第40話 団欒
──帰りの車の中は、行きよりもやや重い空気に包まれていた。
結衣はハンドルを握り、前だけを真っ直ぐに見つめている。見える横顔はやや険しい。結衣はまだ繭子ちゃんに話をした様子はなく、十中八九、俺が結衣に提案した繭子ちゃんに異界に接触させてみてはどうかという案について考えているのだろう。
一方の助手席にいる繭子ちゃんはと言えば、今日の出来事でやはり疲れているのか早々に眠ってしまっていた。霊に対するのは結構、精神を消耗するものだからな。よく寝て、食べて、気力を回復させるしかない。
それに晃の隣にいる美鶴ちゃんや三列目に座っていた輝と湊も静かだと思ったらいつの間にか眠りに落ちていた。三人とも、疲れたんだろう。
車内では唸るエンジン音とタイヤがアスファルトを擦る走行音の他に、子どもたちの寝息が聞こえている。あぁ、それにもう一つ。隣に座る晃が俺に寄っかかって湊のゲームをしていて、そのゲーム音も聞こえてくる。起きているのは運転手の結衣、晃、俺の三人だけだった。
──窓の外へ視線を向けると、夕暮れの街並みが流れていく。
色々と問題は起こってしまって、素直に楽しい一日だったとは言い切れないかもしれないが……子どもたちにとっては良くも悪くも経験になったのではないだろうかと……そう思いたかった。
ただ言えることは──きっと今日の出来事は、子どもたちの胸に深く残るだろう。俺たち大人組にとっても、忘れられない一日になったのだから。
婆ちゃんも言っていた。子どもは失敗を繰り返して大人になってゆくのだと。大人は子どもの権利を守り、成長を見守る義務がある、と。……まぁ、それを言ったら今だに失敗を繰り返してる俺は何なんだという話になってしまいそうだが……それは置いておいて。
とりあえず俺がまず反省すべきは、今日、車で来たのが正解だったということ。遊んだ帰りにバスやら電車で帰るのでは、恐ろしく大変なことだっただろう。結衣と晃にはちゃんと感謝しなければならないな……
「……辰巳くん。ちょっとだけ、いい?」
「──ん?」
車を走らせてしばらくすると、結衣がぽつりと声を漏らした。その横顔にはまだ悩みが見える。
「辰巳くんの知る異界って……どんな所なのか聞かせてもらってもいい? 繭子に話をするもしれない前に、危険性も知っておきたいの」
寝てるとは言え、子どもたちのいるこの場で聞いてくるのは少し意外だったが、異界の情報を少しでも早く知っておきたいのだろう。それに、繭子ちゃんを異界に触れさせることへの危険性と可能性を吟味するためとも考えられる。
「構わないよ」
俺がそう答えると結衣の横顔がほんのわずかにこちらへ傾き、バックミラー越しに視線が合う。どこから話そうかと考えていると若干の沈黙が場に流れた。結衣は俺が話し始めるのを待つつもりらしい。
「そうだなぁ──まず、向こう側の異界は俺にとっては長い間生きてきた場所でもある。結局、十二年もいたから、怖いだけじゃなくて、もう懐かしいくらいに思える部分もあるんだ」
異界に住んでいた十二年は長いようで短い日々だったと思う。慣れない環境への苦痛。心細さ。人ではない存在との出会いと別れ。得た知識の数々。色々なことが頭を過っていくが……その全てを語ることは中々出来ない。
「そこをどんな場所か人に説明するなら……そうだな。やっぱり異界って表現がわかりやすいのかも。どこか見慣れた景色ではあるんだけど、でも人の世界とはずれてる……限りなくこの世界に似た違う場所って感じかな」
例えば、山や川、古い町並みの景色はある。でも、影の落ち方が太陽と合ってなかったり、時の移り変わりと共に景色が一変することがある。昨日は平原だった場所に森が出来たり、川が出来たり……山の形が前の日とは変わってるなんてこともあった。
