第42話 月隠山の高層湿原
山は、昼と夜とで表情を変える。
闇に呑まれた真夜中の森では木々の梢が風に揺れ、ザワザワという葉の擦れる音に混じってどこからともなく笑い声が響いている。それに加えて太鼓や笛の楽しげな音も。
山の中から太鼓や笛の音が聞こえてくる──全国各地には似たような怪異伝承の事例がいくつもあり、その原因が狐狸やら天狗やらの仕業と伝えられていることも多い。故にそうした音は狸囃子や又山かぐら、天狗囃子とも呼ばれた。
山には不思議な伝承が息づく──つまり、古来から夜の山とは昼の山とはまた異なった異界性を示していたということである。そこは人間が簡単に踏み込んでよい領域ではなく、あやかし達が住む異界と信じられていたのだ。
現に──暗い森の空を飛んでいると、森の中に淡い灯が点々と浮かんでいるのが見えた。鬼火だ。青い火がふわりと漂い、等間隔に並んで道なき道を照らす。そして、その奥にある広場からは、密やかで、しかし騒がしくもある喧噪が溢れていた。
──人でない者達の宴。
古木の根元に酒樽が積まれ、化け狸が腹太鼓を鳴らし、山童たちが笛を携えてヒュルリヒュルリと囃し立てている。その中心では長い髪をゆらめかせた狐面の女が舞い、鈴の音を転がして拍子をとっていた。
他にも──巨躯の化け猫が横たわって赤い盃を舐め、厳めしい顔をした者、毛むくじゃらな者、半人半獣の姿の者、正体のわからない大小様々な妖達がそのお零れに預かっている。
囃子に笑い声と歓声が入り混じって森の夜気に奇妙な賑わいを与えていた。それは人の祭りと同様の高揚感を醸し出しながらも、どこか異質さも孕んでいる山怪たちの饗宴。
向こう側で見て、実際にその輪に加わり経験してきたのと同じ光景。宴はどこを見ても楽しげだ。そう前のことでもないのに、懐かしい感覚すらする。
上空を駆ける彼の翼がひとたび大きく空を打つと、騒ぎの渦は一瞬だけ静まった。狐面の女が舞を止め、化け狸たちが仰ぎ見、青い鬼火が明滅する。巨躯の化け猫が空を翔る天狗の姿を細めた目で見ていた。もしかしたら、ここいらでは見かけぬ妖の姿ということで注意を引いたのかもしれなかった。
──しかしながら、黒い烏の群れはそんな宴会には見向きもせず、尚も嘴で先を指し示している。
山はより深くなり、夜は刻々と更けてゆく。人の手が入ったことで僅かなりとも人の残り香のある領域と妖怪達の住む異界という領域、両者の境界が混じり合う『あわい』の空間を俯瞰しつつ、天狗は山の頂を見据えて夜空を飛翔し続けた。
そうして、『あわい』を抜けると、今度は月隠山の外輪山である伏拝岳の頂──参道の道半ば、辺りを一望できる古い遙拝所の上空に出た。
既にここいらには人の目など有りはしない。天狗の眼前に広がるのは、月明かりに照らされた山々──月隠連峰。
かつては魂の還る山として信仰を受けていた地で、古代から修行者が山中に道を刻み、今も山の麓の人々が聖域として語り継ぐ一帯。
連峰の主を成すのは月隠山。なだらかな稜線の優美な山容に見えるが、登山するとなると難所も多い。山頂近くには浄土を彷彿させる高層湿原が広がり、池塘としての本来の龍神池がある。
その北東に連なるのが霧神山。名の通り深い霧が立ちこめる峰で、迷えば帰れぬという伝承もある。かつて結衣が話した民話である霧の里は、この山周辺に伝わっていたもので、霧神山の麓には結衣の実家である八杜神社が所在していた。
西方へは荒々しい岩峰が連なり、鬼石嶺と呼ばれる断崖や、かつての修行者が籠もった洞窟跡が多く見られる。難度の高い登山ルートを有し、遭難者が絶えない。その険しい岩場の途中には誰が彫ったとも知れぬ石仏や道祖神がいくつも据えられ、今も信仰者の帰りを待っているという。
そして、南側の裾野。そこには街が作られ、慈願寺や人家、繁華街──人の営みの中心地となっていた。
これらの成す連峰は古代より聖域として扱われてきた歴史がある。長い歴史の中、多くの信仰者によって参道が整えられ、山の中腹から遙拝所にかけては人が比較的容易に立ち入ることが出来る。しかし、それ以降はまごう事なき人の領域たり得ない聖域/異界であった。
その中でも天狗が目指すのは、そのもっとも奥。主峰月隠山の天頂。霧と雲、山気の濃く渦巻く聖地の本領──神霊の御座する領域である。
──古い遙拝所を抜けたその先。更に標高を増してゆくと、徐々に樹々の顔ぶれが変わっていった。
山腹まで鬱蒼と茂っていたブナやミズナラなどの夏緑広葉樹は段々と影をひそめ、コメツガやシラビソといった針葉樹、広葉樹ではダケカンバが混生するようになる。空気は夏とは思えないほどに冷え、山頂から吹き下ろす風は木々をざわめかせるというより、まるで威嚇するような唸り声にも聞こえた。
その吹き下ろす風に乗って一気に飛翔の高度を上げる。すると、やがて森は切れ、世界の色合いが変わった──
山頂付近は話に以前から聞いていた高層湿原。湿原の縁には僅かにコメツガやシラビソが自生するのみで、樹木の侵入はここで途切れる。代わりに、足元は一面のミズゴケやワタスゲの白い穂に覆われ、月光を浴びた水鏡が点々と広がっている。風が吹き抜けるたび、湿原の水面が細かくさざめく。群生したチングルマの葉が風に揺れ、夜露が星屑のようにきらめいていた。
