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第39話 巫病


 ──水中を蹴り上がるたびに、肺が焼けつくように悲鳴を上げた。


 限界はすぐそこに迫っている。それでも、腕に抱いた繭子ちゃんの冷たい身体を感じれば感じるほど、諦めるという選択肢はなかった。


 光は近づいている。だが水は重く、地上のような自由な動きは出来ない。


(あと少し、あと少しだ!)


 最後の力を振り絞り、腕を大きくかき、水面に手を伸ばした。


 ──ザバァッ! 


 激しい水飛沫とともに、水面の『境界』を突き破る。『異界』から抜け出ることが出来た。足もプールの底につく。


 その瞬間、肺が裂けんとばかりに息を吸い込み、体の中に酸素が流れ込む。視界が一気に開け、頭上には眩しい夏の日差しが広がっていた。


「……はぁっ……はぁっ……!」


 荒い呼吸を繰り返しながら、急いで繭子ちゃんをプールサイドへと運ぶ。


 繭子ちゃんはぐったりとしたまま、意識を失っている。だが──まだ間に合う。生きている。腕の中の繭子ちゃんからは確かに生命を感じ取れていた。


「きゃっ……!」

「女の子!? 意識がないのか!?」

「おいっ! 誰か、スタッフ呼べ!!」

「女の子が溺れた! 救急車! 早く!」


 周囲のプール客たちが騒然としだす。監視員が笛を吹き鳴らし、救助員が駆け寄った。歓声と笑いに包まれていたプールサイドが、急激に緊張と動揺に飲み込まれていった。


「繭子っ……!!」

「結衣、大丈夫だ……まだ間に合う……!」


 結衣がプールサイドに横たわった繭子ちゃんに駆け寄り、すぐに救助員が心肺蘇生を始めたのを動揺を隠せない様子で見ていた。


「お、おにいさんっ……!」


 晃にすがっていた美鶴ちゃんが、涙に濡れた顔で俺を見つめた。その目には恐怖と不安がない混ぜになった揺らぎが未だ宿っている。


「大丈夫だ、美鶴ちゃん!」


 声を張り上げ、不安を払拭するように美鶴ちゃんの頭をワシワシと撫で上げる。


 救助員の一人が素早く胸骨圧迫を開始する。周囲の客達がザワザワとしているのが鬱陶しい。……何でカメラを向けるんだ? ……腹が立つ。何も映らないように邪魔してやろう。いや、写ってはならないものでも写してやろうか? 


「……繭子っ……しっかりしなさいっ」


 結衣が祈るようにその名を呼ぶが、繭子ちゃんはまだ何の反応も見せない。青白い顔は沈黙を続け、濡れた髪が頬に張りついている。


 もう一人の救助員が交代で人工呼吸を試み、周囲には張り詰めた空気が流れた。


「っ……! 咳込んだ!」


 その瞬間、繭子ちゃんの身体がびくりと震え、小さく痙攣するように喉が動いた。


「ゴホッ……ゴホッ、ゴホッ……!」


 咳き込みながら肺に溜まっていた水が口からゴポリと連続で吐き出されてゆく。胸が上下し、まだ息苦しそうではあるが呼吸している。


「あぁっ! 繭子っ! よかったっ……!」


 安堵したせいか、へたり込みかけた結衣を支える。美鶴ちゃんも涙に濡れた顔を輝かせて「よかった……!」と声を上げた。同時に周囲の野次馬達の方からも安堵したような声が聞こえてきた。


 深く息を吐いた。安堵と同時に、蘇生を見届けたことで全身から力が抜けていく。


(……生きてる。よかった、何とか間に合ったか……)


 ほんの数分のことだったはずなのに、まるで何時間も戦っていたかのような疲労が押し寄せる。いや、これなら自分が戦っていた方が何倍も気が楽だ。


「繭子っ……このバカっ……後で説教ですよ……」


 結衣の声が震えている。繭子ちゃんに今なお呼びかけている姿は、弟子に対するというよりも一人の姉の姿のように見えた。繭子ちゃんを助けることに理由など必要なかったが、結衣のその姿を見てると身体を張ったかいがあったと思えた。本当に助かって良かった……


