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第5話 碧に映る世界 前編

 人寂れた神社の境内。木々が風に揺れ、耳に心地良い葉音が囁くように響く。明るい日差しが木々の隙間から射し込み、神秘的な光景を生み出していた。


 辺りは静寂に包まれ、人の気配がない。時折聞こえる鳥の鳴き声だけが、時間の流れを感じさせた。


「〜♪」


 そんな境内の片隅で、白衣に緋袴の小さな巫女が鼻歌混じりに竹箒を操っていた。幼くも黒く艷やかな髪に、健全な白い若い肌。将来は相当の美人になることを約束されているのが誰にでもわかる。彼女──神楽木結衣は古くから続く由緒正しき神社の跡取り娘である。


「もう、やめてよ〜!」


 明るい世界に疾走る歪んだ黒い影。細く、長い手足の黒い影は風を纏い、巫女がせっかく集めた枯れ葉をまき散らしていった。


『アッヒャヒャヒャヒャヒャ』


 その巫女の反応に影は笑った。


 小さな巫女──結衣の視線の先には見えざる者たちがいる。樹上の小さな人たち。木々の暗闇の奥、隙間から此方を覗く無数の眼。岩に腰掛けた嫌らしい笑みを浮かべる猿。彼方此方を走り回る影。月の光を反射したかのような純白の兎。他にも沢山。


「いつも言ってるよね? 掃除の邪魔はしないでって」

『ゴッ……ゴメンネー!』


 結衣はプリプリ怒る素振りを見せた。


 彼ら見えざる者たちは、普通の人間とはどこか違っていて、結衣にとっては奇妙な隣人だった。時に結衣を助け、時に悪戯をされ、困らされたこともあった。家の神社の境内や広大な裏山を舞台に、綺麗な花を探したりして一緒に遊んだ事さえあった。


『ウヒョー! アヒャッ、ヒャヒャヒャ』

『ネェ、アソボゥ……アソボウヨォー』

『……』

『ナニコイツ、ウサッ……ジャナクテ、ウザッ』


 結衣は幼い頃はそれらのことをオバケと呼んでいた。そして、あまりにも普通に存在していたので、てっきり彼らが誰にでも見える者たちだと思いこんでいたのだ。


「黒いのがいつも邪魔してくるの。もう掃除やだー」


 だから──ある時、彼らについて父親に聞いてみた。時たま境内や外にいる人の姿では無い彼らはいったいなんなのだと。そうしたら……


「──良くやった! 結衣、彼らが見えるんだね? 彼らは普通の人間には見えない存在……結衣のその力は特別なものなんだよ!」

「──結衣の嘘つき! 何もないのに、いるって何がよ!」


 双子の筈の姉、礼衣は彼らが見えない。血の繋がっている筈の父親も彼らが見えない。結衣は、彼らが見える事を伝えた時、父親は数代ぶりの稀血だと喜んだが、姉の礼衣は結衣を嘘つき者と呼んだ。


 所謂、それらは妖怪やら霊と呼ばれる存在で、人間のように肉体を持つ者ではないこと、普通の人間には見えない存在たちであることを知った。そして、結衣は幼いながらに自身が普通ではない存在なのだと言う事を理解した。


 結衣が彼らに接触する度、礼衣の視点では結衣が何もない空間に話しかけているのを見る度、普通の姉は眉を顰め、まるで気持ち悪いものを見るかのように結衣に怒りを向ける。


「気持ち悪いことは言わないでって何度も言ってるのに! やめてよ、嘘つき結衣!」


 何かあると姉はすぐキーキーと煩い声を出す。うんざりする。間違ってるのはお前だ。だから、結衣は姉の礼衣が苦手だった。


 しかし、周りの誰も彼らのことが見えなくとも、結衣は彼らの事が嫌いではなかった。良き隣人。悪戯好きな友だち。たとえ彼らに人間らしい常識が通用しなくとも、彼らと付き合うのは気楽であったから。


 結衣が姉を避けることを選択したのは当然の帰結だった。話が通じなく、いつも何かに苛立ち怒っている。その癖、あーしろ、こーしろと結衣に構ってこようともする。


 友だちの嫌らしい笑い方をする喋る猿は、礼衣が結衣に嫉妬しているのだと言った。父に愛され特別な力を持つお前に、と。それを聞いた結衣は何で見えると愛されるのと猿に聞いた。猿は、人間は特別が好きだからな、と嗤った。