下界の灯はすでに見えない。振り返れば雲海のような霧が街の明かりを包み込み、遠い世界のことのように繋がりを断ち切っていた。
静謐な空間──人の暮らす空間とも、妖怪の住まう領域とも異なる。空も地も、音さえも。何一つ人のものにはならない、神秘的な空気で満たされた清浄な領域。
その湿原のただなか、特に大きな池塘がぽっかりと口を開けるように存在している。その畔には、いつから在るのかも分からない苔むした鳥居がひとつ。歪み、朽ちかけながらも確かにこの地を神聖な場所であると示している。
その鳥居の先──鏡のような池塘に浮かぶ大岩の島に、ふたつの影が並んでいた。
ひとりは美鶴。白い寝間着の上に大きさの合っていない色鮮やかな打掛を纏っている。それはまるで婚礼のようにも見える装束であり、彼女は無言のまま傍らのもうひとりの存在に身を寄せていた。
そして、もうひとりは、美鶴の隣に座る少年。年の頃は美鶴と同じくらいだろう。しかし、その雰囲気は人を超越している。白銀にきらめく髪は月光を吸って煌めき、瞳は深い湖底を思わせる蒼。水の匂い、湿り気を孕んだ冷気、龍の濃い気配が辺りに漂う。彼こそが美鶴に友と呼ばれる存在──早秋津淵青主なのであろう。
美鶴はその肩へとわずかに頭を預け、少年は何を語るでもなく月を仰いでいる。その様は逢瀬を楽しむ恋人のようにも、長い時を過ごした匹偶のようにも見えた。
今の二人の姿は、まさしく人と神とが交わるもう一つの『あわい』の情景そのもの。人と神霊の境が重なり合い混じり合い、互いの存在や立場を曖昧にし……しかし、その曖昧さこそが今の二人をある意味対等に結びつけてもいる。そんな奇跡的な関係性を垣間見せていた。
──その様子を遠くより見ていた天狗の中に疑問が渦巻く。龍が美鶴を連れ去った。それは間違いない。だが、この穏やかな情景を目にして……ただ、その意図だけが未だ掴めていなかった。
美鶴は静かに目を伏せ眠っているようだった。怯えや身体の強ばりもなく、寧ろ安堵を覚えているかのように少年の傍らに寄り添いながら。
──天狗が烏を伴い湿原へと降り立った瞬間、池塘の鏡面に静かな波が走った。
少年がゆるりと顔を上げる。白銀の髪が風に揺れ、湖底のような蒼が天狗の姿をまっすぐに貫いた。その瞳はただ蒼く澄んでいるだけではない。すべてを見透かし、なお静かに受けとめるような深さがある。
「──もう来てしまったのか……今度はもうしばらく時をかけても良かったものを」
音は水面のさざ波のように柔らかく、それでいて良く通る。ただ、その声は短い逢瀬の終わりを惜しむような響きを確かに帯びていた。
「だが……仕方あるまい。其方が来たのならば、もはや留めてはおけぬ」
少年はゆるりと腕を動かし、寄り添っていた美鶴の肩を支えそっと起こそうとした。美鶴の頭がくらりと揺れるが、安心しきった穏やかな寝顔はそのまま。少年の白い指が一度彼女の髪を梳く。その仕草には明らかに慈しみの感情が込められている。
「美鶴──美鶴、起きよ。其方の従父兄が迎えに来た」
「……ぅ、ん……」
「美鶴。美鶴よ」
「…………」
「……すまぬな。一度寝入ると中々起きぬ。……昔からこうなのだ。受け取れ、美鶴を頼むぞ」
その言葉に合わせ、池塘の水面がふわりと光を帯びる。色鮮やかな打掛に包まれた美鶴がゆっくりと少年の腕の中から浮かび上がり、辰巳の方へと流されていく。
天狗は一歩踏み出し、宙に浮かぶ美鶴を抱きとめた。腕の中の美鶴は深い夢の中にいるようで、穏やかな寝息を立てつつ身動ぎすることもない。その温かな体温を腕に感じたことで天狗は一つため息をついて安堵した。
「……ナゼ」
しかし、その一方で抑えきれぬ疑念もある。
少年の姿をした龍の、美鶴の髪を梳く手つきは優しく、美鶴のことを大事に思っているのがよく分かる。それに、天狗が少年に何かを言う前にこうしてあっさりと美鶴の身柄も引き渡してしまった。
怒りを堪え、争いになることさえ覚悟を決めていただけに肩透かしを食らった気分だ。ただし、連れ去ったという事実もまた消えてはいない。そのどうにも釈然としない錯誤が天狗を混乱させていた。
「……ナゼ彼女ヲ攫ッタ」
そうした心情から放たれた問いに、龍は自嘲するように笑う。それが意味するものとは……
「……色々と事情があるのだ。色々と」
「ソレデ納得スルト思ッテイルノカ?」
「フム……? 願いを叶えたのだ、少しくらい役得があってもよかろう」
願いを叶えた──やはり目の前の存在はあの時、美鶴の願いに応えて繭子を助けた龍本人なのであろう。しかし、人外から放たれたその言葉には一気に肝が冷えた。
その言葉に何かしらの対価を求められたのだと焦ったからだ。慌てて腕の中の美鶴を観察する。しかし、おかしな呪いがつけられているということも、身体の部位が欠けているということも一見して見受けられない。
「コノ子二何ヲシタ……!」
