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第41話 夜の騒動


 夜風が心地よい時間帯になっていた。縁側の縁で豚の蚊取り器から線香の煙が細くたなびきながら空気中に拡散してゆく。


 庭からは『リー、リー』『ギーッチョン、ギーッチョン』という虫の鳴き声に始まり、カエルの『グーッ、グーッ』という合唱が響き渡る。庭を淡く照らす月が夏の夜空に鎮座していた。


 そんな騒がしい庭とは対照的に家の中は静か。つい先程まで賑やかだった夕餉も終わり、各々が部屋で休む時間帯。


 縁側の通路の奥には客間があり、子ども達が寝泊まりしているが──今日一日プールで遊び疲れていたのだろう。そこには既に子ども達の寝静まった後の静寂があり、先ほどまでの賑やかさが嘘のように思えた。


 ──縁側に並んで腰を下ろした辰巳と晃の前には、晃の持ち込んだ菓子類や辰巳の祖母である花重の作った漬物の小皿が並び、シンプルな二つのグラスには水とも見紛う透明な液体──日本酒が注がれている。


 それは、やはり晃が持ち込んだものらしく、仕事の関係で客から貰った物であったらしい。曰く、リーズナブルでありながら、吟醸の上立ち香が良好。甘めで女子にも飲みやすい銘柄であるのだとか。


 辰巳がグラスを持ち香りを嗅ぐ。グラスの中身からは、フルーツのような吟醸香と、度数の高い酒精の香りが立ち昇る。一口、口に含んでみるとアルコールが舌をピリピリと刺激しつつ芳醇な香りが鼻を抜け、辰巳の味覚と嗅覚を愉しませた。


 喉を通せば酷く滑らかに嚥下されてゆき、胃の腑に落ちるとカッと熱を持つ。水のように飲めてしまうそれは、飲み方を誤ればあっという間に前後不覚になってしまう恐ろしさを秘めた酒だった。


「ふー……美味いな、これ」


 感嘆を漏らす辰巳の言葉に、晃はグラスを軽く掲げて応じた。


「でしょ? それに、こうして月の下で飲めば最高に美味くなるんだよ」

「……雰囲気補正か?」

「雰囲気、大事」


 目を細めた上目遣いで、晃はそう言って口元を少し引いた。変化に乏しい彼女の表情だからこそ、そのわずかな笑みが妙に印象に残る。


 しばしの沈黙。線香の煙が縁側を流れ、月明かりが二人の影を作った。


「……なんか、不思議だな」


 辰巳がぽつりと漏らす。


「何が?」

「十二年も異界にいたはずなのに……こうして晃と隣で飲んでると、昔から何も変わらない気がしてくる」

「変わってないようで、色々と変わってるんだけどね。でも、変わらないものだって確かにあるよ」


 その言葉の続きが気になって辰巳が隣の晃を見る。晃は片膝を抱えて座り、煙草を燻らせていた。ふぅ、と息を吐き出すとバニラのように甘い香りの紫煙が漂う。膝に頬を乗せ、心地良さげに瞼を閉じた。虫の音でも聞いているのだろうか。


「……」


 辰巳もまた晃の真似をするように瞼を閉じて耳を澄ませた──心地の良い音の波。一瞬だけ虫の声が遠のいては、すぐにまた賑やかな合唱が戻り、ふぅと息を吐いた。


 再びグラスを傾けると、舌に甘味が広がる。まったりとした穏やかな時間。縁側で肩を並べ、月を眺めながら酒を酌み交わす──ただそれだけのことが、妙に心に染みて、尊く思える。