向こうで出会った師匠に何でそうなるのか聞いたことがあったが、俺は自分から質問しておいてその事を真面目に考えなかったことを覚えている。確か──
『──因果が定まらぬからだ』
『因果……?』
『人の世は、人が数多の手で刻んだ名、現象、歴史や習俗で形を縫い留めておる。だから山も川も町も、容易には姿を変えることはない。だが、こちらには人の理がない。定める者がいないがゆえに、景色そのものが夢のように揺らぐのだ』
そのときはよく分からなかった。だが十二年過ごすうちに、その言葉の意味が嫌でも身に沁みた。昨日と今日が同じ景色だと保証されない世界──それが異界だった。
「向こうは人の世界みたいに地図や季節が一定じゃないんだ。昨日まであった筈の平原に、今日は轟々と川が流れてる。森の木々が少しずつ移動して迷路を作っていることもある。見える星の位置すら頻繁に動いて、法則性なんてないように見えた。そこに住む神や妖は、それを当たり前のように受け入れて暮らしてた」
そう、そこはとにかく不思議で、人間の尺度では測れない世界。曖昧模糊という言葉が世界という形を成し、魂や精神、意志の強さといった目に見えない要素こそが重要な役目を果たしている……そんな場所だった。
「……そんな世界でタツ兄は暮らしてた?」
ゲームをしていた筈の晃までもが、話に加わってきた。未知の世界のことだ。気にならない、なんてことはないのだろう。
「そうだ。まぁ……住めば都っても言うしな。初めは慣れるまで相当苦労したけど」
そう言いながら、向こうの風景を思い出す。
「町もあってさ。そこでは市が立っていて、妖狐や河童が並んで物を売ってる。鬼が鉄を打って、正体の分からない神が舞を踊る。まるで人の町と変わらないくらいの『賑わい』と『生活』があった。……ただ、そこで生きるのは人じゃなく、神や精、霊に妖ばかりだったけど」
そんな場所で人間は俺、ただ一人。だから、向こうでは本当にいろんなことがあった。
「俺は幸運だったんだよ。向こうには神様として祀られてきた人に寛容な存在もいれば、人を恨んで害そうとする妖、人を警戒して異界から排除しようとする精だっていた。そこでは基本的に人は異物でしかなくて……俺は運良く旅の一行に拾って貰って、どうにか生き延びられたってだけだった」
本当に運が良かった。恐らく、拾って貰えていなかったら俺は生きていない。人食い妖怪に食われてここにはいられなかっただろう。
「……危険な場所なんだね。辰巳くんは……異界に触れさせるって言ってたけど……どんな方法を考えてるの?」
「……あぁ。異界に触れるって言っても、神様や妖達のいる町に行く訳じゃない。《《入口》》を通ってほんの一瞬『向こう側』を覗かせるくらいだ。景色や気配を感じるだけでも、十分に魂を刺激する神秘体験になる筈だし」
「《《入口》》?」
そう、入口だ。神隠しにあった当初のことと、此方に帰る前のことを思い出す。
「色々条件はあるけど──異界へは意外と簡単に渡れたりする。御山の参道を登って行くと岩の洞窟があって、そこが向こう側に繋がってるんだ」
あれは、俺が神隠しにあった時のことだ。ランニング中、展望台への近道をするために御山の参道を登っていて、ちょっとした違和感を感じた後、やっぱり何かおかしいなってすぐに気づいた。
自慢じゃないが、俺は道に迷ったことなんて一度もなかった。何となく勘のゆくままに道を進めば目的地に着く。なのに、その日はいつまでたっても目的地の展望台が見えてこない。それどころか頼りの勘は既に通り過ぎたって訴えてきてた。
流石に怖くなって、慌てて引き返そうと思ったところで──それを見つけた。今にも朽ちそうな注連縄の掛けられた巨大な岩と、古びた社、その奥にある洞窟を。
「……母胎石窟、かな」