「そう声を荒げるな──何もしておらん。私と美鶴は古くからの縁があるのでな。夢の中ではなく、たまにはこうして直に共に過ごす時が欲しくなったというだけのこと」
「古クカラノ縁、ダト?」
その言葉に鋭い目を更に眇める。美鶴は龍と友だちだと教えてくれていたが……古い縁と呼べるほどの関係にしては、美鶴の年齢は幼すぎる。
まして、目の前の龍は長き時を生きる存在。その龍が古いと言うからには数年ではない繋がりがあることは間違いないと思われた。
「……ソレハ、ドウイウ意味ダ」
「何も、そう驚くことでもあるまい。異類婚姻の話を知らぬのか」
「異類婚姻──?」
しかし、龍はおかしな事など無いと飄々とした態度を崩さずに、小さく笑った。
異類婚姻──それは文字どおり人間の男女が、異なる種の存在である神、妖、動物、精霊と結婚し、特別な関係を持つこととされた。
「古くから人の里には数えきれぬほど残っておろう。山の神に嫁いだ娘、河童にさらわれた花嫁、蛇や龍に見初められた乙女……。昔話にもあろう? 鶴女房に狐女房。天女羽衣や雪女。人と異のものとが縁を結び、互いの境を越え合う話は、この国では珍しくもない。時に異類婚姻を果たした娘は人のまま人里に戻り、その娘の子が《《人と異とのあわいを継ぐ》》こともある。忘れられても、血や魂には痕跡が残ることもある」
其方の周りにもいよう──?
その言葉に天狗は何の事だと目を細める。しかし、少年はそれに答える事は無い。
「美鶴もまた、そうした縁のひとつ。《《美鶴はもうずっと前に、私にその身を捧げられた》》のだ。それはつまり──神への奉仕であり、人身御供であり、巫女として神霊に仕え、異類婚姻を結び妻になったということ。それが望むと望まざるに関わりなく。その時に私と美鶴の縁は結ばれたのだ」
「マダ子ドモノ彼女ヲ……妻ダト言イタイノカ?」
少年曰く──まだ子どもである筈の美鶴は、人身御供を経て、龍と異類婚姻を結んでいるのだという。その言葉の違和感。
ふと──天狗の脳裏にとある言葉が思い浮かぶ。以前に結衣が言っていた。『月隠山の龍神池』に登場する伝承の娘は、物語の結びにただ人の前から消えたのではなく、村人によって龍神への生贄にされたと伝えているのかもしれないと。
だとすれば、異類婚姻を結んだと考えられるのは伝承の娘の筈。しかし、少年は美鶴と異類婚姻を結んだと言う。少年の言葉の矛盾。それが意味するものとは……
そこで少年はふ、と笑むと一旦言葉を区切り、その蒼い瞳の視線を静かに美鶴へと注いだ。
「……心というのは厄介なものでな」
少年は悔恨するように目を伏せ、小さく息を吐く。
「始めは人間などと、そのような気は有りはしなかった。だが、人の温もりを知ってしまった。それに長くいれば情も湧いてしまうもの。一度芽生えてしまった思いは、雪崩の如く天秤を傾かせ、一度心を定めてしまえばそうそう変わることもない」
少年は天狗に問うた。
知っているか。あやかし者の禁忌を。人と異が交わってはならぬ訳を。『名を預ける』という行為はその者の天命を捧げるのと同義であり、祝いであり呪いでもあるのだと──そう少年は言った。
「故に、あやかし者が一度結んだ縁は魂を縛る。たとえ幾たびも肉体を換え、記憶を失おうと、魂に結びつけられた縁は名として残る」
「何ヲ言ッテ……」
「聞け。狗賓よ。……私たちにとって、一度結ばれた縁は時を越える程度では簡単にはほどけぬものなのだ。たとえ輪廻の大河を越え、過去を忘れていようとも、名を定められた魂は縁を辿り、呼び合うように互いを引き合わせてしまう」
縁とはそういうものなのだと龍は言葉を切り、わずかに伏し目になった。月光が白銀の睫毛を縁取り、その表情をかすかに憂いの影を落とす。
「マサカ……ナラ美鶴チャンハ……」
「想像の通りだとも」
少年の話す輪廻の大河とは──美鶴は伝承にある娘の生まれ変わりであることを意味しているのだろう。そして何度輪廻を繰り返そうと、娘の魂は此処──龍の元に行き着いてしまうのだと。
一拍おいて、再び語り始める。
「……人の心は温かい。だがそれは同時に、私たちを絡め取ってしまう」
悲しげで、しかし、そこにあるのは憧憬にも似た光。
「時としてそれは熾火のように私たちを温め、時として身を蕩かすほど甘美に感じ、時として耐え難い絶望となって襲う。縁に囚われた関係を運命だの宿縁だのと尊ぶ者もいるが、現実は執着が強くなるほどに魂は自由を失い、蟻地獄から抜け出せなくなる。私は、私の執着で美鶴の生を束縛してしまうことが……罪のように思えて仕方がないのだ……」
あやかし者の持たない温かさ。心の揺らぎ。儚さ。その全てがあやかし者を魅了し、同時にあやかし者の理性を壊す。
──狂うと知って尚、止められない。壊れると分かっていて尚、愛さずにはいられない。そしてまた執着が縁を強くし、美鶴の生から更に自由を奪ってしまう。
私たちの生は長く、人の生は短い。人とは何と儚い生き物なのか。共に生きることも許されず、共に逝くことも叶わない。ましてや死を乗り越え輪廻を巡って尚、再び出会い繰り返されるなどというのは、地獄に落ちたに等しく、あまりにも酷なことではないだろうか──?