「晃は随分とゆっくり飲むんだな」

「タツ兄のペースが早いだけだと思うけど。女の子にもっと飲めとか言っちゃダメなんだよ。現代だと、それアルハラってゆーの」

「そうなのか」


 晃が再び紫煙を吐き出しつつ答える。煙草を咥えると赤い点が明滅し、ジジ……という紙と葉を焼く音が小さく聞こえた。


「そういや、煙草吸うんだな」

「煙草吸う女はイヤ?」

「別に嫌とかはないけど……昔の晃を知ってるからかな。アッちゃんが煙草吸ってるっ! っていう驚きがあるんだよ」


 辰巳の言葉に、晃は肩をすくめた。


「別に驚くことじゃないでしょ。……タツ兄だって昔よりずっと渋くなったじゃん」

「渋いって……年寄り扱いかよ」

「ふふ。じゃあ『男らしく』なったって言えばいい?」


 からかうように言いながらも、その声音は柔らかい。そんな晃の調子に辰巳は苦笑いするしかない。


「……昔の私はただの子どもで。隣に座っても女として見てもらえなかった気がする。でも今は……ちゃんと、見てもらえてる。プールでしっかり《《反応》》してたもんね」

「からかうなよ……」

「タツ兄がいない間に色々変わっちゃったけどさ……『悪いこと』ばっかりじゃなかったんだろうなって今は思うよ」


 その言葉はあっさりとした物だったが、晃が少なからず歪んだのは辰巳が切っ掛けであり、その事にどうしても罪悪感を感じてしまう。


 十二年という時間──辰巳にとっては良くも悪くも何物にも代え難い経験になっているが、晃にとっては大事な物が欠けたまま過ごした辛い月日であった。その差を改めて思い知らされた瞬間だった。


「……悪いな」


 ぽつりと謝る辰巳に、晃は首を横に振る。


「もう謝んなくていいよ。こうして隣に座って飲んでるんだから、今はそれで十分。後は恋人にしてくれれば報われるんだけど」


 そう言うと、晃はほんの少しだけ辰巳に頭を寄せ、肩に重みを伝える。フワリ、とシャンプーの良い香りがタバコの甘い香りと混じり、辰巳の鼻腔をくすぐった。


「全く、俺の何がいいんだか……」


 甘くなった空気を誤魔化すように酒の入ったグラスを軽く掲げて月にかざす。白銀の光を透かすと酒面が揺れていた。それから中の酒を口に含んで嚥下、鼻から抜ける酒精を感じ取る。


「……結衣の弟子の繭子ちゃん、だっけ。今日は大変だったね」 


 月を仰ぎながら煙を吐き出す晃の声音には、いつもの飄々とした響きはなく、憂いが感じられた。


「……ああ。まさか一人で祓おうとするなんてな。無茶し過ぎだ。よほど結衣に認められたかったんだろうな」

「多分ね。でも、無謀だった。自分が何をできるか、どこまでできるかを知らない証拠。それを自覚させるのは師匠の役目」

「何だ、随分辛辣だな」

「経験もあるんだろうけど、私の師匠だったババアはそこらへん、かなり厳しかった」

「なるほどな……」


 辰巳が相槌を打つと、晃はグラスの酒をちびちびと口に含みしばらく黙る。


「……でも、羨ましくもあるよ」

「羨ましい?」

「うん。認めてもらいたい人がいて、そのために危険に突っ込んで必死になれるってさ。繭子は馬鹿をやったのかもしれないけど……その必死さを見てると、応援したくなる」


 そう言って、灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、今度は胡座をかく辰巳の腿に頭を預ける形で縁側にゴロンと寝転がった。辰巳と寝転がる晃の視線が合う。


「だって、私も……必死になって頑張ったもん。ババアを見返してやるために。……見てて欲しかったなぁ、タツ兄に。それに褒めて欲しかった。だからさ、あの子の気持ちが少しわかる」


 子どもがお気に入りのブランケットを弄るように、指先で辰巳の甚平の裾を弄ぶ。褒めろよ、と辰巳の手を取って無理矢理に頭を撫でさせた。しばらくそうしていたが……逡巡するようにぼそりと呟いた。


