第6話 碧に映る世界 中編
「石動くん、いなくなっちゃった……」
結衣はその事件の詳細をテレビで知った。
曰く、もうすぐ高校入学間際の少年がランニング中に何らかの要因で失踪してしまったと。テレビの中の人は、警察による捜索にも引っかからないことから誘拐や拉致、何らかの事件に巻き込まれた可能性があるとも言っていた。
後からすると、一過性のものではあったが報道は異常に加熱しており、結衣の住む町までルポライターが来たこともあった。その内容は大々的に取り上げられ、彼の来歴やら趣味、友人へのインタビューなど沢山の情報が世に出ることになった。尚、結衣がそれらの雑誌を全種買うことになったのは当然の流れである。
「石動くんの写真」
雑誌に載せられている白黒の彼の写真を結衣は指で優しく撫でる。
成果が出ることなく時間がたち、捜索は打ち切られることになった。すると今度は何故見つからないのか、という警察の捜索方法に対する批判が高まり……一頻り批判し、次いでそれに飽きると今度は彼の母親が怪しい、実は殺害を企てていたんじゃないかという無責任極まりない誹謗中傷まで世に出回ることになった。
──それには、そんな訳ある筈ないのにと流石の結衣も呆れた。
何故なら、既に結衣は彼が月隠山の神隠しに遭遇したのだと調べをつけていたから。
月隠山は昔から神隠しがよく発生することで有名な山である。何年かに一度は山を登ったきり帰ってこなくなった人や、いなくなる前に行方不明者が山に入ってゆくのを見たという噂が定期的に出てくるのだ。
そもそも、山というのは基本的に異界への入口が開きやすい場所と言われている。古く修験道では山中他界の概念も存在し、黄泉子のルーツでもある異界はヤマよりヨミに通じている。山の上には黄泉がある。故に山では異界への入口が開きやすく、迷いやすいもの。
──結衣自身、月隠山に神隠しの調査に赴いたこともあった。しかし、月隠山は険しい道が多く、体力のない結衣では独力で登るのは困難を極め、当然危険も大きい。なんとか独力で中程まで登ることが出来た時でもそれ以上は不可能だった。その時は手掛かりを見つけることも、異変の異の字すら現れることもなく、結衣は歯噛みすることになっていた。骨折り損のくたびれ儲けという奴であった。
だから、結衣には少年がいなくなった後もずっと帰ってくるのを待っているしかなかった。少年が本当に帰ってくるのかは分からず、帰ってこられない可能性もまた理解していた。でも──あの少年ならばまた会えるような気がしていたから。
だから、結衣は無為に焦ることなく、来る日も来る日も少年の帰りを待ち続けた。少年のことが書かれた雑誌を何度も読み返し、卒業アルバムの中の彼の姿を見返す。それに、今更結衣の心が少年への執着から逃れることが出来なかったというのもある。結衣の異形の心は人間のそれとは異なり、執着を捨てるということをしない。その現状から結衣はこう想像した。
──これって何だか昔の戦争小説みたいだ、と。戦争にいった夫を見送り、家でその帰りを待つ妻。その姿を自身に照らし合わせて思う。自分はなんて健気なんだろうと。
「オェッ……ハキソウ、ダゼ……アタマ、オカシイダロ……」
そんな結衣の心をたまたま読んでしまった喋る猿はえずき、吐きそうになって具合悪そうに寝床へと帰ってゆく。そんな猿の様子など気にも留めず、結衣は妄想を続ける毎日であった。
□
──高校生になって、結衣は再び擬態を始めることにした。
おかしな話だが、『本当の私』を見てほしい少年は此処にはいなかったから。本来の姿を晒して違和感を抱かれることよりも日常に溶け込むことを優先する必要があった。だから擬態した。誰が見ても美しく、人の集団にあって違和感を抱かれないように。
しかし……
「え、あれ誰? カワイ〜……」