しかし、それでも──また出会えた嬉しさを抑えきれずに繰り返してしまう私は、到底救えぬ存在なのだと、そう少年は自嘲した。
「其方も、そうは思わないか?」
「……」
その問いかけに明確な答えを持たない天狗は……黙してただ龍の言葉を聞くのみであった。
「……私は彼女を愛している。そのことで何度この身が人でないことを、美鶴が龍でないことを呪いそうになったことか……」
何度となく繰り返されてきた輪廻。愛で、壊され、嘆き、出会い、歓喜し、再び愛で。気の遠くなるような地獄の連続。
少年の口から溢れ──フツリと湧き上がる狂気地味た『愛』。その単語に天狗は耳を疑う。愛とは、人よりもはるかに長い時を生きてきた悠久の存在を惑わすほどに厄介なものかと。
そして、それがまだ十にも満たない少女に向けられていることに戦慄してしまう。
「……彼女ハ、マダ子ドモダ……!」
「だからなんだという? 姿形が全てではなく、私は人ではない為に人の道理は通じぬ。仮にそれが業火に焼かれる苦しみだとしても、私は仏に帰依することよりも愛を選ぼう……!」
「ナッ……!」
「……幼い美鶴と再会した時を思い出す。何度繰り返しても困惑するものだ。愛し妻とした女の生まれ変わり。輪廻を経た女は、決して記憶を戻すことなく私を『友だち』と呼ぶ」
──残酷であろう? もはや涙も出ぬ、と龍は嘆いた。
記憶はなくとも魂の繋がりは薄れることはない。何度愛しても人の死とともに関係はリセットされてしまう。その度に龍は娘を見守り、すり寄る外敵を排除し、無償の愛を注いできた。
それらの言葉は龍が美鶴に心を縛られていることを意味し、一方で美鶴の魂もまた龍に執着されていることを示す。遙かな昔から縁により、美鶴と龍の魂はどうしようもなく縁で結びついてしまっているのだと。
そのどうしようもない嘆き。天狗の胸の奥で、説明のつかない冷たさがひたりと広がった。
「そう怖い顔をするな。……いずれ、其方にも分かる日が来よう。……許せよ。元より人の世に返すつもりではあった。此度のことは、ほんの少しだけ温もりが恋しく触れたくなっただけのこと」
龍の声は離れがたきを思い、どこか未練をにじませるものであったが、一見して穏やかであった。ただその心は共にいられないことを理解しながらも、自身の心の執着を制御出来ない苦悩を物語っている。
「さて──そろそろ美鶴を人の世に戻してやってくれ。その打掛があれば問題無いだろうが、人の身で此処の風に長く当たれば障る」
疲れたような、悟っているかのような酷く年長者めいて、少年の姿には似合わない眼差し。少年は美鶴に笑みを向けたのを最後に……背を見せ、その場から立ち去る素振りをした。
「──待テ! マダ聞キタイ事ガアル!」
天狗の声が湿原の空気を震わせた。少年の足が、ぴたりと止まる。
「……ナゼ、俺ノ正体ヲ知ッテイタ」
「……そういえば、知りたければ訪ねよと言ったのは私であったか……狗賓よ。境に立つ者よ。それは其方が界を渡り、人から妖へと転じたのが必然であったからだ」
「ナ、ニ……? ソレハ、ドウイウ……?」
少年がゆっくりと振り返る。白銀の髪が月光を滑反射し、その蒼い瞳が辰巳を射抜く。
「其方のような存在が望まれていたのだ」
「望マレタ……?」
少年は、ただ夜の湿原を見渡しながら、人にとってはもう昔の話になるが、と言葉を紡ぐ。声は風のように澄み、しかしその声音にはどこか哀惜を含んでいた。
「古くはこの地にも、久那土の神への信仰が息づいていた─」
久那土の神には人の領域と異界の領域の境を守る役目があり、この山々の峰ごとに祀られた社が存在した。
人は、病や魔が人の領域に入りこまぬよう、また異界の領域から良くないモノが溢れぬようにと神々を恐れ、敬い、祭りを捧げていたと──そう語る。
「だが──」
少年は小さく息を吐いた。
「人はやがて、その畏れを忘れた。時代の流れだったのだろう。仏を奉ずる者達と神を戴く者達のこれまでに無い大きな争いがあった」
少年の姿をした龍はまるでその場面を思い出したかのように、表情を険しくする。
「神を戴く者達は仏を排しようとし、仏を奉ずる者はそれに抵抗した。人間の信仰の対象である月隠の峰々も、その渦に呑まれざるをえなかったのだ」
蒼い瞳が、過去の惨劇を映すように空を仰いだ。
「社は焼かれ、祠は壊され、境を守る神は信仰の核である名と力を失った。久那土の鎮めも絶え、以降は『あわい』が曖昧に広がるばかり」
結衣の父である衣弦が言っていたことを思い出す。失われた社──かつて月隠山の山中にあったとされる久那土磐境神社のことを。結衣の生家にはその名残が残っていると聞いていたことを。