「うえぇ……よかったよぉ……たすかって、ほんとによかったっ……!」


 美鶴ちゃんは人目をはばからず、しゃくりあげるように泣き笑いを繰り返していた。美鶴ちゃんもどことなくクールなイメージがあったが、こうして繭子ちゃんの無事を喜んでいるということはやはり優しい子なんだろう。


 ──しかし、一方で……目の前で少女の命が繋がったことに胸を撫で下ろしながらも、意識の奥では今も水底で見た光景の余韻はなかなか抜け切らなかった。


 白銀と蒼の鱗が放つ光。そして宝玉のような眼差し──恐らくは速秋津淵青主と呼ばれる龍。脳裏にはその姿が深く焼きついている。


 龍は言っていた──『願いは叶えた』と。あの龍は確かに繭子ちゃんを守り、そして自分に託した。しかし、そこには誰かの『願い』が前提にあった。


 その『願い』が誰の物なのか──いや、その願いは本当に美鶴ちゃんの物なのか、そして何故彼女の願いを叶えたのか。……謎は深まるばかりだ。


 それに……龍が告げた『月隠の狗賓』『知りたければ訪ねるがいい』という言葉。その言葉から連想される幾つもの疑問が、俺の胸に妙な引っ掛かりを残している。


(確実に、会いに来いって事なんだろうなぁ)


 龍の言葉の意図を読み解き、ため息を一つ。面倒事に知らない内に巻き込まれている気がした。


 □


 救護室は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。冷房の効いた室内にはプールの塩素っぽい匂いではなく、消毒液なのか薬品のような匂いが漂っている。


 ──俺は簡易ベッドの脇に立ち、結衣と繭子ちゃんの二人の様子を見ていた。


 幸いなことに繭子ちゃんはその後、直ぐに意識を取り戻した。念の為に救護室に移動して、プール客の中にいた医者だって言う若い先生に診察して貰っていたのだが……


 意識が安定していると分かると結衣が繭子ちゃんの頬を張り、雷を落とす一幕があった。


 恐らくは、それ以上心配をかけまいとした繭子ちゃんが平気そうにヘラヘラしていたことに腹が立ったのだろうが……結衣から放たれる怒気はそれはもう凄かった。


 あまりに迫力がありすぎて、繭子ちゃんはプールから引き揚げた時みたいに顔を青褪めさせてガクガク震えていたし、医者の若先生の表情も引き攣っていたように思う。


 ──その後、しばらく安静にして様子を見ると先生に言われたので繭子ちゃんから詳しく話を聞くことにした。


 繭子ちゃんの話を聞いた感じでは、繭子ちゃんと美鶴ちゃんがプールに沈む影と漂う手を見つけ、繭子ちゃんが一人で祓を行おうと自分から霊に近づいていったらしい。


 ただ何故一人で祓をしようと思ったのかについては頑として言わなかったのだが……結衣はそれを鋭い碧い目で見ていた。当然のことだが、繭子ちゃんはそのことでも厳しく叱られていた。


 まぁ……危険な行動をして死にかけたのだから叱られて当然だ。まして霊に関すること。これまでの事を振り返るに、結衣が甘い指導をしていたとは思えない。繭子ちゃんは結衣の言いつけを破ったということなんだろう。


 とはいえ、それに対して結衣は怒りつつも訥々とどれだけ心配したかを説明していたし、最終的には抱き締めていたので師弟関係が崩れるような事はないと思いたい。


 ──とまぁ、そんなこんなで二人の問題は一先ず落ち着きを見せようとしていたが、当事者はもう一人いた。保護者代理として彼女とも話はしなければならなかった。


「美鶴ちゃん、落ち着いたか?」

「辰巳お兄さん……ありがとうございました。繭ちゃんを助けてくれて」


 美鶴ちゃんは救護室の外に一人でいた。輝と湊のことは晃に付き添いを任せたが、二人は繭子ちゃんが溺れたということで少し消沈していた。食い物に夢中で見ていなかったことをひどく悔やんでいるようだった。ただまぁ、晃がいればその内元気を取り戻すだろう。