「ちょっ、お前番号聞いてこいよ!」
「はぁっ!? お前が行けって!」
「……何アイツ。ウザー」
「あーね。調子乗ってて頭くるわ」
「肌白すぎて逆に気持ち悪くね?」
結衣がただそこにいるだけで有象無象の声が耳に入ってくる。非常に鬱陶しい。だが、それだけならば何の問題もない。何も聞こえていないふりをして、関わらないようにしていればいいだけなのだから。
しかしながら、頭の良い結衣にも誤算があった。それは男子高校生の頭の悪さ加減と性欲の強さ、女子高生の陰湿さと自己顕示欲だ。
男子生徒からは性的な目で見られるようになり、無駄に声を掛けられるようになった。また、自身より美しく目立つ者が許せない女子生徒からは陰口を叩かれる。入学早々に男子生徒に告白された回数も既に片手の指の本数くらいはあるし、女子生徒に至っては入学してからそれほど日が経っていないにも関わらず陰湿な嫌がらせを受け始めていた。
故に──
「馬鹿馬鹿しい」
とばかりに、それを鬱陶しがった結衣は擬態のレベルを落とし、地味で目立たないよう気配を潜めることにした。
だがそれでも、美しかった時の結衣を知っているためか、鬱陶しくも絡んで来ようとする下心満載の馬鹿や、嫌がらせをすることで劣等感を隠そうとしているのか何が何でもマウントを取ろうとする阿呆もいた。だからそんな彼ら彼女らには隠している筈の秘密の噂を流して不幸になって貰った。
「──ねぇ、聞いた? 3組のアイツさ夜遊びし過ぎて補導されたって聞いたよ」
「そうなの? 私が聞いたのはオヤジと援交してたって話だけど」
「マジ? アイツ、偉そうなこと散々私達に言ってた癖にそんな事してたの。ビッチじゃん」
「マジそれ。ないわー。私、付き合いやめるわ」
「私もー。同じに見られたくないし」
「──サッカー部のアイツ、タバコ吸ってんの見つかって退部になったってよ」
「えぇ? でもアイツ、スポーツ特待生じゃなかったっけ?」
「あぁ、だから普通科に移るらしい。アイツこれまでも成績悪いのに大丈夫なのかね? 真面目に授業受けたこともない奴が、勉強する気になるのかね」
「さぁ……あ、てか知ってる? そいつ過去に女の子孕ませて堕ろさせてたって噂……」
「えっ……何だそれ。マジ? 本当だったらサイッテーだな! クズ野郎じゃん!」
そうする事で、彼ら彼女らは今までとは打って変わって大人しくなったり、学校そのものに来なくなったりするのだ。そんなことを何度か繰り返し、周りとの交流を断っていれば、いつの間にか結衣の周りには人がいなくなり静かになっていったのである。
日がな自分の席で過ごし、自分から誰と話しに行く訳でもない。休み時間は読書して時間を潰し、誘われない限りは一人で弁当を食べる。結衣は周囲からは名前こそ知られてはいるが、よくわからない人物という評価になっていた。
──以降、結衣は事を荒立てることなく、大人しく高校生活を送り卒業した。結衣にとっては非常につまらない無味乾燥とした三年間だったと言えよう。
彼がこの場にいたらどれだけ有意義な学校生活だっただろうと考えたことは数知れない。
結衣は妄想する。もしかしたら何かの拍子に恋人関係になっていたかもしれないし、楽しい学校生活を送れていたかもしれない。若い性の衝動に任せてハチャメチャになることもあったかもしれない。そう考えると、結衣は無駄な時間を浪費した気がして、ものすごく腹がたってきたのだった。
「イヤ……ソレハ、オカシイダロ」
友達の喋る猿がツッコんだが、結衣にその言葉が届くことは終ぞなかった。
──ともかく。表面上は普通を装い続けた結衣であったが、『本当の私』は有象無象の中での生活を余儀なくされ、一向に解消されることのないストレスを溜め込んでいった。
つまりは、表面上は平静であったが、彼女の内心は荒みに荒んでいたということであった。