「昔は異界といえば海や山、川の奥──そうした人の及ばぬ場所に限られていた。だが今は違う。人の領域の中にすら、異界の影が混じり始めている。其方、気づいているか? この山で不満を抱えていた厄介な者たちが、いまや人の領域に出入りしていることに」
「っ……!」
妖が人里に降りれば、自ずと人との交わりも増える。それは霊障や祟り、呪いとして現れている筈だと告げられ天狗は言葉を失った。
「──それに、この地には異界への門がある。其方も知っていよう?」
其方が通った産霊窟──それは人が付けた名で言う母胎石窟のこと。
山に人が多く立ち入るようになったのなら? もしも人の俗が、神の聖の領分を犯すようなことになってしまったのなら。
異界への門はどうなってしまうのか──と、龍の声が静かに湿原に広がる。
「──あれは、厄災の種となり得るもの。本来、この山は人が踏み入ってはならない禁足の地であるべきなのだ」
境は守らねばならない。境界が曖昧になれば、道が繋がってしまう。異界の数は無数に存在する。その、どこに繋がっているともしれない門の向こう側から良くないモノが溢れる可能性だってある。
それは人にとっても、妖にとっても危惧すべきことだ。
「坊主たちは何やら気づいてはいるようだが、いつまでも対応出来てはおらずに無力だ。だから、其方のような者が望まれた。人でありながら此方を知り、妖でありながら人の事情に通じる──人の領域に最も近い場所で、境を守る狗賓が」
天狗の胸の奥で、何かが軋んだ。
それは、まるで自分があやかし側の論理で『望まれて』この姿になったとでもいうかのような言葉の羅列。そこに天狗の意思の有無は考慮されていない。人の身から天狗へと変生したのは辰巳の苦悩の末の選択であった筈なのに。
「何ヲ勝手ナ……! コノ姿ニナッタノハ俺ノ意思ダ……!!」
「……それもまた道理。だが、時として真実とは当人の知らないところに隠されていることもある。因果縁起の言葉とは、原因と条件が相互に関わりあって、結果が生じることを言う。全てのことには連関と依存の関係がある」
「ダカラ、ナンダッテンダ……!」
「因とは久那土の不在、起とは其方の存在。では、欠けた縁とは?」
龍はわずかに目を細めた。湖底のような蒼が、心の動揺を見透かす。
「狗賓の役目とは境を守り、人がこちら側に無用に入り込まぬよう律すること。それが其方に課された宿命。其方は、因果縁起のもとに生を受けたのだ」
「何ヲ、知ッタヨウナ事ヲッッ──!!」
あまりに身勝手な論理。熊鷹眼を炯々とさせ、身体を震わせる。激情のままに怒り叫んだ。
──そのとき、辰巳の腕の中で美鶴が微かに身じろぎした。殆ど閉じかけに瞼を上げ、まだ夢の中にいるような目で少年を見つめた。
「……ん……あお……?」
「ッ……!」
「……全く……其方が大声を出すせいで、起きてしまったではないか。こんな時間に連れ出して悪かったな。美鶴と月を愛でたかったのだが……其方がまだ子どもであったのを忘れていた。もう眠るとよい」
「まって……あお……たすけてくれて、ありがと」
か細い声が、湿原の夜気に溶けた。龍は驚いたように目を瞬かせ、それから僅かに微笑んだ。
「礼など要らぬ。其方が願った。それだけで十分なのだ」
「……うん……またね」
「あぁ……また。夢の中で」
そうして、それだけの挨拶を済ませると美鶴は再び眠りにつき……少年が深く息を吐く。
「……其方もゆめゆめ後悔することの無いよう──そして、いつか選ばねばならぬ時が来ると心得ておくといい」
「ッ……!」
そう言い置くと、山を登り、風に流されてきた雲海の雲が天狗と少年を覆った。身体を靄が覆い、その輪郭が白く濁って曖昧になる。最後に見えた少年は既に天狗の方を見てはいなかった。
「話ハマダ──待テェッッ!!」
背の黒い翼で力強く羽ばたき、大風を起こすと靄が晴れる。しかし──そこにはもう龍の少年の姿はなく、池塘の水面だけが静かに波紋も作って揺れているだけだった。
姿のないままに、遠くから声だけが響く。
『──真実は其方の祖母の蔵の中にある。真を求めるのならば、其方の父御の手記を探すがいい』
声が消え、風がピタリと止む。目の前には、ただ月に照らされた幻想的な月隠山の池塘の光景だけが残されている。
「クソ、ガ……」
天狗は腕の中の少女の温もりを感じながら、その場に立ち尽くすしかなかった。夜の静寂に反して、龍の残した言葉がいつまでも胸の中で残響していた。
□