「タツ兄は、本当にもういなくならないよね……?」


 その言葉を聞いた瞬間、辰巳は胸の奥がぎゅっと締めつけられた気がした。


「タツ兄が……またどっか行っちゃうんじゃないかって、ずっと不安。不安で離れられない……少し目を離した隙にいなくなりそうで……」

「そんなことならないよ」

「でも、またいなくなるかもしれない。……ふらっと消えたまま戻らないかもしれない」


 信じたいけど、信じられない。また大事な物が失われるのではないかという恐れが辰巳を信じきることを拒んでいた。


「それに……何か隠してることあるよね? 何隠してるの?」

「……」

「言えないなら、せめて……タツ兄が私の目の前からいなくならないような繋がりが……安心感が欲しい……タツ兄を信じさせて……」


 酔いのせいか、二人きりという空間の魔力か。自制の効かない感情が言葉となって漏れ出していた。晃が辰巳の上体に迫り、仰け反るようにして言葉を返す。


「……酔ったのか?」

「酔ってない。ただ……私の気持ちを知って欲しいだけ」

「……おい、晃?」

「ねぇ、タツ兄……もう抱いて……?」

「……まてまて……冗談が過ぎるって」


 内心で焦る辰巳に、晃は変わらぬ表情でじっと見上げていた。けれど、その瞳の奥にある熱だけは、どうやっても隠しようがない。悪戯気でありながら艶の色の乗った視線が貫く。


「じゃあ……キスして──?」


 囁く声は甘えるようでも、縋るようでもあった。ドクドクと鼓動を鳴らし言葉を失う。冗談で流そうにも、晃の声音は酷く真剣で笑いで済ませられる余裕などない。


「……たつにぃ」


 バニラの甘い吐息が漏れる。拒めば傷つける。受け入れれば踏み込んでしまう。縁側に広がる虫達の合唱の中で、辰巳は答えを出せずにいた。そんな辰巳に晃は、少しずつ顔を近づけてゆく──


 ──そのときだった。


 虫達の合唱が一斉に鳴き止む。それだけならばおかしな話ではない。しかし、夜風までぴたりと止んだかのように静けさが場を支配していた。あまりの静けさに耳の奥で耳鳴りがした。


「っ──?」


 辰巳の背筋を、冷たいものがすうっと走り抜ける。晃も何かおかしいと気づいたのだろう。覆い被さっていた身体を少し起こし、無言で周囲を見渡した。


 庭の向こう、暗がりに沈んだ石動家の門──そこに、ふらりと小さな影が揺れていた。見えたのは月明かりに照らされた寝間着姿に、靴を履くこともなく裸足で土を踏みしめている少女。


「……美鶴、ちゃん?」


 思わず名を呼ぶ。しかし、少女は振り向くことも、返事もしない。ただ夢遊病のようにふらふら危なげな歩みを続け……夜の門の向こうにある闇の中へと吸い込まれていく。


 その美鶴の可笑しげな様子にハッとする。咄嗟に立ち上がり、縁側を飛び降りて美鶴を追いかけた。


 だが──辰巳が門へと駆け寄って門の奥にある闇を覗くも……そこにはもう、美鶴の姿は影も形もなくなっていたのだった。


 □


「……っ、消えた?」


 門を潜り抜け、周囲を見渡す。白い月明かりは道を明るく照らしているが、そこにいるはずの小さな背は、跡形もない。門の前に横たわるように敷かれている道のどこにも姿など見えなかった。