□
高校の卒業後、結衣は東京の神道系の大学に進学し階位の資格を取ることにした。階位、というのは神社を継ぐのに必要な資格で、結衣は親類縁者、地元の氏子衆にそれを求められていたのだ。
そして、大学に進学して分かったことだが、どうやら日本には結衣以外にも不思議な力を持っている人というのはそれなりにいたらしい。大学という場所には全国から様々な事情の同年代が集まってくる。結衣の進学した桜東學院大という場所にはその特異性もあってか様々な人材が入学してくるようだった。
「私と同じ化け物が一人……二人……三人……いっぱいいる」
驚く結衣。その見ることに長けた碧の眼には、様々な特徴の人物が映っている。結衣とはまったく異なるタイプで、しかし、独特な雰囲気を持つ者たちだ。例えば……
──雙羽朱音ふたば あかねという子は桜東大の神道学科を専攻していて、実家が大きな神社であるために、とある特殊な事情を抱えた神社の管理を手伝っていたようだ。そのせいなのか何処ぞの神に気に入られ、オデコに判子のように加護がついているのが見える。何だか可愛そうだ。彼女は神職に憧れており、神楽舞のサークルに所属すると聞く。
──楚々とした佇まいをした橋立伊都はしたち いとという子も神道学科の専攻だ。彼女は名家の出のお嬢様らしいが、血に人以外の何かが混じっている。恐らくは狐だろう──結衣の眼には彼女の頭に大きな獣の耳が、お尻には尻尾があるように見えていた。彼女はお嬢様らしく茶道研究會に所属しているらしい。
と、集まれば色々な人がいるものだった。
しかし、同類が沢山いるということには衝撃を受けた結衣ではあったが、少年に出会った時のような感動や恍惚感といった感情が浮かび上がることはなかった。だからこそ、やっぱり石動くんは特別なんだ、と結衣は確信を深めるのであった。
大学の授業は高校の画一的な教育とは異なり、独自色に溢れ新鮮だった。興味のある授業を受け、関心の幅を広げる。結衣は相変わらず一人ではあったが、それなりに楽しい日々を過ごしていた。
──そんな大学の生活にも慣れて来た、ある日のことだ。
授業も終わり、あとは帰宅するだけだが家にいてもする事がない。かといってアルバイトもする気が起きないし……と、結衣は暇潰しに学内で活動しているサークルを見学して回っていた。
運動部のかけ声やホイッスルの音もすれば、吹奏楽やら軽音楽であろうか楽器の音も聞こえてくる。体育館の近くではボールの弾む音、演劇部だろうか、発声練習の声も聞こえていた。
そんな様々な音で溢れる学内を散策している最中、結衣はふと目に入ったサークル棟に気紛れに足を向けることにしたのだ。
「あー、しくじったわ……全く、身体障害者のことも考えて整備しぃや、クソボケが。何考えてこんなとこにドブ作ったん」
一人のんびりと歩いていると、サークル棟の外──そこには側溝の溝に車椅子のタイヤが嵌ってしまいボヤいている女性がいた。女性は酷くご立腹のようで、ブツブツとボヤいている。
「おっ? ちょうどええとこに! お姉さん、ちょっと抜けるの手伝ってくれへん? スタックしてもうたぁー。一人じゃ抜けられひんのや」
結衣がどうすべきか考えていると、先に向こうから声を掛けられた。目に映る霊力の有無。そこで初めてその女性が同類であることに結衣は気づいた。そして、向こうも同様のことを考えていたらしい。
「あら、あなたも同じなんやね」
「……そういうあなたもね」
それが彼女との出会いだった。彼女の名前は琥珀川伽耶子。人の死期がわかるという異能を持つ、車椅子に乗った下半身不随の女性だった。
「どこかサークルに入るのに見学しとるの?」
「いえ、そういう訳ではないのだけど……家に帰っても掃除してご飯作るくらいしかすること無いし」