「そう言われてるの? あっちでは産霊窟って言われてた」
「そうなんだ……その岩屋、月隠山の伝説の一つになってるの。昔の修験の聖域で、当時は禁足地にもなってたと思う。洞窟を母胎に見立てて、俗界の汚れを捨て、聖なる存在として新たに生まれ直すことを祈った場所だった筈。でもそこ……月隠山の六合目付近にある筈なんだけど……」
そんな所まで登ったの……? と結衣が困惑したような声で聞いてきたが、そんな訳ない。
多分、何かの拍子に境界を跨いでいたんだと思う。境界を跨ぐことで距離がおかしくなった。表を歩いていると思ったら裏に、裏を歩いていると思ったらまた表に──紙に書いた迷路を、紙を折って出口に繋げるような感覚。
「道のりがねじれてたんだと思う。だから六合目にあるはずの洞窟に、間を飛ばして辿り着いた」
思えば、此方に帰って来た時にも御山からの下山中、何回か鳥居を潜ったような気もするし。あれがそうだったのかもしれない。
「えぇ……?」
「そんなことあるの……?」
二人が驚いた声をあげる。
「まさかって……思うだろ? でも、あの時は本当に……展望台に向かってたはずなのに、いつの間にか通り過ぎてた。勘が外れるなんて、俺にはありえなかったのに」
俺は少し苦笑いを浮かべながら続ける。
「で、でだけど……その時はまだ明るかったし、何となく興味を引かれてその洞窟に入ってみることにした」
「──え、何で? 何でなんだろ……ごめん。全然、理解できない……」
「何で入ったの? 馬鹿なの? タツ兄ってたまにすごい馬鹿するよね」
「え……? いきなりひどくなぁい……?」
「わ、私の高校時代はそんな馬鹿な考えで暗黒期に……」
「は? どれだけ心配したと……私の苦しみを考えろ、バカー!!」
俺が洞窟に入ってみた、というと結衣と晃が心底理解出来ないといった様子で引いていた。それから突然、晃が肩を殴ってくる。痛っ、やめろっ、子どもらが起きるだろうがっ。
「──は、話を戻すけど」
「……」
「はよ」
「……洞窟の向こうは異界の山中の深い森の中。一本一本が御神木だって言われそうな苔生した木がそこら中に立ってて、空気も全然違う──」
原初の森だ。空気は冷たく澄んでいて、見るからに神秘に溢れている。胸の奥にまで目に見えない《《何か》》が沁み込んでくる感じだった。
「……人の手の入ってない森の中みたいな感じ?」
「それが近いかもな。でも……それよりももっと濃いし、人の理じゃ測れない世界だ。で、そういう場所にはルールがある。守らなきゃ帰ってこれなくなる」
「ルール?」
晃が少し興味深げに口を挟む。
「幾つかあるけど絶対に守らなきゃいけないのは、向こうで食事をしないこと。神の真の姿を見てはいけないこと。……取り敢えずはこの二つ。俺は十二年向こうで暮らして、それがどういう意味か嫌ってほどわかった」
信号が赤に変わり車が止まる。結衣の握るハンドルに力がこもった。
「それが守れなかったら……?」
「……」
「辰巳くん……?」
「タツ兄……?」
それが過ぎれば人ではなくなる、なんて答えられなかった。だから、そのまま続けた。
「食事をすれば、向こうの理に縛られて曖昧模糊とした存在に変わり、人の世には戻れなくなる。神の真の姿を見てはいけないのも同じだ。人が見ていいのは仮の姿だけ。本当の姿を見れば──人では狂う。人の精神は耐えられるように出来てないからな。……そして、ルールを守れなきゃ、狂うか異界に永遠に囚われるか……どっちかになる」
「……タツ兄が生きてて良かった」
「はは、俺は……本当に運が良かっただけだ。いや、悪かったのかな? ハハ」
「……」
晃の言葉に肩をすくめる。見える結衣の横顔は相変わらず険しいままだった。彼女が何を考えているのかは分からない。