 結衣が彼らと関わることが増えるにつれて、姉の苛立ちは増えてゆく。見えないと言うだけで、周囲から期待もされない。大人たちから構われて、期待されているのは何時も妹の結衣一人だったから。


 ──そしてついにある日、礼衣は我慢の限界を迎えてしまった。


「どうしていつも結衣が優先なの!? ズルい! どうして私じゃなかったのよ!! どうして私には見えないのよ!!」


 怒り、悲しみ、不満、嫌悪がグルグルと混じり合う。癇癪を起こしたのだ。それにはその場にいた皆が面食らったが、父は冷静に、そして努めて正しく、優しく、礼衣を宥めようとした。


「結衣は特別なんだよ。生まれた時から決まっていたことなんだ。だから、礼衣は自由に生きなさい」


 大人の言葉は、中々子どもには伝わらない。大人の言葉には経験があり、子どもにはそれを納得する経験が無いからだ。当然、父の言葉は普通の子どもである姉には伝わらなかった。


 姉は叫び返す。どうして! どうして!! と。姉はついにはボロボロと涙を流し始め、父は困ったように眉を八の字にして、姉の肩を抱いた。姉は暫くの間泣いていたようだが、泣き疲れてそのまま眠りについた。これが礼衣の結衣への感情が完全に敵意と軽蔑に傾いた瞬間だった。


 ──その夜、結衣は自室で幼いながらに自身の人生について考えた。


 このままでいいのだろうか。自分はこの人たちと一緒にいるべきなのだろうか、と。


 結衣は、私だけがここの異物で、他の人がまるで違う生き物みたいだとずっと思っていた。例えば、この世界で本当の意味で生きているのは私一人だけで、あとの他は生きていなくて、人型の中身は実はロボットなんじゃないかと。もしくは側だけの空っぽなのではないかと。だって、世界が見えていないのだ。あの人たちは見える眼を持っていないのだから。


 それに──


『生まれた時から決まっていたことなんだ。だから、礼衣は自由に生きなさい』


 なら、私は? 私は自由には生きられないということなのか。父親が姉に投げ掛けたその言葉が、結衣には酷く空虚なことのように思えた。結衣には、その自由がよく分からなかったが、それは私という娘に対するには随分と他人事で、父親は私を娘というよりも物として見ていると、漠然とそう思った。父親という存在に裏切られた気がした。


 ──私は本当は生まれて来るべき命では無かったのかもしれない。


 生みの母親はそういう存在である私を宿してしまったし、姉を特別な力を持たせずに産んで死んでしまったから、母親は姉からは恨みの対象になってしまっていた。そして、猿曰く、器を広く見せたいだけの普通の人である父親は、自分の為に私を受け入れているだけなのだと。


 要は、結衣は同じ人という形をしていても全く別の生き物と見られているということだ。そして、その思考の歪みのせいか、次第に結衣自身も周囲を人として認識することが出来なくなってきていた。


 父親という記号。母親という記号。姉という記号。私と同じヒト、人ではないのだと結衣は考える。血こそ繋がっているものの、結衣は周囲に対して帰属意識や信頼感情など欠片も抱いてはいなかった。


 ──そして、ある時。結衣は猿からお前の家系は偶に黄泉子が生まれて来るのだと聞いた。昔々、何の因果か、生者の男と死人の女との間に子が出来ることがあった。その子が初めの黄泉子であり、結衣はその黄泉子の血筋にあたるのだと。


 曰く、黄泉子とは人と幽霊の間に生まれた子のことで、半人半霊の存在らしい。結衣は、ほら見ろ、やっぱり違う生き物だったと納得した。


 結衣は自身のルーツを知り、スッキリした気分で床に入った。そして、朝起きた時には、結衣の両目の虹彩は明るい茶から、水底のように深い碧へと変わり、心を視る事の出来る異能を発現させることになったのだった。それはまるで、人間ではない半人半霊の証であるかのように。


 ──その日から頭の良い結衣は普通を真似て、装うことにした。結衣は人という集団に紛れ込んだ異物ヒトだ。人間は異物を排除したがる。姉の礼衣のように。


 案外、普通のフリをして生活することは簡単だった。喜怒哀楽の表情を取り繕う。猫を被るまでもなく、優れた容姿を持っていた結衣は多種多様な表情の仮面を駆使し、笑みを零せばチヤホヤされ疑われることなど無かった。碧の瞳は珍しく、よくジロジロ見られたが、それは魅了されているのと同義だった。人前でも何かが見えるとは言わなくなった。しかし、普通だった姉にはそれすらも面白くなかったらしい。姉は執拗に結衣に嫌がらせをした。