月隠山の上層に満ちていた冷気は、山裾へ降りるにつれて次第に薄れていった。
天狗は眠る美鶴を抱きかかえたまま、夜風の中を静かに翔ける。月隠山の山頂にむけて先導していたはずの烏達の群れは、いつの間にかいなくなっていた。
上層とは異なるムッとするような湿気を帯びた空気。森の梢が風にざわめく。時折、妖怪や化生たちの蠢く気配が森の中でしたが、天狗の姿を見るなり皆警戒して影に引っ込み息を殺す。遠くの茂みの奥で、仄かに青白い炎が揺れていた。
人の営みの灯が遠くに見え、ようやく風に人の世の匂いが混じってきていた。少しの安堵と、どうしようもない倦怠感が胸の奥に広がっている。
美鶴の体温は腕の中でしっかりと感じられている。その穏やかな寝息を聞きながらも、龍の言葉が気になって思考は重く沈んでいた。
──真実は其方の祖母の蔵の中にある。真を求めるのならば、其方の父御の手記を探すがいい。
あの龍の言葉が、未だに耳の奥でこだましているような気がした。
真実とは? 人から転じたのは不本意な部分はあれど自分の意思だった筈だ。何故、父が此処で話に出てくる? 祖母の蔵にあるという手記には何が書かれているというのか?
その先を思うだけで、辰巳の中に言いようのない不安と焦燥が芽吹く。そこに触れてはいけない秘密が眠っている気がして腹の底がムカムカした。
一度静かに深呼吸をし、心を落ち着けるように努める。考えを整理しようとし……結局まとまらずに断念した。まずは美鶴を早く家へと帰さねばならない──そう思い直し、再び夜空を翼で打った。
──石動家の屋敷に辿り着いた時には、虫たちすら眠るような時刻、静かな真夜中となっていた。
翼を広げ、静かに石動家の庭へと降り立つ──地へと着く瞬間、羽音を一度だけ残し、黒い翼は一度大きく伸びをすると背で綺麗に折り畳まれた。
美鶴を胸に抱えたまま、心此処にあらずといった怪しげな足取りで縁側へ近づいてゆく。蚊取り豚は既に白い煙を吐き終えてただの置物となり、小さな酒宴は既に片されて何も残っていなかった。
縁側の前まで来たところで、天狗はふと足を止めた。障子戸の向こうから、仄かな灯りが漏れている。誰かが辰巳の部屋の中にいた。
──晃だ。
ぼうっとしていたが……そこでハッとした。漫然としていたせい。失念していた。今の自分の姿に。隠さなければならない。人ではない、化け物であることを。でも、どうやって? バレれば嫌悪される。排斥される。離れてゆく。居場所を失ってしまう。急ぎ変化を。駄目だ。もう間に合わない。恐怖。
障子戸の向こう側で人が動く気配がした。
「マ、待テ! 開ケルナッ!」
しかし、期待も虚しく縁側の障子は、すう……と引かれる。
部屋の灯りに照らされたそこには、やはり晃がいた。こちらへと──天狗の姿をした辰巳の方へとまっすぐ視線を向けている。見られてしまった。
月光と電灯の明かりが交わる中、晃はしばし立ち尽くしていたが……一歩、また一歩と静かに部屋の中から縁側へと踏み出してきた。
「タツ兄、だよね……?」
ぽつりと、その名が呼ばれる。背の黒い羽、烏の如き異形の容貌。決して辰巳と一致する特徴ではない。しかし、晃は天狗を辰巳であると看破した。
恐る恐るといった声音であったものの、そこに驚きも恐怖も見られず……嫌悪や失望といった感情が晃の眼差しを曇らせることもなかった。
「──おかえり」
いつも通りの声。その普段と変わりのない一声で、しかし、辰巳が何よりもまず先に感じたのは混乱だった。
「……怖ク……ナイノカ……?」
「何で? タツ兄は私のこと襲ったりしないでしょ? ん……? もちろんムラムラして襲いたくなったら、むしろ襲って欲しいんだけど…………どうしたの?」
「イヤ……ハ……?」
晃はそう言って、本当に不思議そうに首を傾げてみせた。ポカン、と辰巳は異形の容貌で呆ける。
目の前の異形が自分を傷つける可能性など少しも疑っていない。辰巳が天狗であることを当たり前のように受け入れているように見えた。むしろ、ようやく秘密の尻尾を掴みあげることが出来たと、安堵しているようにも見える。
──どうしたことか。嬉しい筈なのに、安堵した筈なのに、脳の処理が追いつかない。感情の整理が追いつかない。
「姿が変わっても、タツ兄はタツ兄。……そうでしょ? それより《《いつ話してくれるのかなって待ってた》》くらい」
「……ソレハ……話サナクテ悪カッタ。知ラレルノガ怖カッタンダ」
「そっか。でも、ショック。私は何も隠さなかったのに」
「ウ……スマン……デモ、ドウシテ……?」
どうして正体を知っていたのか? 晃はその問いに再び首を傾げた。