「だから、異界に触れさせるって言っても、出口の匂いを嗅がせる程度。二人が望むなら、俺が横で見張って絶対にルールを破らせない。だけどそれでも……危険はあると思って欲しい」
自分の声が思ったより低く響いた。そのせいで車内の空気がまた重くなった気がした。
「ただまぁ──恐ろしいだけの世界じゃないのも確かだよ。向こうには神秘も溢れてるし、精神修養の場としてはこれ以上なく最適なんだとは思う」
「そっ、か……」
「──てかさ聞いてて思ったんだけど、結衣って弟子のことで悩んでんだよね? 師匠にしては過保護過ぎじゃない?」
「……あなたは悩みなんてなさそうでいいですね」
「は?」
「やめろ、晃。俺も晃も、師としての悩みとか辛さは想像でしかないんだから」
今ここで火花を散らすのはやめてくれ……
結衣の言葉の裏にあるのは焦りと迷いだ。繭子ちゃんを思えばこそ、異界に触れさせるべきか否か……その板挟みが、結衣の肩を重くさせている。
「えぇ? だってさ、タツ兄……タツ兄も実際そう思うでしょ? ウチのババアなんて、すんごいスパルタだったし」
「それは……」
「……過保護、ね。確かにそうかもしれない。でもね、私は師匠である前に、あの子の従姉でもあるの」
噛みしめるような言葉だった。
晃が「……あっそ」と小さく鼻を鳴らしたが、それ以上の反論はせず、再びゲーム画面に視線を戻す。その態度は拗ねたようにも見えるし、単に言い返すのをやめただけのようにも見えた。
俺はそのやり取りを横で見ていて、心の内で少しだけため息をつく。
(……難しいよな。でも、誰も悪くない筈だ)
信号が青に変わると同時に、車は再び走り出した。エンジン音とタイヤが擦れる音、眠る子どもたちの静かな寝息が、かえって沈黙を際立たせていた。
俺は窓の外の暮れゆく街並みに目をやりながら、運転席にいる結衣の横顔を盗み見る。あの碧い瞳はまっすぐ前を見据え、静かな光を宿していた。けれど、その奥には迷いと恐れが確かに潜んでいるようにも思える。
(……あとは、繭子ちゃんの答え次第だ)
そう心の中で呟き……車内に流れる重い空気の中、今日何度目かの溜息を吐いたのだった。
□
──日も落ちた頃合い。石動家の居間はいつもより賑やかだった。プールで疲れ切っていた筈の子どもたちは空腹から夢中でご飯をかき込んでいて、食卓には賑やかな笑い声が響く。
卓の中央には大皿の唐揚げ、根菜の煮物、山盛りのサラダに数種の漬物。炊き立てのご飯の湯気が立ち上り、具沢山の豚汁の優しい香りが部屋に広がる。婆ちゃんが座布団に腰を下ろしながら、にこにこと皆を見守っていた。
「「いただきますっ」」
輝と湊の声がそろい、勢いよく箸が伸びる。
「うめぇ! やっぱ婆ちゃんの唐揚げ最強だな!」
「湊、そんなに頬張ったら喉につまるぞ」
輝が呆れつつも自分も唐揚げをつかみ取り、二人で笑い合う。美鶴はそんな兄たちを横目に、静かに煮物を口に運んでいた。
「……お婆ちゃんの煮物、好き」
小さくつぶやく声に、婆ちゃんがにっこり笑う。
「美鶴は好みが大人っぽいねぇ。普通は湊達みたいに肉だったり、もっと甘かったり、味の濃い乳製品とかを好むもんだが」
「……そういうのも好きだけど、お婆ちゃんの料理はホッとする。家では食べられないから」
「そうかい。なら、たんと食べていきな」
美鶴は少しだけ頬を緩めて頷いた。
──そんな光景を見て少しホッとする。
今日は色々あった一日だった。輝たちも繭子ちゃんのことで少なからずショックを受けただろうが、また元気になってくれて良かった。難しい顔して飯食べるんじゃ、味もよく分からなくなるしな。
ちなみにこの場に結衣や繭子ちゃんはいない。繭子ちゃんを家に送るために結衣さんも帰って行った。
そんな中、晃はと言えば──さも当然のように俺の隣で食卓に加わっていた。まるで自分の家のようなくつろぎっぷりだ。唐揚げを頬張り、ビールの缶をプシュッと開ける。
