向こうに干渉しようなんて結衣ちゃんも随分健気やん?」

「彼ピッピって何よ」


 え、知らんの? 等々と、からかい合いがあったが、結衣は伽椰子の提示した手法を否定することはなかった。


 元より自分はそういう化け物だと思っていたし、決してサイコパスなどと呼ばれている理由にこそ納得したわけではなかったが、目的を果たす為なら手段を選ぶつもりはもう無かったのだ。


 ──その後も部室では、あの民話にはこんな話があった、もしかしたらこれはヒントになるんじゃないか、といったものや、だとしたら実験に使う人間も分類しなきゃいけないんじゃないか、という物騒な意見まで淡々と議論が進められてゆく。


 花の女子大生と呼ぶには血なまぐさく殺伐としてはいたが、二人にとってこの部屋は、いつの間にか居心地の良い場所になっていたのだった。


 □


 時はとんで、現在──結衣は家の神社の手伝いをしつつ、自身の生活のために地元の資料館に学芸員として就職する事になった。


 元々、結衣の生家は神社を管理してはいるが、観光客など全く来ないし、神楽木の歴史こそあるものの、社としては地元以外ではもうあまり有名とは言えない。


 生家があまり好きでは無かった結衣としては、巫女になるのも、権宮司や禰宜になるのも、なんとなく気が進まなかったのもある。元々神社を継ぐ気はあまり無かったのだから。


 だが、神社の手伝いをしながら働く、というある意味中途半端な状態になっていたのは、現宮司の父親がどうしてもというので渋々間を取った経緯があったのだ。


 ──そして、これまで伽椰子と一緒に研究した異界を渡る方法も、結局は実を結ぶことは無かった。伽椰子は卒業の時までに儀式が完成しなかったことを悔やんでいたが、彼女は悪くない。元々、結衣が一人で始めたことなのだ。


 成果としては、精々が道を繋ぎやすくするくらいで、此方側から向こう側に干渉して、行き先を選びつつ安全に渡るなんて事は夢のまた夢。少なくとも神ならぬ人の身には不可能に近いと、結衣は大きな失望を抱えていた。期待を裏切られ、結衣はその時、生まれて初めて泣きそうになった。


 果てには──黄泉子である自身であるなら、異界へ渡ることも可能性なのではないか、と自暴自棄、希死念慮に近い思考に捉われることも多くなっていた。


 それから、地元に戻ってきて生活にも慣れた、数年経ったある時。いつものように学芸員としての仕事をこなしていると、職場の同僚が話をしているのが聞こえてきた。


 曰く、12年間行方不明だった男の子が帰って来た、という噂が流れている、と。


 結衣の心臓の鼓動は早まり、心は千々に乱れた。彼の顔がまた見られるかもしれないという希望、彼が昔と変わってしまっていたらどうしようという不安、本当に帰ってきたのかという疑念、もしも会えたら今度こそ話しかけられるだろうかという緊張……沢山の感情が入り混じって頭がパンクしそうになった。


 でも、それがもしも本当のことなら──


 ずっと想いを寄せていた相手だ。どうしても心は弾んでゆく。まだ帰ってきたのが彼だとは確定もしていないのに。


 居ても立っても居られない、と半休を申請したが上長に却下された。呪い殺してやろうかと結衣は本気で思った。結衣は仕事が終わったらすぐさま彼の生家に向かい、戻ってきたのが本当に彼なのか確かめようと考えた。


 しかし──


 確認に向かうまでもなく、彼女は一人の客が資料館に入場してくるのを目撃した。結衣は一目見て分かった。あの男性は成長した少年なのだと。


(会いに来てくれた! 会いに来てくれた!)


 歓喜が心の底から溢れ出す。


 男性が振り返る──子どもの頃に見た寝ぼけ眼だった額の第三の眼は……やっぱり眠たげのまま。


 その男性を見ると、ずっと、心臓が鼓動することを忘れていたかのように胸の内が苦しくなってくる。そうだ、これが好きという感情なんだ。『本当の私』の気持ちなのだと。


 ずっと彼が帰ってくるのを待っていた。そして、ずっと前から決めていた。


 ──声の調子は大丈夫か? 

 ──今の身だしなみに変な所はないか? 

 ──話す内容は覚えているか? 

 ──いける。頑張れ、私! 


 次に会えた時こそ、私から声をかけるのだと。


「あ、あのっ──」

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