「その姿になれるの知ってたもん。ずっと前から」
「エ……?」
「……もしかして忘れた? 私の異能、念写だよ。ずっと見てきたって言わなかったっけ……カメラの窓を通して、遠い場所を撮った写真で、タツ兄が人じゃなくなってたことは前から知ってたし」
「ハ、ハハ……ナンダソリャ……」
「タツ兄の秘密、全部筒抜け……♡」
「ソレジャ……俺ハ、晃ニハ隠シ事ナンテ、出来ナイッテコトダナ……」
「そうだよ。これからもずぅっと、ね」
「……ン……? チョット、マテ。前ニ、覗キハシテナイッテ言ワナカッタカ?」
「そうだっけ?」
惚けた様子でそっぽを向く。そんな晃の様子に、辰巳の身体から緊張の強ばりが抜けた。一気に気が抜けたとも言える。
晃はいつものように辰巳への距離を詰めると、腕の中で眠る美鶴の顔を覗き込んだ。その寝息を確かめるように、そっと頬へ手を添える。
「……美鶴。無事でよかった。私の部屋の布団使っていいから寝かせてあげて」
辰巳は頷き、縁側をそろりと上がった。ギシリと軋む板の音さえ憚られるような静けさの中、美鶴を抱いたまま畳の上をゆっくりと進み、奥の部屋へと足を運ぶ。
──その歩みと同じくして、辰巳の姿もまた人のものへと変わってゆく。折り畳まれていた黒い翼は縮み、背に吸い込まれて消えていく。長く鋭かった爪も、異形の脚も、輪郭も、ひとつひとつが静かに人のものへと戻っていく。
布団に辿り着く頃には、人としての石動辰巳、その人の姿に戻っていたのであった。
用意された布団へとそっと寝かしつけると、美鶴はわずかに身じろぎして、すぐにまた静かな寝息を立てた。辰巳はその頭を撫で、少しだけ安堵の息をつく。
「……本当に戻ってこれてよかった。もしもタツ兄みたいに異界に取り込まれたらって考えたら、怖くて……」
晃が小さく呟く。
「……心配、かけたな」
「ううん。大丈夫。美鶴も、タツ兄も……ちゃんと帰ってきてくれたならそれで」
晃はそう言って、辰巳をじっと見上げた。人であろうが化け物であろうが、その態度は変わらない。そのことに辰巳は酷く救われた気がした。
人が異形を受け入れる事はない。ずっとそう思っていた。自分が異界で妖になり人としての形を失っていた時も、人の世に戻り人に混じって生きると決めた時も、心の底では周囲が自分を受け入れてくれることはないと怯えていた。誰かに話すという覚悟が持てなかった。
──しかし、晃は異形の姿を知っていてなお辰巳の傍にいてくれている。それがどれだけ幸運で救われることなのか。
翼を持つ天狗の姿でも、人の姿でも、同じように「タツ兄」と呼んで受け入れる女性が目の前にいる。その変わらない態度に嬉しく思った。
「──晃」
胸の奥がかすかに熱くなる。
その熱は、長く抱いていた不安を解きほぐし、じんわりと温めていくようだった。
異界で妖へと転じた自分は、もう人には戻れないと、ずっとそう信じていた。人の姿を纏っても、それは仮初めの皮であり、本質は異形なのだと。
けれど──晃だけはそうじゃないと言ってくれた気がした。姿がどうあれ、「タツ兄」は「タツ兄」だと。その言葉がどれほどの赦しになったか。
あの日、自分が失ってしまったと思っていたものは、まだ手の中に残っていたのかもしれない。人ではなくなったとしても、人と共に在ることはできる。そう信じてみてもいいのかもしれない──晃の視線が、そう教えてくれている気がした。
「なに?」
「……晃……俺を受け入れてくれて、ありがとう……」
「へ?」
間の抜けた声が漏れるのとほとんど同時に、辰巳は腕を伸ばし──気づけば晃の細い身体を抱き寄せていた。胸の奥から、堪えきれないものが滲み出していた。
驚いたように晃の身体が一瞬こわばる。しかし振りほどこうとはしない。むしろ、息を詰めるような沈黙のあと、彼女はそっと目を閉じてその腕の中で身を委ねた。
「……なに、急に……びっくりした……」
「悪い……でも、今は……どうしても、こうしたくなったんだ」
腕の中の晃は温かく、柔らかい。異界の空気を知る辰巳にとって、それはひどく人間的で、どこまでも優しいぬくもりだった。龍が美鶴を求めるように、妖の者が人に執着してしまうのも分かる気がした。
晃は唇をきゅっと結んで、辰巳の胸に顔を寄せる。鼓動が伝わってくるのが恥ずかしいのか、いつになく声が小さい。
「……私も、ずっとこうしたかった」
その声は、少し震えていた。安堵と嬉しさと、そして言葉にできないほどの想い。