「……なぁ晃。お前、当然の顔してここにいるけど帰る気あんのか?」
「え? ……やだなぁタツ兄。最初から帰る気なんてゼロだよ。今日も泊まってくに決まってるじゃん」
そう言ってぐいっと一口。ふぅ、と一息つく。
「これでもう車運転出来なくなった。家遠いから泊まるしかない」
「確信犯じゃねーか……飲みすぎんなよ」
「だいじょーぶ。私、お酒強いから」
「ほんとかよ……」
どこから持ってきたのか……ビールなんて婆ちゃんは飲まないし、態々買うとも思えない。多分何かのタイミングで貰ったか、晃が持参したかのどちらかだろう。
「ほら。タツ兄も。可愛い幼馴染にお酌して貰えて、嬉しいでしょ? 一緒に飲も?」
晃の横顔はちっとも悪びれもしておらず、さらりと酒を注ぐ為のガラスのコップを差し出してくる。
「それはいいけども……それにしたってお前、人の家でくつろぎ過ぎじゃない? 孫の輝たちだってもう少し遠慮してんぞ」
思わず呆れるように言ったものの……晃は俺の言葉なんてまるで聞いちゃいなかった。
「そんな堅いこと言わないでよ。ここにいると何か落ち着くんだもん。タツ兄も皆もいるからかな? なんか昔を思い出すんだよね」
「お前なぁ……」
「──それに、ほら。許可はもう貰ってるし、私がいてもお婆ちゃん何も言わないし」
晃がイェーイとピースサインを作って得意げに俺を見る。確かに婆ちゃんは晃が普通に食卓にいても何も言わず、輝たち三兄妹達の前にどんどん料理を集めていた。
「それはウチで食事をする許可だろ……」
「……だめ?」
「いやまぁ、婆ちゃんは昔からこういうとこ、妙に寛容だったりするからな……」
「じゃあ、大丈夫だね」
「お前なぁ……」
肩をすくめる俺に、晃は気にした風もなく唐揚げを摘む。まるでずっと昔からこの家に馴染んでいるかのように。
「……なぁ、婆ちゃん」
「ん? なんだい」
「晃のやつ、また泊まる気みたいなんだけど……いい?」
ちらりと視線を送ると、婆ちゃんはフッと笑ってからお茶をすすった。
「別に構わないよ。部屋は余ってるし、よくよく思い出せば、アンタ小さい頃よくここに来てた子だろ? 今さら気にすることもあるまい。布団くらいなら出してやるさ」
「……ほらね?」
「ゆっくりしていくといいよ」
「お婆ちゃん、ありがとう」
晃が勝ち誇ったように小声で囁き、俺の腕を小突いた。
「だってさ──家に帰ったって誰もいないし、一人で寂しいんだもん。てことで、今夜もここに泊まってくから。よろしくね、タツ兄」
「……ったく。まぁ、婆ちゃんがいいって言うなら俺は何も言わないよ。それより、お酌してくれんじゃないのか?」
「あ、ごめんごめん。もしかしてだけど、けっこーイケる口?」
俺が呆れ半分でため息をつくと、晃がビールをコップへと注いでくる。俺が酒好きかって? 妖やら神やらの存在は皆、大抵は大酒飲みだ。無論、宴会だって大好物。テレビで言う『あるはら』なんて目じゃないからな。
「まぁ、それなりにな」
「ホント? だとしたら嬉しいな。私の回り、一緒に飲んでくれる人もいないし寂しかったんだよね」
「そうなのか。意外だな……カンとかシュウはどうした? あの二人は飲まないのか?」
「同じ寮出身だからっていつも一緒って訳じゃないから。秀平は家庭持ちだし、官九郎だって独り身じゃないし。でも、あの二人はお酒好きだよ」
「そうか。じゃあ他に一緒に飲んでくれる人はいないのか」
「まぁ、いないこともないけど……。その内、來良が付き合ってくれるって言うんだけど、まだ未成年だしね」
晃の注いだビールが気泡を作りながら泡立つ。小さな炭酸の弾ける音が心地よく耳に届いた。
「はい、タツ兄。じゃあ、カンパーイ」