 そもそも姉が喧嘩を吹っ掛けてくるようになった原因は、猿が幼い礼衣の夢枕に立って不安を煽り、恐れを煽り、劣等感を煽り、心の内を掻き乱したことにある。だが、最早、結衣はその事自体はどうでもよかった。ただ姉が何かと突っ掛かってくるので面倒だなぁとは思っていたが、友だちの猿がした事だからと、グーパン一発で許していた。


 結衣には、いつしか普通の人の真似をしている内に、自分の内に新しい自分が出来上がっている感覚があった。性格が二つあって、一つは本当の私。もう一つは普通の私。必要な時に仮面を被るような意識。一種の二重人格みたいなものか、と結衣は自己分析していた。


 本当の私は化け物で、誰にも理解されず気味悪がられる一人ぼっち。だから、いつもは普通の私に任せている。それだけで擬態は済む。演じている限り、私も誰かも傷つかずに済む。しかしその一方で、普通の生活というのは窮屈ですごくつまらないものだった。


「キモチワルイ」


 結衣には皆が同じに見えた。同じ顔。同じ考え。同じ行動。皆が同じ方向を見ていて、何処かの誰かが指差せば皆がそちらを向く。学校の国語でやったスイミーみたいだと思った。私なんかより他の皆の方がよっぽと気持ち悪い、と。


 ──そうだ。それは孤独なのだろう。血の繋がった家族はいても心が通じ合っていない。広い世界に人は溢れていても、私だけが違うモノを見ているような疎外感すら感じられる。


 体は冷えていないのに、心は冷え切ってゆく。感情が堕ちてゆく。少しずつ死んでゆく。だが、それでも。結衣は擬態のために表情という仮面を被り続けた。


 結衣はふとした瞬間に、自分が本当は死んでいるのではないかと感じる時がある。だが、それも最早どうでもいいとさえ思えた。惰性だ。誰も本当の私を見つけてくれないこの世界で、存在している意味を探しても無駄なことだと諦めていたからだ。


 ──だけど、そんな無味乾燥としたつまらない世界でも、結衣の意識を一変させるような事が起こることもあったのだ。


 □


「石動、辰巳です。よろしくおねがいします」


 それは結衣が小学生高学年の頃の話だ。結衣のクラスに一人の転校生がやってきた。その転校生は、父親の仕事の都合で北に南にと転校を繰り返していたらしい。今度は不幸にも父親を亡くして、両親が生まれ育った地元に帰ってきたのだという。


 少年はここらの小学生では珍しく訛りのない標準語で話したが、特にクラスメイトの注目を集めるような事は無かった。ただ朴訥とした性格をしていて、困っている人がいたら放っておけない。そんな少年のことを皆が受け入れるのに時間はかからなかった。


 ──ただ、ここで肝心なのは結衣からの視点。その少年は、年の位にしては体格が良いくらいで、一部を除き他は普通に見える。


 唯一違ったのは……その少年の額についた第三の眼。どこか神聖な気配も持つそれは、恐らくは何処かの神が付けたマーキングなのかもしれない。


 そして、その第三の眼は少年のまばたきに合わせて、パチパチまばたきをするのだ。その眼は如何にも眠たげな寝ぼけ眼の様相をしていたが、薄く覗く金眼からは僅かに光が漏れ、大きな力を秘めていることが結衣にはすぐ分かった。


「アゥゥッ、エッ? エッ? ナニ、ナニコレッ」


 少年を一目見て、結衣に異常が起こった。結衣の氷のように硬直していた感情が揺らぐ。ジワリ、と熱を帯びてゆく。訳も分からず結衣の顔が紅潮しだし、過呼吸になりかけた。結衣を隣の席の子がその様子を不思議そうに見ていた。


 結衣はかつてないほどの衝撃を受けていた。結衣の心臓がバクバクと鼓動を鳴らし、胸を締め付けるような痛みが襲う。結衣はすわ呪詛でも受けたかと自身を省みるが呪詛など何も受けていない。ただ少年から目が離せなくなっただけ。見たくて見たくて仕方がなくなっただけ。