「一人暮らし? ええね〜。私はこんなんやしな。どこにでも人がついてくるわ」
「琥珀川さんは民話研に入るの?」
「そやなぁ……今ならヒトも少ないから、好き放題できそうやし、ええかもな。神楽木ちゃんも良かったら入らん?」
「うーん……」
結衣が彼以外の同類と話をするのは初めて(ほぼ会話した事実はない)だったが、二人は不思議なくらいに気が合い、すぐに仲良くなった。口数のあまり多くない物静かな結衣に、明るくお調子者で、お喋りな伽椰子という組み合わせは、一見デコボコしているようで、カッチリ噛み合っていたらしい。
──結局、結衣は暇を持て余していたこともあって伽椰子に誘われて民話研に入ってみることにした。こうして二人は民話研の活動を通じて、徐々に他の同類や不思議な存在と交流を持つようになってゆくのである。
□
民話研に所属している先輩には伽椰子のように人ならざる者が見えるという人物はいなかったが、結衣は可もなく不可もなくといった様子で交流していた。皆、善良ないい人なのだろう。特に興味があって入部した訳でもない結衣に対しても、先輩たちは優しかったのだから。
そんな民話研の先輩方は元々幽霊部員だったり資格の取得のための実習、就活等で忙しい日々を送っている。そのため、ここ最近は部室に顔を出す事も疎らになっていた。
「──こんなに自分と同じような境遇の人がいるなんて……私知らなかった」
結衣が話しているのは、大学という場所に自分と同じような境遇──つまり、見えざる者たちが見えたり、体に獣や異形の徴がでたり、神様の加護がついたり……普通ではない人たちが沢山いる事に驚いたというものだ。
「そうなん? 家族は教えてくれへんかったん?」
「家の人とはあまり仲良くないし」
「ふぅん……まぁ、皆色々あるらしいからなぁ」
伽耶子曰く、普通は家や一族単位でそうした知識を共有するようなのだが、神楽木の家ではそういった事は無かった。そもそも、神楽木は神職の家系としては没落して久しいようで、人で無い者たちを見る事の出来る子が生まれる事すら数代ぶり。猿曰く、黄泉子である半人半霊が生まれてくるのに至っては、百年単位で無かったことらしい。
そして、かつて神楽木が没落するに至った出来事で家系図や伝来の資料といった物も多くが失伝している。家の者でさえも限られた口伝のもの以外は知らなかったということなのだろう。
「ははぁん? それで知らんと。そんな理由があんねや。そしたら、私が簡単に教えたるわ」
と言って、伽椰子は結衣にこの世界の常識についてイチから教えてくれたのだ。
「まず私たちのような存在が世界にはどれだけおるか。ほんで、その人たちがどんな役目を担っとるか」
当然の如く、世界には様々な同類がいる。国や場所によって呼ばれ方は異なるが、それは魔女や魔術師、呪い師に道士、シャーマン、巫女、陰陽師、霊媒師、妖術師、退魔師等々……呼ばれ方は非常に広く、定まってはいない。
そうした存在達は、呼ばれ方こそ様々だが各地に点在しており、あまり良くない質の見えざる者たちが人に関わり過ぎないように牽制したり、神や精、霊といった存在との間を取り持ったりすることもある。古くは巫覡と呼ばれる役目を担っていた者たちだ。
中には、代々霊的災害の起こりやすい土地を鎮める役割を担っていたり、古くからの信仰を現代に伝えながらその地の神域を守護するなど重要な役割を担っている一族もいるらしい。
「神楽木ちゃんの言う、見えざる者たちがどんな存在なんか。奴らとの関わり方」
見えざる者たちも場所によっては呼ばれ方も異なる。
日本では妖怪や妖魔、霊、魑魅魍魎。海外ではモンスターやゲシュペンスト、レムレース、ファンタズマなどとも呼ばれ、古くからその存在が確認されている。それらは本来肉体を持たない自然霊や精霊、妖精といった超自然的な存在や、怖れられるべき怪物たち、人の霊を由来とする亡霊のような者たちを指している。