「タツ兄」


 背後から晃の声がかかる。振り返ると、晃が裸足のまま縁側を降りてきていた。表情は相変わらず変化に乏しいのに視線だけは鋭く、起きた異常事態を察しているようであった。


「……駄目だ、見失った」

「ちょっと待ってて」


 短くそう告げると、晃は視線を闇へ投げたまま、踵を返す。そして、すぐに戻って来た。その手には晃がいつも持ち歩いているインスタントカメラが携えてある。


 晃がカメラのレンズ越しに門の奥を覗き込み、神経を研ぎ澄ませる。彼女のしようとしていること──それは念写による居場所の特定だった。


「……美鶴。どこにいるの?」


 低い声。瞬き一つしないその表情には、尋常ならざる凄みを感じさせる。晃は小さなファインダーを覗き込んだまま、『窓』を通してここではない場所を幻視していた。


 そこに何を見ているのかは、晃以外、誰にも知覚されることはない。晃のカメラは、箱の中身を決して明かしてはならない、開けてはならないという禁忌を内包しており、その呪術を神秘とすることで晃の持つ異能の効果を高め、未知の光景を写し取る事が出来る。


 瞬間──フラッシュが瞬き、辺りを一瞬だけ明るく染める。光が消え、晃が静かにカメラを下ろした。


 インスタントカメラに備え付けられた液晶画面の映像が『何か異質なものに』侵されるようにジワリと白と黒に変化してゆく。初めに写っていたのは石動家の門。それから徐々に少女の後ろ姿がぼんやりと浮かび上がってくる。


 月明かりを反射し、薄暗くゆらめく水面の中に美鶴と覚しき輪郭浮かぶ。それに石の灯籠、池に渡された橋の欄干、仏閣の一部も影として写っている。


 数秒の沈黙。戻って来た夜の虫の声がさも普通の夏の夜を醸し出している。それがかえって不気味だった。


「慈願寺の、龍神池……だよね」

「……ああ、間違いない。見覚えがある」


 画面を確認しながら晃が呟き、視線を辰巳へと向ける。そして、何かに気づいたようにハッ、とした。


「っ、いけない……! タツ兄、先に行って! これ神隠しだよっ……! 早く取り戻さないと戻って来れなくなる! 私は輝達が無事か様子を見てから行くからっ」


 その声は迷いを許さないものでありながら、一方で焦りを孕んでもいた。


「なっ……あ、あぁっ! 先に行ってるぞ……!」


 それだけ答えると、辰巳は闇へと駆け出した。


 それは四つ脚の、人外の獣の如き速度。夏の温い夜気が肌を舐めるようだった。数時間前まで明かりのついていた家々も、すでに灯は落ち、眠りの底。月明かりが舗装された道を蒼白く照らし、魑魅魍魎の蔓延る夜の世界を顕わにさせている。


 胸の奥のざわめきが、燃料となって脚を突き動かした。


「くそっ……!」


 美鶴がいなくなった理由は未だ判然としない。しかし、その異常性はしっかりと認識していた。


 夢遊病のように覚束ない足取り。辰巳の声に反応することもなく、何かに誘われているかのように意識がはっきりしていなかった──


 もしもあの時、自身と晃が美鶴の姿を見逃していたのなら──彼女はこの夜を境に、人知れず石動家からいなくなっていたかもしれない。そう考えると背筋が冷たくなった。


 道はゆるやかな下り坂となり、やがて町と山の境を思わせる田畑の縁に出る。鬱蒼とした黒い山影が月明かりの下に存在感を示していたが、今は気にする余裕もない。ただ、山と人の生活域の境界線をひた走る。