辰巳はしばらくのあいだ何も言わず、ただ静かに晃を抱きしめていた。互いの鼓動がシンクロするようにゆっくりと重なっていく──異形の男と、人の女。境を越えて交わる温度の心地良さを、二人は確かに感じていた。
「ぅ、ん……」
──抱き合う二人の背後で、美鶴が寝返りを打つ音がした。
はっとして、辰巳は晃の肩から腕を離す。晃も頬を僅かに赤らめながら一歩下がった。二人の間に気まずいような、でもどこか心地良いような不思議な空気が流れる。
「……美鶴、起きちゃうかも。そろそろ戻ろっか」
晃が小声でそう言い、辰巳は頷いた。二人は音を立てないように部屋を出て、静かに障子を閉める。
縁側に戻ると、夜風が心地よく頬を撫でた。虫の声が戻ってきている。辰巳は大きく息を吐き出すと、縁側に腰を下ろした。晃もその隣に座る。
「……ねぇ、タツ兄」
「ん?」
「美鶴、何があったの?」
晃の問いに、辰巳は少し迷った。龍が語った言葉──美鶴との縁のこと、異類婚姻のこと、その苦悩。そして、辰巳自身が『望まれて』天狗になったかもしれないという話。
どこまで話すべきか。いや、自分を受け入れてくれた晃になら話してもいいのかもしれない。それに隠し事を責められたばかりだ。そう思い直し、辰巳は月を見上げながら口を開いた。
「……龍だったよ。美鶴を連れて行ったのは」
「龍? プールにいたっていう、あの……?」
「ああ。月隠山の頂上近く。湿原にある池塘群で会った。結衣が話してた民話の龍みたいだ──」
それから辰巳は龍との対面から語り始めた。少年の姿をした龍のこと、美鶴との古い縁のこと、輪廻を越えて繰り返される出会いのこと──
「輪廻……? 美鶴が生まれ変わりってこと?」
「龍はそう言ってた。結衣の言ってた伝承の娘──何度生まれ変わっても、互いに引き合うんだと」
晃は眉をひそめた。
「……それって、何だか呪いみたいだね」
「龍もそう思ってるみたいだった。でも、どうすることもできないし、するつもりもないみたいだった」
辰巳の声は低く沈んでいた。龍の言葉の重さが、ぶり返すようにまた胸に沈んだせい。
「実は……それだけじゃない。龍からは俺が妖になったのも……俺の意思じゃなくて、『望まれた』からだって言われた」
「望まれた? 誰に?」
辰巳は晃の顔を見た。その瞳には驚きと、そして心配の色が浮かんでいる。
「……分からない。でも、龍は言ってた。この地には境を守る者が必要だった、だから俺のような存在が望まれたんだ、って」
「……」
「人でありながらあっちを知ってて、妖でありながら人の事情に通じてる──そういう存在が」
晃はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「……タツ兄は、それを信じるの?」
「……分からない。でも……真実を知りたいなら、ウチの蔵にある父さんの手記を探せって言われた」
その言葉に、晃の表情が少しだけ怪訝そうなものに変わった。
「お父さんの……手記?」
「ああ。何が書いてあるのか、俺にも見当がつかない。でも……正直、怖いんだ」
辰巳は自分の手を見つめた。人の手だ。でも、この手は先ほどまでは人外の鋭い鉤爪だった。
「何が書いてあるか分からないのが怖い。もしも──もしも、俺が妖になったのが本当に『仕組まれたこと』だったとしたら……書いてある内容が俺を否定するものだったなら……」
声が震えた。
「俺が異界で過ごした十二年も、そこで積み上げてきたものも、覚悟も……全部誰かの手のひらの上だったってことになる。それは……なんだか嫌だ」
晃は辰巳の手をそっと握った。その手は温かく、気持ちを落ち着ける確かな重みがあった。
「……晃?」
「……でも、知らなきゃいけないんだよね」
「……ああ」
「じゃあ、一緒に行こう? 蔵に」
辰巳は驚いて晃を見た。晃は真剣な顔で頷く。
「一人で抱え込まなくていいよ。私も一緒にいるから」
その言葉に、辰巳が動揺する。その言葉に訳も分からずに胸の中が熱くなった。晃の顔が──まともに見れない。
「……あ、ありがとう、晃」
「うん、うん。タツ兄は昔から時々ヘタレになるから。私がついてなきゃね」
「……一言余計だ」
晃は本当に小さくクスリと微笑むと、辰巳の肩に頭を預けた。そのまま二人は、しばらく黙って夜空を見上げていた。月は静かに白く輝き、夜行性の虫たちの声が夜を満たしている。
──明日、蔵を開けてみよう。
そう心に決めた辰巳の胸に、不安と期待が入り混じっていた。
しかし、恐れることはない。真実が何であれ、今はもう一人じゃない。晃がいる。その確信が、今の辰巳の背中を支えていたのだった。