「あぁ……カンパイ。でもまさか、あのアッちゃんと酒飲むようになるとはなぁ……」
「アッちゃん言わない」
時の流れとは早いものだ。こうして晃と酒を飲む日が来ようとは。
カチン、とコップと缶とをぶつける。口に含めば、冷えた苦味が喉をするりと落ちていく。何気に麦酒を飲むのは初めてだったが、独特の風味が鼻腔に抜けて悪くない。
「……やっぱりさ、こうやって皆で集まって飲んで食べるのはいいよね。賑やかで楽しい」
「そりゃ良かった。もう数日したらもっと賑やかになるかもな。っと……そうだ。買い出しとか婆ちゃんに頼まれてたんだ。悪いんだけど、皆が集まる前に買い出し手伝って貰ってもいいか?」
「いいよ。泊めて貰ってるんだし、少しくらい手伝わないとね」
「おや、手伝ってくれるのかい。準備しなきゃならん物は沢山あるからね。二人とも頼んだよ」
婆ちゃんはそんな俺と晃の掛け合いをしっかり眺めていたようだ。
「しかし、子ども達がいると場が明るくなるねぇ。辰巳だけじゃ、こうはならない。輝達の来た昨日なんぞ、朝っぱらから妙に気味の悪い空気してたからね」
「ひでぇ」
「それに比べて……若人が多くいると家に活気が戻るようだ。昔を思い出す」
「年齢的には俺も一応、その若人に入ってる筈なんだけどな……」
「お婆ちゃん、昔って?」
「ん、あぁ、今でこそこの家は静まり返ってるけどね……うちにも賑やかだった頃があったって話さ。お前達の曾祖父の頃から誰かが客としてふらっと来ては、飯を食らって、酒を呑んで泊まっていく。そうやって石動の家は人の縁を繋いできたんだ。懐かしいねぇ」
「へぇ……」
「知らん間に仏壇から勝手にお供えもの持って行って食われたり、客が酔っ払って縁側から落っこちたりしたこともあったね。馬鹿ばっかりだったが。縁のある者、ない者、皆が集まって騒いで……今のお前達を見てるとそんな昔の様子を思い出す」
──婆ちゃんの言葉には俺も覚えがあった。子どもだった頃の懐かしい記憶の一つだ。
その昔、何かの行事だった気がするが父さんに連れられて兄弟達の集まりに来てた時のこと。宴会中、いつの間にか叔父さん達の友達とか近所の人なんかが増えて、どんちゃん騒ぎするということがあった。
……そうだ、あれは確か地域の祭の時だった。石動家には祭りの時に一族が集まるっていう決まりが子どもの頃にはあったのだが、本来は家族だけで完結する筈の宴会が、段々と祭りの法被を着た人やらなんやらが混ざって凄いことになった事があった。
切っ掛けは分からないが、次から次に人が家に出入りし、料理を持ち寄り、酒を持参し、人が人を呼ぶ──そんな状況。最終的には完全に酔っ払い、出来上がった人達ばかりになって、祭りの余韻のままに篠笛を吹き、三味線を掻き鳴らし、舞い踊った。
今思えば身内の宴会というよりは祭りの打ち上げのようになっていたように思う。その時ばかりは、普段はとても真面目な父さんも一緒になって楽しく飲んでいて、『辰巳も好きなの食べろよ』と酒で火照った顔で言われたのを何故か覚えていた。
あれやこれやと人が行き交い、酒が振る舞われていく中で今よりも若い婆ちゃんは……迷惑そうな顔もせず、楽しそうに笑っていた。そんな記憶。
──その場面を思い出すと、婆ちゃんが晃をこの場に受け入れているのも当然かと思った。記憶にある石動家の食卓では、時たま誰かがふらっと来て座っていて、血の繋がりとか関係なく受け入れてしまうような空気が確かにあったから。
そして、婆ちゃんの言葉に何か思うところがあったのか──美鶴ちゃんだけでなく、輝や湊たちも咀嚼の合間に視線を婆ちゃんに向けていた。
婆ちゃんの昔話にはどこか温かみがあり、三人もまたそれを感じているからだろう。
「縁を繋いでゆくのは若人の役目。だから、お前達も人の繋がりってものは大切にしないといけないよ」