 ──人、それを一目惚れという。


 それが結衣にとっての初恋だった。世界がひっくり返るかのような鮮烈な衝動。最早、擬態だとか普通だとか関係なかった。この少年のことを知りたいと思った。この少年は普通じゃない。他に、額に眼のある人間なんていない。この少年も私と同じ、特別なんだと。


 これまで狭いコミュニティから出た事がなかった結衣は勝手に舞い上がり、自身に生まれた感情を同類に出会えたことへの興味と感動だと勘違いした。


 クラスの男子の誰一人として持ち合わせていない、異常。その異常をもつ同類の少年に、結衣は自身の感情を誤認したまま、深みに嵌るように惹かれていったのだ。


 □


 ──彼は友だちが多い

 ──彼は私よりも頭が良くない

 ──彼は私よりも運動が得意

 ──彼は毎日野良猫に話しかけてから帰る


 結衣は少年を観察することが毎日の日課になった。擬態が私よりも上手いのか、私にはいない普通の友だちが沢山いるのに、九九を諳んじることすら怪しい。結衣は十九×十九まで既に諳んじることが出来たし、国語の教科書に載っている物語を一言一句丸暗記することもできた。なので、九九が出来ないなんて何かの間違いでしょと思った。


「頑張れ〜!!」

「いけ〜! タツミ〜!!」

「シュート、シュートォ〜!!」

「……」

「頑張って〜! タツミく〜ん!」


 反面、運動能力では他の普通を圧倒し、誰よりも目立った。でも、彼がサッカーでゴールする度に女子がワーキャーするのを見ていると何か心の内側がザワザワした。


 彼の活躍を眺めながら……結衣は運動がそこまで得意では無かったので、現実的に考えて、もしもの将来、もしもの将来にだ──彼と結婚することになれば互いに欠けた部分を補い合える凄い関係になれるのでは? と純粋な気持ちで考えた。


 それは世界が明るく見えるほどの秀逸な名案に思えて、凄くドキドキした。


 結衣は早速友だちである喋る猿や無数の眼、真っ白な兎らに彼のことを話した。彼は口数が少なく、体も大きいので怖がられることがある。しかし、ちょっと抜けたところがあって、そこが愛嬌だと思う。可愛いし、カッコいい、最強の存在だと。結衣は妄想を語った。


「ワー、ヨカッタネー」

「……」

「オェッ、ヤメロ。ソノコウゲキハ、ハンソクダロ」


 無数の眼と真っ白な兎はそれは良かったね、と生暖かい目で見守っていたが、喋る猿は胸を掻きむしって苦しみ、結衣のことを気持ち悪い物でも見るかのように、唾をペッと吐いて山の深くに帰って行った。


 そうやって、結衣は彼に関する情報を集めてはそれを自身の中で反芻し、日々を暮らしていたのだ。



 ──彼が転校してきてしばらくしてから、結衣は擬態をすることを止めた。それは彼女なりの作戦だった。周囲はそれまで隠れたアイドルだった彼女の突然の変化に困惑しきりだったが、結衣自身はそんなこと欠片も気にせず、彼の注目を得るためには、本当の自分をアピールをした方が効果的なのではと本気で考えていたからだ。


 普通に話しかければいいだけじゃないかと安易に言ってはいけない。いざ話しかけようとすると、何故か体が硬直して頭の中が真っ白になってしまうのだ。


 それに何を話したらいいのかも分からない。天気の話? 勉強の話? サッカーの話? 猫の話? 九九が出来ない話? 結衣には圧倒的に経験が無く、判断ができなかった。だから、向こうから声をかけられるの待った。自分の存在をアピールする為にはそうする他無かったとも言える。


「石動くん、私が同じだって気づいてくれるかな……」


 髪には霊力が宿ると、これまで伸ばすことを強制されてきた。それは髪長姫とも垂の髪とも言える極上の質のものだ。


 しかし、本質は半人半霊という化け物であり、彼女が黄泉子としての本性を隠さないようになってからは、どうしても雰囲気は人間離れしたように暗くなり、周囲には溶け込めなくなってしまった。


 結衣の周囲だけ妙に温度が下がり、生者にとっては何だか危ういように感じられてしまう。そうして出来上がったのは、悪目立ちばかりする某呪いの怨霊の子どもの姿であった。


 結果的に、そのアピール作戦は微妙な結果として終わるのだが……健気なまだ幼い化け物は気になる存在の気を引くための努力はしていたのだ。



 ──またある時、クラスで席替えがあった。それは結衣の心を酷く揺さぶった。


 生徒一人ずつ担任の先生が用意した籤を引いて、籤に書かれた番号を確認すると、一人また一人と、一喜一憂しながら机をガタゴトと鳴らして移動させてゆく。


 これまで、結衣にとっては席替えなど至極どうでもいいイベントではあったが、今回ばかりは違った。


(石動くんよりも後ろの席がいいなぁ……)