 一方の美鶴ちゃんだが──彼女も晃に任せたかったのだが、繭子ちゃんの所についていきたいと言って聞かなかった。責任を感じているのかもしれない。


 その眼差しには安堵が浮かんでいたが……気分的にはやはりやや消沈している様子だ。まぁ、そりゃそうか。眼の前で人が溺れ死にそうな場面見たんだしな……


「礼なんていらないよ。助けるのは当然のことだからな」

「それでもお兄さんが居なかったらって思うと、どうなってたか怖いです……だから、ありがとうございます」


 美鶴ちゃんが丁寧に頭を下げる。元々、龍臣叔父さん夫妻の子どもたちの育て方がいいのかもしれないが……その仕草には《《不思議と》》年相応の幼さを感じなかった。


「なぁ美鶴ちゃん。繭子ちゃんは、引きずり込まれてからのことは覚えてないって言ってたけど……美鶴ちゃんはどうなんだ? 何があったのか教えて貰えるか?」

「私が見たのは……プールの底に影っていうか歪みみたいなのがあって……そこから手が幾つも伸びてたんです」

「ふむ」

「それで繭ちゃんが助けてあげたいって言って近づいて行ったんだけど……突然、姿が見えなくなって……死んじゃうかもって思ったらすごく怖くなって……《《誰か助けてって》》……」

「そうか……あのな、俺が繭子ちゃんを助けに潜った時、龍を見たよ。龍が繭子ちゃんを守ってた。もしかしたら……美鶴ちゃんが言ってたドラゴンじゃないかって」

「っ、やっぱり……! それアオですっ!」

「アオ?」

「はいっ。アオっていうのは友達の名前でっ、本当はもっと難しい名前があるんですけど──」

「それは──速秋津淵青主って名前?」


 俺がそう口にした瞬間、美鶴ちゃんの大きな瞳がきらりと揺れた。驚きと歓喜、それにどこか誇らしげな色が浮かんでいる。


「お兄さん、アオのこと知ってるんですか……!?」

「結衣から聞いたんだ。月隠山の頂にある龍神池に祀られている、龍の名だって」


 美鶴ちゃんは力強く頷いた。


「そうっ、そうなんですっ。アオは、ハヤアキツフチアオヌシ。……夢の中で会える友達……でも、たまに雨の日とかには夢じゃなくても会いに来てくれるんですよ? みんな信じてくれなかったけど。本当に、アオは居るんですっ」


 その声には、子どもの無邪気さというよりは、時間をかけて築かれた信頼関係が感じられて……俺はかける言葉を一瞬失った。


「美鶴ちゃんは……龍に助けてって願った?」

「はい……繭ちゃんの姿が全然見えなくなって、すごく怖くなって……助けてって、心の中で叫んだんです。そうしたら──アオは来てくれました」


 満面の笑みと共に溢れた言葉。龍が告げた言葉が脳裏に蘇る。『願いは叶えた』──それはやはり、美鶴ちゃんの祈りを受け取ってのものだった。


 人が龍に願いを祈る──それは古くから続いてきた信仰の形だ。だが、自然の権化とも言える龍を友と呼ぶ彼女は……その一般的な関係からは逸脱している。


「……そうか。じゃあ、繭子ちゃんが助かったのは、美鶴ちゃんと……アオのおかげだな」

「えへへ。そういえばアオが言ってました。困ったことがあったら名を呼ぶと良い、駆けつけるって。言ってたこと、本当でした」

「それは…………いや、美鶴ちゃんとアオは本当に友達なんだな」

「はい!」


 その言葉には疑いなど一欠片も感じられない。龍の友になって願いを叶えて貰うだなんて、明らかに異常な特別待遇だというのに。


(この子は……一体……)