「うん、わかったよ。……お婆ちゃん、この家が静かになって寂しくない?」
「さて、どうだろうね。子ども達が独り立ちして家を出てった時は肩の荷が下りた気がしたが、身が軽いというのも案外落ち着かないもんでね。一人は自由気ままに楽しくやれるが、この年になると昔をよく思い出すってだけだよ」
「……難しくてよくわかんねぇ! それってやっぱり寂しいってことなんじゃねぇの?」
「クハハッ! ちょっと違うね。湊にはまだ早かったか」
「えぇ? そんなことねーって!」
「湊、僕だって同じだ。僕らにはまだまだ分からないことがあるんだよ」
「お婆ちゃん、大丈夫。私たちがいれば寂しくないよ」
「ふ……美鶴はいい子だねぇ……お前たちが揃って騒いでるのを見るのは年寄りの退屈しのぎにはちょうどいい」
婆ちゃんは笑いながらも、その瞳にはいつかの昔の光景を重ねて懐かしんでいるように見えた。婆ちゃんはこの家でどんな光景を見てきたのだろう。
「じゃあ、私も……昔みたいに、またここに遊びに来たり、むしろ入り浸りになってもいいってことだよね」
「……いや、そういう話だったか? もう大人なんだから、頼むからほどほどにな」
「迷惑かけないから。……むしろ、私が賑やかにしてあげる。そうだ、私も來良と一緒にお婆ちゃんに料理習おうかな」
「アッハッハッ! それはいい! 男なんぞ女が胃袋掴んでしまえば何も逆らえんようになる。それに手の平で転がすのも自由自在。ウチの味を覚えておけばいつか何かの役に立つかもしれないよ」
「っ、よろしくお願いしますっ!」
ふんっ、と鼻を鳴らした晃に、婆ちゃんが愉快そうに笑った──ところで、横から輝と湊の声が割り込んでくる。
「あっ、唐揚げラスト一個じゃん! 俺もーらいっ!」
「はぁっ!? それ僕のだぞ! さっきから数えてたんだからな! 湊、お前取り過ぎなんだって!」
「数えるなよ! こまけーな! こういうのは早い者勝ちだろ!」
輝に湊、二人の箸が同時に伸びて、最後の一個を牽制し合う。
「残念。私が貰う」
そこで美鶴ちゃんが指で摘んで、そのまま口にひょいと放り込んだ。輝と湊が驚いたように美鶴ちゃんを凝視して、次いで恨めしげな声をあげた。
「うわっ、美鶴ーっ?! ずるいぞ、お前!」
「湊が早いもの勝ちって言った。自分が言ったのに私を責めるの?」
「最後の僕のだったのに……」
「輝は細かすぎる。もう少し器を大きくしたら? だから子どもっぽいって言われる。そんなんじゃ女の子からモテないよ」
「な、生意気な……」
輝が最後の唐揚げを奪われ、更に言葉でもやりくるめられたことで消沈した表情を浮かべた。
婆ちゃんは肩をすくめてクツクツと笑い、俺は美鶴ちゃんの強かさに頬を引き攣らせることしか出来ない。その横で晃が、目を細めながら小さく呟いた。
「……やっぱり、こういう賑やかなのが一番落ち着く」
居間に響く争う声と食器の音。俺にとっては久方振りの賑やかさであり、晃にとっては竜養寮で過ごした日々を思い起こさせる場面なのかもしれない。
昔と今とが自然と重なり合う、団欒という変わらない時間。これを日常と非日常、どちらの名で呼ぶにせよ、この空気の中では心の奥がほんのり温かくなるのを感じずにはいられなかった。
「──そうだな」
晃の言葉に相槌を打ちながら、俺は一息にコップの酒をあおる。隣では晃も負けじとビールを呷り、喉を鳴らした。どうやら本当に酒好きらしい。
その後も暫くの間は俺と晃は酒を酌み交わしたり、料理をつつき合ったりと穏やかな時間を過ごしていた。
「……」
しかし、そんな団欒の中にも微かな異変の兆しはあって──
美鶴ちゃんがふと食卓の賑わいから視線を外して庭の方をじっと見ていたことには……俺を含め、その場の誰も気づくことは出来なかったのだった。