 結衣は少年よりも後ろの席に座ることを望んでいた。それは何故か。少年よりも前の席になってしまっては、結衣が少年のことを観察する事が出来なくなってしまうから。故に、前列は最悪で、横並びも微妙。後ろならオッケー。出来れば、離れた端の席から少年を観察することを望んでいた。


 しかし……


 無情にも結衣は端っこの席を得ることはなく、運悪く最前列になってしまった。結衣が絶望していると、いつの間にかすぐ隣に少年が移動して来ていて結衣に声をかけてきた。


「えっと。結衣ちゃん、よろしく!」

「ヒゥ……ッ、……ッ!」


 少年のクシャッとした笑顔の威光に真の闇系の生き物である結衣は浄化されそうになり、それだけで心臓が破裂しそうになる。結衣はパニックに陥った。咄嗟に返事をすることが出来ずに、何処ぞのアニメにある顔のない化け物のように、アッ……アッ……という呻き声をあげることしか出来なかった。


(オワッタァ……)


 それは感情を凍らせてきた結衣にとって、生まれて初めてかもしれない羞恥だった。自身への嫌悪感と彼に変に思われたのではないかという恐れ。結衣の精神はその感情の嵐により、この時確かに一度死んだ。


「風邪? 具合悪い? 大丈夫?」


 少年の第三の眼が別の意思でも持つように結衣を捉え眇めていた。


 結衣の精神は見事一瞬で復活を果たした。結衣は声が上手く出せないことを、生まれてこの方一度も引いたこともない風邪のせいにして、何度も何度も、それこそ赤ベコのように頷く。


「そっかぁ、保健室行く?」


 フルフルフルフル、と首を何度も横に振った。


「じゃあ、これ食べる? 先生には内緒にしてて」


(これは何? フワフワ、ドキドキする……嬉しい? 胸がいたい……)


 少年と初めて話をした。そして贈り物を貰った。溢れ出る喜の感情。いや、それよりも強い恍惚感だ。そうして渡されたただの飴は食べられることなく、異常なことに結衣のお守りになった。


 小学生の時から、ずっと。高校生になる前に彼が居なくなってしまうとしても。この時の強い感情を結衣は忘れることは無く、この先何度も何度も反芻することになる。そして、それが結衣が完全に辰巳をターゲットロックオンして、執着した切っ掛けでもあった。


「アッ、アリ、ガトッ……!」

「おう!」


 彼から飴を受け取ったことによって、この時、 図らずしも結衣は呪いをかけられたのだ。


 それは良心という呪い。執着する存在からの、良心の押し付け。普通の人間であれば多少の差はあれど誰しもが持っているもの。しかし、普通を装う結衣の、幼く未熟な異形の心に未だ備わっていなかった良心という種を少年は播いた。


 いつしか、その種は芽吹き、異形の心という苗床に根を張り、ゆっくりと歪な社会性を育て上げていくことになるのだ。その種のことを、呪いをかけた当の本人である少年は知る由もなしに。


 結局──その学期、結衣は終ぞ自分から話しかけることも出来ず、毎日ただソワソワ、チラチラ隣を気にしながら一日一日を過ごす羽目になった。


 ただその学期では少年が何度も何度も、それこそわざとなのかと思うくらいに教科書を忘れてきては、机をくっつけ椅子も近づけて一緒に教科書をみたり……机をグループの形に寄せて給食を食べる際に、向かい合って食べることになったりもした。


「……♡」


 ただのそれだけで、当時の結衣は満足出来ていたのだから、十分ではあったのかもしれない。そうして、結衣は異形の心という土壌に水をやりながら、日毎に少年への執着を深めてゆくようになっていったのである。


 □


「──あの化け物がまた何か企んでる」


 ある時、姉の礼衣が結衣の挙動が可笑しいことを怪しんだ。そして、その原因が件の少年にあることをすぐに突き止めた。


 困惑しつつ、信じられない事を知ったとばかりに彼女は結衣に言った、化け物でも人を好きになることってあるんだ、と。結衣はその言葉の意味が分からずに押し黙るしかなかった。