 その特別待遇の所以。その関係にはどんな意味があるのか考えていると美鶴ちゃんが言った。


「──アオは心配性で、いつも私を見てるんです」


 美鶴ちゃんはぽつりと呟いた。その言葉と表情には嬉しさや困ったような呆れが混じっているような気がした。


「夢の中だけじゃなくて、いつでも……水の音がする時とか、風が吹いて木が揺れる時とか。ふとした瞬間に、優しい気配を感じるんです。……輝達は私に友達がいないっていつも心配するんですけど、私にはアオがいるから一人でも全然平気なんです」


 彼女の声に恐れや不安の色は見られない。むしろ、誇らしさや、当たり前のことを話しているような素直ささえある。……その姿に少しだけ不安を覚える。


「……美鶴ちゃん」

「大丈夫ですよ、お兄さん。アオは怖いドラゴンじゃありません。今日だってお願いしたら、ちゃんと助けてくれましたから」


 俺の不安を見抜いていたのだろうか、その瞳は曇りなく真っ直ぐ俺を見つめていた。彼女が龍を疑うことなどない。彼女は龍との絆を信じている。だが……彼女は分かっているのだろうか? 


 人と彼らの考え方は違う。人は弱く、助け合うことで生きている。だから無償で誰かを助けることもあるが……彼らは違う。彼らはいつだって願いを叶える対価に重大なものを求める。無償で願いを叶えてくれる存在などではないのだということを……。


(……龍に選ばれた子。やはり、美鶴ちゃんは──)


「──そっか。そういうことだったんだね」

「え?」

「ごめんね……盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、話聞こえて来ちゃって」


 結衣が救護室から出て来て姿を現した。いつもと変わらない落ち着いた顔に見えたが、少し元気がないようにも思える。気の所為には思えない。


「結衣、繭子ちゃんは?」

「今は少し眠ってる。やっぱり、ちょっと疲れてたみたい」


 結衣は繭子ちゃんが寝ている部屋へと視線をやりながら言う。


「まずは……辰巳くん、ありがとう。辰巳くんが連れ帰ってくれなかったら、繭子は──」


 言葉が途切れ、結衣はぎゅっと唇を噛みしめた。どうしても想像してしまうのだろう──間に合わなかったかもしれない、もしもを。最悪の事態もあったと理解しているからこそ出てくる感情だろう。


「結衣……結衣が悪いわけじゃない。予想することなんてできなかった。それにちゃんと無事だったんだから」

「でも……私の責任なの。……私なら予想出来た。私は繭子の師匠なのに……繭子の気持ちも分かっていたのに、何もしなかった」

「えっと……?」

「……繭子は私に認められたがっていたから。それなのに私は……中途半端に力だけ与えて……諦めるのをただ待ってた。だから、今回のことは私のせい」

「それは……」


 彼女の表情は暗く、その碧い瞳には強い自己批判の念が宿っている。


 俺は何も言えない。彼女たちの問題は彼女たち自身にしか解決することは出来ない。傍から見ていて仲睦まじい師弟関係というか年の離れた姉妹のようにも見えたが……二人にしか分からない事もあるんだろう。


 ただ……以前、結衣はこうも言っていた。


『父親が弟子にと望んだ。見えるがあまり強い力ではない。中途半端な力では逆に危ない』


 もしかしたら危険な目に合わせたくないが故に、弟子の教育には消極的だったということなのではないだろうか。理性では霊に関わることを諦めさせるべきと訴えているが、情が絡むことで難しい問題になっている。