 人気のない住宅地を駆け抜け、遠く月隠山の広い裾野の一部に縄張るように屋根を連ねた寺の伽藍が見えてきた。


「──慈願寺」


 幼いころから見慣れたはずの寺の輪郭が、夜の中では別物のように見えた。屋根瓦が月光を受け、まるで水面のようにヌラリと冷たく光っている。


 辰巳が更に一歩駆け出すと、足元でアスファルトが砂利混じりに変わった。舗装が途切れ、寺へと続く参道へと入ったのだ。


 ──カァ


 頭上から一声、烏が鳴いた。見上げれば電線の上に黒い影が二羽。夜にも月の明かりを反射してキラリと光る瞳が辰巳を見ている。


「……」


 烏たちが同時に羽ばたいた。黒い影が夜気を切り裂き、参道の先にある寺の境内へと低く滑り込む。


 それはまるで──美鶴の居場所へと案内しているかのように。


 辰巳の緊張に反応するように、胸の奥で獣じみた感覚がざわりと目を覚ます。無意識の内に人外の赤い瞳が発現し、暗闇の奥を見通していた。


 この辺りの温度は、夜とはいえ真夏にしては冷え過ぎている。そしてそれは龍神池に近づくほどに顕著であり、呼気が白く見える気さえした。


 ──龍神池まで、もうそう遠くない。


 しかし近づくほどに胸騒ぎはどんどん強まっていく。何かが、美鶴を奪い去ろうとしている──その確信めいた不安の針が、理屈もなく胸の内に刺さったまま抜けないでいた。


 参道の両脇、石灯籠がぼんやりと灯をともしている。盆の間に灯される小さな明かりが、かえって夜闇を深く際立たせていた。有名な建築物である巨大な仏閣を素通りし、広大な境内の一角にある林の中に庭園がある。


 ──龍神池。


 湿った冷気が頬を撫でる。日中であれば清く底まで透き通っている池の水は、月明かりを受けて群青に鎮まっていた。池の畔の石灯籠、渡された古い橋、遠くに影を落とす仏閣の屋根、宙の月──水鏡が全てを映している。


「美鶴ちゃん……!」


 辰巳の位置からすれば対岸の──池の畔に美鶴はいた。


 美鶴がゆっくりと池の中に脚を入れ、さざ波を立て水鏡を乱しながら淵へと歩みを進めようとしていた。その光景に動揺し、辰巳が咄嗟に声をかけて呼び止めるも……返答はない。


「待て──戻れ!」


 さらに声を張るが、やはり動じない。まるで何かに導かれているように、ただ静かに水の中を進んでいく。池の水は相応に冷たい筈なのに、震える素振りのひとつも見せることはなかった。


 辰巳は急ぎ対岸にいる美鶴の場所へと向かおうとした。


「やめろッ! 龍神っ、彼女を連れて行くな!」


 辰巳の声はほとんど悲鳴だった。──次の瞬間、美鶴がふっと顔を向ける。けれどその瞳は虚ろで、本当に辰巳を認識しているかどうかも分からない。


 ぞわりと背筋を駆け上がる悪寒。


「……っ」


 躊躇など吹き飛び、辰巳は宙を駆けた。空を蹴り上げ、一息に池を横切るようにして美鶴の元へと駆けつけようとした。しかし──


『我ガ逢瀬……邪魔スルコト能ワズ』


 念と共に強力な神通力が辰巳の行く手を阻み、天高くから見下ろされるかのような圧がのしかかる。


「ぐッ……!」


 ──瞬間、辰巳の体は見えない壁が押し寄せてきたかのように弾き飛ばされた。そのまま転がるように地面を滑る。衝撃に肺から息が絞り出され、視界が揺れた。美鶴の姿が遠のく。


 辰巳の視線の先、美鶴は前傾になって身を倒すところであった。──バシャンッ、と水飛沫が上がり水面下へと身体が沈む。そして、そのまま浮上してくることはない。それはまるで、水面の波紋に溶け、跡形もなく消えてしまったかのように。