一般的に彼らには人の常識といったモノは通じないと言われている。もし何かの拍子に気に入られでもして影響を与えてくるようなことがあれば、常人では彼らの持つ力に抗うことは困難。そうした影響を取り除くことも私たちの仕事の一つなのだと。
一方で伽椰子が言うには、彼らを調服し使い魔や式神としたりする者は同類にも多くいるのだという。
「でも式神は便利だけど、気を許したらいかんよ。奴らは人とは考え方そのものがちゃうんやから。制御に失敗したり、契約を反故にした瞬間に関係は切れて襲いかかってくるで」
その関係は契約であり、多くの場合、何かしらの対価が必要になることには注意が必要だとも。それは時に術者の肉体の一部であったり、行動の制限や、義務や誓いといった形で結ばれると説明した。
「力の使い方。力を持った者の義務。そして、力の代償や」
力の種類も千差万別だ。力といっても、人ならざる者たちを見る事のできる人の中にも、特殊な力を持つ者と、持たない者がいる。結衣や伽椰子は持っている側だ。
それは悪いモノを近づけないようにするものであったり、物の過去の記憶を見る力、結衣のように人の心を見透かせるもの、伽椰子のような限定的な未来予知、他にも人の意思を誘導するような力すらあるのかもしれない。
そうした異能の使用自体は規制までは出来ず、個人の善悪の価値観に委ねられていることは否定出来ない。だが、悪用を続けることで国からの監視や懲罰を受けたり、酷い所ではいつの間にか姿が見えなくなり、いなくなったいたりすることもあるという噂だ。
そして、その異能の代償であるが──
「私の場合はな、この脚が関係しとるねん」
と、ダンダンと車椅子の上で揃えられた腿を憎き仇とばかりに力いっぱい叩いた。
曰く、琥珀川のご先祖には神の血が混じっているらしく、伽椰子が異能を発現させてしまった際に、代償として下半身の運動能力を失ってしまったのだそうだ。
そして、代償のルールは殆どの全ての異能を持った者に言えることであり、結衣も異能の代償として何かを失っている筈だと伽椰子は言った。
しかし、そう言われはしたものの、結衣にはすぐに思い当たるような心当たりは無かった。
「私は何も失ってないと思うけど……?」
「うーん、そうやなぁ……もしかしたら、身体的に目に見えるもんやないかもしれんね。他には特定の感情が欠落しとるとか」
それを聞いて今度は、あぁなるほど、と結衣は思った。だとしたら、私に欠けているのは共感という能力なのだろうと。気づけば、いつも周囲を冷めた目で見ている。私が他人を同じ生きている人間と思えないのはそのせいなのだろうなと。
自身を普通の人間と認識していないが為か、妖怪や霊といった人外や、辰巳や伽椰子のような特殊な存在にしか関心を持つことが出来ない。人間として大切なものが欠けているせいだと結衣は考えていた。
「……これを言ったら引かれるかもしれないけど、同類以外の普通の人がよくて猿とかロボットにしか見えないのよね私」
──と、そう判断していたが事態はより深刻で、正確には異能の代償として結衣は認知の機能が大きく歪んでしまっている。
つまるところ、人を人として認識出来ないの言葉に偽りは無く。結衣には学校のクラスメートも、親や姉といった家族すらも本当の意味で塵芥、有象無象にしか映っていなかったという事だ。
その為、自分とは全く関わりの無い別の生き物であるという認識になり、興味関心も共感(同情)も呼び起こされなかったというサイコパスの状態に他ならなかった。
「あららら……あんたもなかなか難儀しとるんやなぁ。でも、まあ、普通を取り繕えとるんやろ? なら、まだマシな方やろ」