 だからかもしれない──俺には結衣の選択が正しいとも間違っているとも判断がつかなかった。


「あの、結衣お姉さん……ひとつ聞いてもいいですか?」

「え? えぇ」


 不意に美鶴ちゃんが口を開き、結衣は驚いたように目を瞬かせた。


「──繭ちゃんは……失敗したから、もう弟子でいられなくなるんですか?」


 一瞬、空気が止まった。結衣の瞳が大きく見開かれ、視線が揺らぐ。


「……そ、それは……」


 言葉が喉の奥で詰まった。


 俺は黙って二人を見ていた。……俺も少なからず師弟という関係を知っている分、彼女達師弟間のことに軽々しく口を出すことは憚られた。


 けれど美鶴ちゃんの問いかけは純粋な疑問で──それ故に結衣の心に真正面から突き刺さっていた。


「私、横で見てて思いました。無茶をしたのも、霊を助けたいって思ったのも、全部、結衣お姉さんに褒めて欲しかったからなんじゃないかなって」

「……っ」


 結衣の表情が歪み、肩が小さく震える。碧い瞳は美鶴ちゃんを直視するのを恐れるように伏せられていた。


 ……わかるよ、その気持ち。子どもは純粋だ。だから時々、平気な顔して心を刃物でぶっ刺してくる。


「……そうね、分かってた。あの子がどうして無茶をしたのかなんて、最初から」

「なら……」


 声は低く、震えを含んでいた。


「でもね……私が認めてしまったら、褒めてしまったら繭子はもっと先へ進もうとする。もっと危ないものに手を伸ばそうとする。自分を追い詰めて……いつか取り返しがつかなくなる。今回のこと以上に」


 それが結衣の苦悩。


「いいえ……ちゃんと向き合わなかった私のせいね。私なんかを慕ってくれるあの子が可愛くて、ずるずると話し合うのを先延ばしにしてきた……ほんとに、師匠なんて呼ばれる資格ない」


 その言葉には、自責と悔恨、そして愛情──長年の葛藤が込められているようだった。


「っ、待ってください! 繭ちゃん、結衣お姉さんのお話してる時すごく楽しそうでした! 大好きで、憧れてたんだと思います! もっと修行して、もっと力をつけて結衣お姉さんに近づきたいってっ。だから結衣お姉さんも、繭ちゃんの気持ちにもっと応えてあげれば──」

「美鶴ちゃん! 待て、それ以上は……」


 結衣の言葉から諦めと、ある種の覚悟を感じたのだろう。焦ったように美鶴ちゃんが言葉を挟む。だが、美鶴ちゃんは他所様の師弟関係に踏み込み過ぎている。それはあまり良くないことだ。


 俺は咄嗟に美鶴ちゃんがを止めようとしたが……


「──美鶴ちゃん。繭子のこと考えてくれて、ありがとうね。でも、どのみち……今のままでは繭子は巫にはなれないの」

「それは、どうしてですか……?」

「繭子には……巫として認められる……《《巫病》》の兆候がないからよ」

「……フビョウ?」


 美鶴ちゃんがきょとんとした顔をして、結衣を見た。


 当の結衣は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言葉を紡いだ。


「巫病──それは古くから、巫となる者が必ず通るとされてきたもの。高熱や幻覚、原因の分からない苦しみ、あるいは蒙が啓かれたり、予知夢や神秘的な体験をしたり……それらの《《経験》》を経て初めて神に選ばれた証と認められ、巫としてのスタートに立てるの」


 その声音は冷たいわけじゃなかった。ただ、どうしても事実を受け止めるしかないという痛みが混じっていた。俺は思わず息を呑んだ。


「それがない者は……どれだけ修行を積んでも、力を得られない。本当の巫にはなれない」


 結衣曰く、巫に限らず、イタコやノロ、ユタ──シャーマンと呼ばれる存在は日本に限らず巫病の発症をイニシエーションとしている一面があるのだという。


 そして、と結衣は続ける。


「私は幼い頃、巫の力を発現させると同時に大きな犠牲──肉体や心の機能を削るような代償を払ってる。晃さんもそれは同じだと思う……そして──美鶴ちゃん、あなたの場合もそう」