「クソッ……!!」


 慌てて、池に飛び込む。水を掻き、水中へと沈んだ美鶴を探す。湧水は肌に刺さるように冷たく、容赦なく体温を奪ってゆく。──だがやはり、そこに美鶴の姿はなかった。


 その代わりに──月明かりの下、水面下に見えたのは緩くうねる太く長い影。プールで遭遇した龍だ、と気づくのは瞬きの間であった。


 そして、その龍の背には、美鶴とも伝承の娘とも判断のつかない……ただ白い影がゆらりと揺れていて──そのまま水の底へとゆっくりと消えていったのだった。


 ──辰巳が呆然としていると、頭上でカァ、と烏が鳴いた。


 池の冷たさとは別の寒気が、水面に広がっていた。水面に映った月輪は冷たく、その姿をゆらゆらと歪ませている。


「美鶴ちゃん……ッ!」


 呼びかけは、水の底へと吸い込まれていくばかり。答えはない。指先の感覚が急速に失われていく冷たさの中で、胸の奥が灼けるように熱を帯びてゆくのがわかった。


 ──奪われた。


 龍の影。娘の影。まるで古い民話の一節をなぞるように、現実が伝承に呑まれていく。


 カァ! と、もう一度烏が鳴く。


 今度は二羽どころではない。頭上の木々の枝、寺の屋根、石灯籠の上……どこに潜んでいたのか闇に溶けていた黒い影が次々と姿を現し、ざわりと羽音を立てる。月光を反射する数十の瞳が、一斉に辰巳を見下ろしていた。


「飛べ、と言ってるのか……」


 烏には鳴き方のパターンこそあれど、言語を持つ訳ではない。ただ、感情は伝わる。烏達は自身を助けようとしていると──そんな感覚が、妙に脳に直感的に響く。


 辰巳の肺から、熱い息が吐き出された。人の声ではなく、低く掠れた、獣じみた唸りが混じる。


「ソウか……お前ラハ、分カッてたんダな」


 烏達は分かっていたのだろう。彼がどのような存在であるのかを。人には持ち得ない、不思議な感覚を共有する烏達には。


 肩の骨が軋む。皮膚の内側から赤黒い気がにじみ出る。空気が一瞬にして張りつめ、池の周囲の虫たちが再び声を失った。


 同時に、辰巳の輪郭がゆらりと揺らぐ。人の形は保たれているはずなのに、何かが決定的に逸脱していく。


 鼻が大きく伸びて堅い嘴となり、鋭い輪郭を作った。肌には赤と黒の羽毛が芽吹くように生まれ、ざわりと逆立つ。絵にすれば烏天狗の面となるであろう輪郭がそこに形づくられた。


 目は完全に人のそれとは異なっていた。瞳孔は縦に裂け、灼けた炭のように赤い燐光がほとばしる。指先は鉤爪のように変じ、水面の下にある脚も同様に変化していることだろう。


 そして──バサリ、と音を立てて辰巳の背から鳥の翼が解き放たれる。月下に姿を現した、黒々と濡れたように艶のある大きな羽。羽ばたくたびに夜気がざわめき、闇が震えた。


 かつて異界で法力を得ながら堕した、その証──飯綱権現像を思わせる妖とも神とも見紛う相が、辰巳の容貌に重なっていた。


 烏たちは上位者の誕生を歓喜するかのように、ひときわ大きな声で鳴いた。導け、空へ、天高く連れて行ってくれとでも言うかのように、待ちきれずに月の浮かぶ夜空をぐるぐると飛び回る。


 辰巳はひとつ息を吸って吐き出した。人としての迷いも恐れも、いまはもうない。ただ、美鶴を人の世界へと取り戻す──その正しきこと成すという意思だけが胸にあった。


 背中の大きく強靱な翼を打ち鳴らして羽ばたく。池に大きな波が立ち、池の周りの木々が風で揺さぶられた。そうして、烏達の待つ夜空へとゆっくりと舞い上がり、群体を伴って真っ直ぐに飛び去っていく──山の方角。深い森の奥。月隠山の高い頂へ。


 夜は化生達の世界。人気のない暗がりには妖怪やら亡霊──只人の目には見えない者達が潜み……人外の化け物達が、ジッと空の影を見つめていた。


 ──そして、その姿を見ていた者がもう一人。


「……」


 走り息を切らせ、辰巳に遅れて慈願寺へと向かっていた晃。バサリという大きな羽音が聞こえ──夜空を飛翔する影に気づくと……足を止め、ただその姿を視界に収めた。


 茫然とも、憤懣とも判断のつかないその表情は硬く、彼女の内心を推し量る者は誰もいないのだった。




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