と、伽椰子は楽観的。実際はどうかとして、彼女には結衣の普段の様子が一見してサイコパスには見えていなかったようだ。
伽椰子曰く、精神的に何か大事なものが欠けている存在は力の使い方を誤ったり、大きすぎる代償のせいで忌み嫌われたり、化け物扱いされることがままあるという。
中には酷い迫害から逃げて政府の庇護下に入り、国の援助を受け、人里離れた場所で生活をしているような者や、迫害された恨みから反社会的な活動に傾倒する輩もいると。
社会や周囲に恨みを抱くのならまだしも、普通を取り繕えて人様に迷惑かけるような事、道を踏み外すような事がなければ大丈夫なんちゃう? と言っていた。
結衣はそんな言葉にパチクリと目を丸くする。
「そう、なんだ……なら私は運が良かったのかも」
そう、運が良かったに過ぎないのだ。普通の人でさえ精神を病むのが今の世なのだから。世には精神に異常をきたしている人は思った以上に溢れている。健常者が精神を病まずに済んでいるのは、道を踏み外さずに済んでいるのは、ただの運でしかない。
──のだが、結衣は、これまで生きてきて大きな不都合も無かったがために、運が良かった、と何の感慨もなく締め括った。
「でも、狂わないでいられたのは……やっぱり彼のお陰なのかな」
「なぁにぃ、彼氏がおるんか?」
「ち、違う……!」
顔を赤らめ、パタパタと手を平を伽椰子に向けて振った。
「けっ、可愛い顔しよってからに」
思春期に余計な事を考えずに済んだのは確かに少年のお陰ではあるかもしれない。その分、『好意』について自問自答を繰り返した分だけ想いの強度が爆上がりして、アルコールの蒸留のように濃度が高まることになってしまったが。
端的に言ってしまえば、結衣の認知の歪みは大きな代償の部類である。彼女が未だに破綻していないで済んでいるのは過去の経験……彼に好意を持ち感情を取り戻したこと、彼が偶然押し付けた『良心の呪い』によるものが大きかったと言わざるをえない。
良心とは、善心、道徳や倫理を弁えて理解し、悪しき行為を抑制し、正しい行為を選択させようという内的な心の働きであり、愛着から生まれる義務感。
結衣は少年にずっと執着してきており、執着とは言い換えれば愛着でもある。だからこそ結衣は彼から受けた良心を無視する事が出来ないのだ。
つまりは、彼ならばどうするだろうか──という一拍おいた思考。彼から施された『良心の呪い』という外付けの安全装置は、物事の善悪の基準を判断する代理の道徳として働き、正しい行為を行うように強制的なバイアスをかけている。
良心が認知の歪みを補助し、今の結衣を社会から離脱させずに保っているのだ。
そんな結衣にとって、彼への執着を捨て去るということは良心をも捨て去ると言うことに他ならない。結衣が執着心を捨てた時……その時こそ、人を害することに何の躊躇もしない反社会的な化け物が誕生することになるであろうことは、結衣自身、知る由もないことであった。
「なんか眼の前が明るくなったような気分」
ニパッと結衣は笑顔を浮かべた。
結衣は自分の異常性を幼少期から自覚し、それ故に人との交流を嫌厭してきた背景がある。これまで誰にも理解されることなく、どこにも帰属意識を持てないままに孤独を抱えてきたのだ。
だから、こうして話の通じる人と普段出来ないような会話をしてみると、新鮮な気持ちと、嬉しいという気持ちが感じられた。その喜びが結衣を饒舌にさせ、いつもなら言わないようなことまで口にさせる。
「こんなに会話が楽しいと感じたのは初めてかもしれない。琥珀川さんとは仲良くなれそう」
「なんや、大袈裟やなぁ」
ケラケラと笑いながらそう言う伽椰子。しかし、彼女も結衣と同じで、本心では心身にハンデのある、同じような境遇の人間との対話を渇望していたのは内緒だ。
「……でも、ちょっとわかるわ。私も神楽木ちゃんみたいな同級生がいるってだけで嬉しいで」