「わ、わた、しも……?」

「あなたは龍に選ばれて友になった。それに夢を通じて会っているということは、お告げを受けているのと同じ。……美鶴ちゃん、あなたは今もその影響を受け続けているの。もしかしたら今後……私達のように何か代償を払わなければならなくなる時が来るかもしれない」


 美鶴ちゃんが驚きに目を丸くした。……確かに、あの龍──速秋津淵青主と繋がっている彼女なら納得だ。しかし、代償を背負わされるかもしれないというのは無視出来ない話だ。やはり……あの龍にはもう一度会わなければならないだろう。


 ただ……犠牲の話を抜きにすれば、結衣が言うには美鶴ちゃんの方がシャーマンとしての土台はしっかりしているらしい。


 結衣は視線を伏せ、俯きながら言葉を続けた。


「けれど、繭子には……そうした兆候が一度も現れなかった。巫病の重い軽いはあっても、ほとんどが思春期までに起こる……でも、繭子はもうすぐ十五歳。残された時間はもう少ない……」


 自分の身は守れるようになるかもしれないけど、このままでは繭子が望むような人を助ける力までは持てない──結衣がそう断じると、美鶴ちゃんは言葉を失ったように固まった。唇を震わせながらも、言葉を探している。


「……だから私、思ってたの。無理に私たちみたいな巫を目指さなくてもいい。普通の子として生きた方が楽だって」

「で、でも……繭ちゃんはっ……」

「分かってるわ。繭子が目指してるものくらい」


 俺は黙って二人を見ていた。見ていることしかできなかった。……正直、胸の奥には苦いものが残る。


 結衣の言っていることは理屈としては分かる。けど、あんなにも結衣を慕っている繭子ちゃんの気持ちを考えると、どうしようもなく切なさが込み上げてくる。


 だから……他所様の師弟関係と分かっていても、どうしても口を挟まずにはいられなかった。


「結衣……巫病を経験してないと、どうしても巫にはなれないのか?」

「もちろん、名乗ることは出来るよ。でも……巫病を経験してないと巫としては未熟というか、未完成だと見られるからね……」

「結衣お姉さんは、繭ちゃんを巫にしてあげることは出来ないんですか……?」

「……力のある巫には、他人を巫とすることの出来る人もいるらしいけど……私には出来ないの」


 結衣の声には、師としての無力感が滲んでいた。そして、結衣の言葉に、美鶴ちゃんも俯いたまま言葉を失っている。俺もまた、胸の奥に引っかかるものを抱えていた。


 ──巫病。


 確かにそれは巫、シャーマンとしての証なのかもしれない。ただ、巫病が神秘を体験することと言われると酷く曖昧に感じられた。……俺なんか12年異界にいたんだが? もはや神秘体験を通り越して日常だった。俺はゆっくりと口を開いた。


「……結衣。巫病を経験するってのは、確かに大事なのかもしれない。でも、それって神秘に触れた体験をどう解釈するかの問題なんじゃないのか?」

「……どういう意味?」

「俺は異界で十二年暮らした。そこで散々見てきたし、感じてきたんだ。人外達と一緒に生活して、本物の神の気配も感じた」

「神の気配……」

「それに、そんな異界で暮らす日々の内で、確かに俺の中で《《何かが変わってゆくような感覚》》があった──あれが巫病と同じようなもんなんじゃないかって」


 変わってゆく感覚──俺にとってのそれは、人をやめざるを得なかったということ。


 巫病というのは精神的、肉体的な変容を意味するのかもしれない。


「どんな変化が起きるかは分からないけど……もしかしたら不具になるかもしれないし、キツネ憑きになるかもしれないし、はたまた人外に成り果てるかもしれない。……程度は違えど、人が異界の理に触れたことの証──感覚の変化が巫病って言われるんじゃないかなって俺は思うんだ」