 礼衣がどうしてそのような思考に辿り着いたのか。人の心が読めようとも、その時の結衣にはまるで理解出来なかったのだ。


「好きって、なにが?」

「はぁ?」


 というよりも、結衣には何故胸が不自然に鼓動するのかも、胸の内に風が吹き込むように苦しくなるように感じるのかも、少年を見ているとフワフワ、ドキドキする心地になるのかも、未だによく分かっていなかった。


 友だちに対する心理的な関心はある。普段使用している道具への嗜好もある。ただ、これまで異性に対する恋愛感情としての好き、愛着という感情が何であるのかを理解していないままだった。


「好きって、どんな感情?」

「えっ、気持ち悪……」


 気味が悪くなった礼衣はそう吐き捨て去っていった。


 異形の心は簡単には育たない。これまでは『普通の私』をアップデートし擬態を更新させる機会はあっても、『本当の私』が成長することは無かったのだ。それは、身の回りに参考にすべき、真似すべき存在がいなかったからでもある。


 しかし、時として急速に心が育つこともある。少年との出会いが、葛藤が、結衣の『本当の私』の心をチクチク刺激して止まないのだ。


「好き……」


 己の胸に手をあて、その鼓動をしっかりと感じる。好き、と呟くと幸せな気分が滲み出し、何となくしっくり来た。それだけで少し心が温かくなったような気がした。


 そして自問自答した。自分はあの少年のことが異性として好きなのか、そうではないのか。好きになるとはどういうことなのか、この気持ちの正体は何なのか……と機械が計算するように何度も何度も繰り返す。しかし、その答えが出ることはなかった。


 自分の心だけは結衣の碧の眼でも見る事が出来なかった。見ることに長けており、他人の心も見通せる筈の眼でも、結衣は自分の心を見ることができない。だから、いつまでも結衣はフワフワ、ドキドキの正体が何であるか確信が持てなかった。


 ──中学に上がってからのことだ。


 姉の礼衣が結衣への嫌がらせのために、少年に結衣の悪口を吹き込んだ。結衣がそのことを知ったのは、悪口を吹き込まれた後のことだった。


 ──結衣は実は化け物なんだ。

 ──人らしい感情がない。

 ──よく目には見えない存在と話をしてる。

 ──サイコパス。頭がおかしい。


 と。結衣は暫くの間、不安で何も手につかなくなった。姉の礼衣に害された。攻撃された。同類の筈の少年に嫌われるかもしれない。私の領域を侵された。そういう気持ちが胸いっぱいに広がった。


 もしも姉が何もせずに黙っていたならば。結衣と少年に干渉しようと考えなければ。結衣は礼衣に何かをしようとは思わなかった。だが、礼衣はそうではなかった。


『本当の私』の性質は無関心だ。有象無象に何を言われても、何をされても響かない、傷つかない。結衣自身、そう思っていた。……だが、この時、彼女も初めて知った。自身が傷つくことを。『本当の私』が嫌悪を感じることを姉はやってしまった。心が憎悪に染まると、どうしても許せなくなるということを学んだ。


 だんだんと腹の底から黒いドロドロとしたものが迫り上がってくるようだった。脳裏に何通りもの復讐の方法が浮かぶ。同時に、これが怒りの感情なのだと結衣は知った。


 そんな結衣の内心などいざ知らず、礼衣はいい気味だと嘲笑っていた。それを心の読める結衣は知っている。


(まだ早い。まだ、早い)


 だから、結衣はこの時に一つのことを決意するに留めた。この怒りを決して忘れることのないようにと、恨みという形で消えないように心に刻んだ。


 一週間経ち。一月が経ち──幸いな事に、少年は態度をこれまでのものと変えることはなかった。つまりは結衣をあからさまに避けることも、排除しようとすることも無かった。これまでと変わらないクラスメイトの一人だ。結衣は安堵からホッと胸を撫で下ろした。


 結衣もまた、『本当の私』の成長途中で、今はまだ自身の中の感情の正体を見極めるので精一杯だった。だから、もう少し感情を整理して、その感情が『好き』なのだと確信が持てるようになったら、その時は今度こそ頑張って自分から話しかけてみようと呑気に考えていた。


 ──そうして、中学での生活はあっという間に過ぎてゆく。


 迎えた高校の入学式。結衣は首を傾げた。同じ場所、同じ高校を選んだ筈なのに彼の姿はそこには無かったのだ。

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