なので、少しだけリップ・サービスをした。
「私みたいな? どうして?」
「えっと……なんちゅうか……私の力って、少しおっかないやん? 死神、言われたこともあんねん」
と苦笑した。
人の死期という限定的な予知。人は死や老いから逃れることは出来ない。だからこそ、人は死に向かって歩いてゆくと言われるが、終着点の死が全く怖くないという訳ではない。
──伽椰子には死の運命が視える。
その死の瞬間の映像。それが老衰であればまだ穏やかなものだが、殺人や事故、病気によるものであるならば死の瞬間の映像は悲惨なものが多い。
伽椰子がその映像を視たとて、感覚や感情を必ずしも共有する訳ではないが、スナッフムービーや短いドラマを見ているくらいの感覚はある。
伽椰子はまだ幼い頃、能力が発現したての頃に身近な人の死の瞬間の映像を視て、そのヴィジョンを周囲に伝えたことがあったのだ。
──あなたは〜で死ぬ。あなたは〜の病気で死ぬ。あなたは〜の事故で死ぬ。あなたは〜に殺されて死ぬ、と。
それが本人の納得のゆく、受け入れられるものであるならば問題は無いのかもしれないが……中には酷く狼狽する者もいた。
予告した伽椰子に何とかならないのかと懇願したが、伽椰子には困惑するばかりでどうする事もできない。ならば、と死の瞬間が分かっているのなら、と運命に抗いもしたが、結局、その運命が覆ることはなかった。
伽椰子の予知が本物である事は証明された。それに興味を持った一族の老人が、逆に映像で見ていない死を伽椰子に言わせたり実験したりもしたが、彼女自身が酷く疲弊するだけで、対象が死ぬこともなかった。故に、伽椰子の異能は死の宣告と呼称され、畏怖をもって死神のようだと言われるようになった。
「まぁ、そんな事もあって、ちょいショック受けてなぁ。それに、予知したらしたで、結局は私が殺したみたいやん? だからもう力を使う事も無くなったんやけど。私のはそう便利な力でもないんよ」
そうして残されたのは使えない異能に、動かない両脚だけだと伽椰子は自嘲する。
「なんとなくやけど、神楽木ちゃんは私の異能のこと知っても怖がったりしないタイプやろ?」
それが伽椰子が結衣のような同級生がいて嬉しいと言った理由。イタズラっぽく、若干の影を感じる。それでいてどこか期待するかのように伽椰子は結衣を見た。
結衣は気になって心を読んでみようかとも思ったが、そうはしなかった。それをしたら、嫌われるだろうな、と漠然と思っていたから。
「……特に何も思わない、かな? 死ねって言ったら殺せる訳でもないみたいだし……」
「出来たら、それこそ死神やんなぁ!」
そう結衣は答えると、伽椰子は楽しそうに返す。
「……ちなみに、知りたい? 自分の死に様は」
「あまり興味はないかな」
と結衣は、ちょっと考えてからそう答える。自分の死を知ってしまったとしても、そんなもんか、で終わってしまいそうな気がしたのだ。なら、そんなもの別に知らなくてもいいかな、というのが結衣の結論だった。
「わはは、その方がええと思うよ」
と、結衣の言葉を聞いた伽椰子は明るくカラカラと笑ったのだった。
「……琥珀川さんも大変ね」
「せやろぉ? ほんま、こんな力いらへんから、足動くようにして欲しいわ」
そうして顔をつき合わせて笑い合う。二人はその後も、お互いの身の回りの話を交換し合った。
──結衣が小学生の頃の話。
──伽椰子の幼い頃の思い出。
──過去に患った病気のこと。
──家に対する愚痴。
様々な事を話しながら、二人はすっかり意気投合していった。
──気がつけば外は夜の闇に覆われていたが、なかなか二人の会話は尽きることがなかった。結衣は本当に幸運だった。この学び舎にて、数少ない生涯の友を見つけることが出来たのだから。