 結衣の眉に皺が寄り、表情が険しくなる。俺の言葉の意味を吟味しているのか。しかし俺は待たずに言葉を続ける。


「繭子ちゃんは今日、『水底』っていう黄泉に近い場所に近づいたけど、それで精神的な変容が起こる可能性もある」

「それは……」

「……でも、それでもしもダメだったら俺が繭子ちゃんを《《向こう側》》に連れてってやることも出来るかもしれない」

「……っ、でも、辰巳くん……それは──」


 異界に触れさせることで精神の変容を促す。何が切っ掛けになるかは俺にもわからないけど……それで本人が何かを掴めれば、それは巫病と同じ『証』になるんじゃないだろうか。


 結衣は動揺を隠せない様子で、強く唇を噛んだ。それがとんでもなく危険だと分かっているからだろう。異界に触れることは、人によっては戻れなくなるほどのリスクがあると、知っているように見えた。


 対して、美鶴ちゃんは俺を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、希望の色が宿っている。……危険性を正確に理解しているようには見えない。


「無茶はしないし、させない。俺もそこまで馬鹿じゃないしさ。……けど、もし繭子ちゃんが本気で、その気があるなら──考えてもいいと思う」


 俺の言葉に、場に重苦しい沈黙が流れる。


 繭子ちゃんはまだ救護室の中で休んでいる筈だが、この提案をどう受け止めるのか。そして結衣が、師としてどう判断するのか──それが結衣の肩に重くのしかかっていた。


 結衣は沈黙したまま、身体の前でぎゅっと両手を組んで握りしめていた。碧い瞳は俺を見返すことなく、ただ床に落とされている。


「……辰巳くんが、異界がどんな場所か知っているのは頼もしいよ。でも、怖いの。異界は安易に人が踏み込むべきじゃない……十二年も生き延びられた辰巳くんが《《例外》》なんだって、私分かってるから」


 その声音には震えが混じっていた。


「でも……結衣お姉さん。繭ちゃんは、きっと諦めないと思います」


 その真っ直ぐな声に、結衣は苦悩するように言葉を失った。俺は沈黙の間を埋めるように口を挟む。


「……結衣が反対するなら俺は何も言わない。でも、異界の端っこに触れて、それで繭子ちゃんが何も掴めなかったなら、繭子ちゃんも、《《結衣も》》諦めがつくんじゃないか?」


 そう言うと結衣は俺を鋭く見返した。一方で、その碧い瞳は強い光を宿しながら揺れてもいる。


「……それ、本気で言ってるのっ? 繭子を危険に晒してまで、巫にさせるのが師として正しいとっ? 私が意味もなく諦めさせたがっているとっ? 巫病で苦しむことだってあるのにっ……!」


 結衣から初めて向けられる険のある声音だった。その碧い眼に責めるような意思が垣間見える。……結衣を怒らせるつもりは無かった。余計なことを言ってしまったみたいだ。でも……


「正しいかどうかなんて弟子のいない俺には分からないし、結衣が諦めさせることに拘ってるとも思ってない。ただ……逆だよ。結衣は期待してるだろ?」

「……っ」


 繭子ちゃんという自分に近しい人物が、自分と同じ階梯に上がって来ることを。背中を預けられような、右腕になれるような《《仲間》》になってくれることを。


 ずっと期待している。可愛がって、応援してきた。だから諦められないでいる。俺には二人がただの師弟関係ではない、仲睦まじい姉妹のようにも見えていたから。


「だから、結衣と繭子ちゃんが望むなら、手を貸したいって、それだけだよ。選択肢の一つとして……気に障ったのなら、謝るよ」


 結衣はしばらく黙り込んだ。その手は震え、爪が掌に食い込むほど強く握られている。


「……ごめんなさい。辰巳くんにあたってしまって」

「そんなことないよ。師弟関係のことなんて誰にも話せないだろうし……でも、俺に何かできることがあれば──」

「うん……ありがとう」


 そう、小さく絞り出すように──


「……少し、時間を貰っていい? 繭子と話して、本人がどうしても望むなら……その時は、私も覚悟を決めるから」


 結衣は悩ましげに言葉を紡ぎ出したのだった。


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